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【1258】ウラとオモテのメビウス雌雄進化論 [ビジネス]

 明律大学女子部の学生ちゃんたちに囲まれた裁判の判決、法廷の実際とどのくらい整合するものなのかは知らないが、結論とその主旨が一般視聴者に解りやすく語られていて感心した。

 法律として書き置かれた『情報』を関係者一同が受信したとして、情報生命体・人間は『自由ナル心証ニヨリ』実行動を選択する。
 社会組織のみんなで合意した『情報』を、みんなが『これでいつでも誰でもハッピーだよね』と合意した当初のコンセプト通りに運用できているかどうか検証し、社会組織としての行動選択を率先・指南するのが元来の裁判の仕組みだと思う。

 この今季朝ドラ『虎に翼』では開幕早々『女のくせに』という台詞が頻出しているが、こういう時代、実は『男のくせに』という台詞も同じくらいしょっちゅうチマタを飛び交っていた。
 前回述べた通り、法的にも日常生活的にも男女の扱いに不自然な差がついていた時代なのは間違いないのだが、その反面ちゃんと(?)問答無用の口封じで男に見えやすい高負荷をかけておいて反論させない社会通念も共有されていたと思う。

 本人的にはマジ不可抗力・孤立無援の苦境により不本意な醜態をさらす立場に甘んじていても、オトコは弁解や不満を一切聞いてもらえず『男のくせにだらしない』と切り捨てられる役回りにあった。まあそれも『世の中そんなもん』で逆らわず収めておくのが、オトコの処世術のひとつだったのだ。
 映画のタイトルにもなった『オトコはつらいよ』という台詞、改めて有名すぎるあの映画のイメージから離れてただの日本語として聞くならば、そんなこんなのオトコが社会の重圧に耐えて洩らす泣きの一言だと理解できるのではなかろうか。
 オンナが何かにつけ不利を強いられるのがマズかったのか、オトコが持ち上げられつつクチより先にムチを入れられるのがマズかったのか、とにかく社会の男女差の軋轢は、ただの一方的ではなく両方向にあったっちゃあったのだ。

 10年ちょっと前だったか『ダイバーシティ』という未知の単語を前に、ナニをどうしていいのかさっぱり判らなかった日本社会のあちこちで、やたらめったら『オンナの方が優れている』と言いたがる風潮が公共言論で大流行した。ススんでる良識派を装い世論に向けて点稼ぎしたい意図ばかり見え見えの乞食漫談家どもが、さも論理的な根拠アリのテイで機会を狙ってはよくやらかしていたものである。
 別に男女のどっちが優れているとする判定を社会一般的に定着させたいなんて誰も思ってなくて、あからさまに下心が露見していたその心象に自分で気付く程度の知恵はあったのか、結構すぐに廃れて静かになったのだけれど。

 どっちが優秀だとか、優遇されるべきだとかいう問題ではないのだ。
 物事の道理として人間に男女の差異があるのなら、それを文明の仕組みでどう扱うのが社会組織のみんなにとって生産性高く幸福なのか…という問題である。

 釣りの好きな人なら御存知かも知れないが、サカナには生涯のうちに性転換する種が結構いる。私は小学生の科学読み物だったか何かで、マグロだかハマチだかブリだか、おっとハマチとブリは同じ魚だったっけ、とにかくそういうお馴染みの種でも性転換するヤツがいると知った。
 新米の漁師が『若い個体はオスばっかり、大きくなるとメスばっかり、一体なぜなのだろう?』と不思議がるシーンから始まるその内容が、大人になってからもずっと記憶に残っている。

 多細胞生物の世代交代は、もともとサンゴやカタツムリなんかの雌雄同体生殖による単体複製に始まり、のちに遺伝子配合の組合せを多様化させた雌雄異体の配偶方式が、より環境適応に融通性を拡張し進化を加速させたと言われる。
 なるほど成長期で体力にあり余る若年層が激しく遺伝子の混交を促進するオスになり、安定した身体構造を完成させた成熟層がメスになるってのは、地球上生命の自然な淘汰のなりゆきとして理に適ってるよなあ。
 もしかして人間にもその特性の痕跡は残ってて、頑丈で大雑把でバカでデタラメに動く若いオトコと、一足先に大人になって安定した生活を志向するオンナがいて、オトコの方がさっさと賞味期限切れになって寿命を終えると。なんだか納得いくじゃないか。

