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【1257】法治国家組織ビッグバンの光と影 [ビジネス]

 今季NHK朝ドラ『虎に翼』は昭和ひとケタ年のスタートだから、また戦争を挟む。
 良いことだと思うよ、明治以降の日本社会史について空白だった、昭和40年代の欠陥教育制度に甘んじた世代としては。
 日本の学校教育が歪められ、日本国が民主主義議会制を選択して国力構築を志した記録情報を意図的に封じられた時代であり、戦後日本が『自己管理に無関心な群衆』に向かってひたすら弱体化する元凶となった黒歴史だ。

 日本社会における女性の主権が、事実上まだまだ認められていませんでした…という社会情勢の描写から物語が始まったが、実は昭和40年代の高度経済成長期にあっても『オンナのくせに』という台詞は定番中の定番であり、これを持ち出された女性はその正否を問うような酔狂な面倒を避け、とりあえずにでもその価値観・世界観に沿う処世術を身に付けておくのが賢いとされていた。
 ま、我らがニッポンの社会的生産力はオトコが生命力を擦り減らしながら切り回すものであって、他の全てはその至上目的のための付帯作業という扱いだったからなあ。
 実際その勢いがあったから、華もなく必要最小限に質素な国内市場で流通するだけの『ボロくてダサい国産品』の貧相なイメージが、みるみる世界市場の大衆を根こそぎ動かし『先進技術と高品質のメイド・イン・ジャパン』に裏返っていった。
 実に野蛮に乱暴に、加工貿易・第二次産業に国力を全面投入していたのだ。

 そうそう、当時の記憶について横道を少し。小学生時代に家族で兵庫県北部の城崎(きのさき)に旅行したことがある。温泉で有名な、あの観光地である。
 今の時代にすれば想定外レベルの『ところが』なのだが、観光入浴仕立ての広い湯船は男湯だけにしかなかった。外湯も数軒、調子に乗って父とハシゴしたものだが、男湯と女湯が同じ造りになっていたところは、果たしてあったのかなあ?
 母と姉は、宿に備わっている一般家庭並の浴室に入っただけと記憶している。

 子供心にせっかくの旅行で訪れる男女両方の客を迎えておいて、この差にはちょっとあんまりな不自然を感じたものだ。当時のことだから『それが当たり前』として、あからさまな不満も出なかったのだろうけれど。
 これが数年後には時間帯を区切って男女の受け入れを交替するなどの工夫が目立つようになり、そのうち大規模な改装・改築が進んで男女等しく迎える宿屋文化が定着していった。いつも城崎旅行を思い出しながらビミョーに安心したものである。
 今の若い人たちにはこの世の果ての外側の話だと思うけれど、まだ50代の私がこんな実体験の記憶を残しているくらいだから、いま我々が生きている日本社会は、表面的に流通している社会整備の仕組みの底に、こんな前時代的な質の精神構造がまだ染み込んでいて、こびりついていると思って間違いはない。

 さて朝ドラに話題を戻して、トラちゃんは『法律とは何ぞや?』の疑問に奮闘中だ。
 これを巡っての会話がなかなか面白かった。

 やる気満々確信的に『法律とは私たちが守らなきゃいけない規則で…』と切り出した出鼻を、いきなり男役ちゃんに『法律を校則か何かと思ってんの?』とくじかれた。
 帰宅して先に法学に勤しんでいる下宿生くんに尋ねたら、今度は『法律とは自分で見つけるもの、自分なりの解釈を得ていくものと言いますか…』と、何とももどかしい回答である。
 下宿生くんの表現はかなり当たってると思うけど、なるほど若いトラちゃんならフラストレーションが溜まりそうなところだ。

 結論から行くと、法律とは『情報』である。

 ヒトの集団があって、そこにステージ・パフォーマンスのハッピーなコミュニケーションが自然発生して、せっかく組織生命リビドーが起動して『ただの群衆』がイノチを得て『生産性組織』になったのなら、そこには『お互いさまのお陰さま』で知力と体力を合わせた進化が同時多発的に始まる。
 みんな暮らすその場をハッピーなコミュニケーションの応酬で持ち合い埋め尽くし、個々人でできないことを協力して実現する組織力。それを維持管理するための、みんな共通の思考基準・行動基準の概念が発現してくることになる。

 みんなでその内容を等しく理解して持ち合うには、組織空間内で共有されている意思疎通のコミュニケーションツールつまり言語により、まず『情報化』するしかない。
 次にここから、その時その場に・クチから放って・耳で聞いて・アタマで覚える・だけの刹那性を取り払って、みんなに等しく響く=受信した誰もが等しく思考判断や行動選択の現実的局面に反映させられる、そんな文言を工夫してひとつ書き決めて一元化し、ブツとしての記録媒体に残す…という順番になる。

 以上こんな経緯があって、詰まるところ日本社会における法律とはただの日本語文章であり、それを記録した書面に過ぎない。要は『情報』である。

 『情報』は元の現実も途中経緯も関係なく、誰にでも、どうにでも組めてしまう。
 どう組んだところで、受信者がコトを動かしてようやく社会的な意味が備わる。

 しかし、民事訴訟法に『自由ナル心証ニヨリ』と記載があるシーンには驚いた。『ごんべんに登る』を当用漢字の『証』で当てちゃったけど良いのかな。
 判決に必要な弁論を重ねて、それらも結局は『情報』なんだから、裁判では組織の誰もが納得できることを志してきっちりやらんかい…の文章はあると思うんだが、こんなにのびのびとした表現で記されていたとは。現行表記もこれと同じままなのだろうか。

 『ガソリン販価がリッター160円を超えたら、ガソリン販価への課税を引き下げる』

…と日本社会は経済的な思考検討を経て、根拠を持って意思決定し、法律のカタチでそれを定めた。だが法律が『情報』に過ぎないがゆえ、それを実行動でコトとして動かさなければ、まさにいま御覧の通りだ。
 コトを動かさずにナニをしているのかの議論は今さら繰り返さないとして【1007】、要は経済原理に則った思考検討をしたのに、それを反映させて自国経済の通貨管理を現実として動かせていない。時間の浪費、国力の損失である。

 だから国際経済市場で日本円がみくびられ、円安は底無しの沈下が止まらない。
 インバウンド消費が賑わうのは、他国視点で日本円の価格表示が格安だからだ。

 この宇宙が『無』から始まったのだとすると、あらゆる物質が生成するのと同時に、鏡像のように『反物質』が生成しているはずだとする学説がある。
 我々人間は、長らく『ある』『存在する』を取り払って『無』『ゼロ』の概念を発明するところまでで止まっていたのだが、それは表裏あるうちの片側しか見ていないだけなのだと。

 『ただの群衆』から始まった日本国組織には、体験記憶を蓄積して構築する『理性』『知性』だけではなく、それらと逆方向の『反理性』『反知性』みたいなものが生成して、どこかに蓄積しているのかも知れない。

 うん、今季の朝ドラも面白そうだ。貧しくてこういうことをマジメに考