 もっとも、これでハナシはまとまってくれず、サカナの群れの中で雌雄個体数が大きく変動すると、どっちからどっちへの制約なく一定数が性転換して群れの雌雄バランスを保つという話も後に聞いた。
 雌雄性転換が可逆だとすると、そういった種の魚類はそもそもから全数がキホン両性具有の身体構造を持っていて、適宜に雌雄どっちの機能臓器を活性化させるだとか、そういう仕組みで生きていると考えるのが妥当だろう。

 私の知る限り、カエルやイモリなどの両生類、トカゲやカメなどの爬虫類、もちろん鳥類に哺乳類と、海から上がったあとの脊椎動物たちに性転換する例は無い。わざわざに生まれ落ちた時の雌雄を維持したまま一生を通す方式に移行したのは何故だろうか。

 例えば身体構造を雌雄転換するのは非常にリスキーな生物学的タスクで、種族保存の生命原理的にバカにならないくらい、そこの局面の個体喪失率が高かったとか。
 昆虫たちを見ていると、幼虫からさなぎを経て成虫に羽化して飛び立つまで、決して安心安全のステップアップ保障に守られている訳ではない。許容外の環境変化に打ちのめされたり外敵に捕食されたりしなくても、身体構造を刷新する変態そのものが相当な淘汰のふるいになっており、何割のオーダーで変態に成功できずに落命する【13】

 焼き魚や煮魚を食っていると、あの頭部構造で魚に大容量ストレージ機能や高度演算処理機能があるとはあんまり思えない。いっぽう地上に上がってからの脊椎動物たちは、まず遠目に一見しただけでも、首から下と分離して単独持ち上げた『中央情報センターとしての頭部』が形成されている。
 交錯する体内通信網トランポリンを俯瞰するための、機能性レイアウトだ【628】
 この情報由来のハードウェア基本レイアウトにより、ソフトウェア的にも『体内情報処理の円錐モデル』【1171】が実現し、『意識』『主観』『自我』を備えた高度情報生命体への進化の道が拓けたのだろう。

 そして地上の脊椎動物たちに性転換の事例は聞いたことが無い。
 首から下をアタマで、いや目から下すべてを脳で俯瞰するハードウェア構成とその配置が、情報処理由来としては完成度が高く、そこに収まるソフトウェアも多機能・高機能になっていたりするのだが、お陰でちょちょいとスイッチングして雌雄双方に転用が利くような共通構造はもはや不可能になった…と、そういうことではないかと思う。

 昆虫たちも性転換の事例は聞いたことが無いけれど、そもそも短い寿命の間に幼虫・さなぎ・成虫と変態して交配して老衰死だし、わざわざの性転換よりは単純軽量でロバスト性高い身体構造の特化を進め、雌雄ひっくるめた総出生数を増やす数量作戦が功を奏したのではないだろうか。

 ここまで生命の歴史ならぬ『雌雄の歴史』について考察すると、人間ですら雌雄差は遺伝子的な視点で見るとほんの僅かな違いだという説明にも納得が行くし、性徴ファクターがオトコなりオンナなり一方に揃わず混在してしまう『LGBTQ』という境界領域の個体が一定数発現する可能性も理解できる。
 恐らくLGBTQなる社会層はヒト社会に限らず他の生物種にも存在しており、圧倒的多数の平均的個体が成す雌雄二律社会との折り合いに、ただならぬ苦労を強いられているのであろう。

 同胞を取りこぼさない『多様性社会』の動機はあって自然だと思うが、多数派のなりゆき平衡点もまた自然なバランスの結果である。そこを理解せずに『不便を強いられてきた少数派の、新時代の主権拡大』みたいなイメージで突走ってしまうと、組織生命力の内乱となり良い結果には向かないと思う。

 まあいいや、明律大学女子部の奮闘っぷりが楽しみだ。では今週もグッドラック!
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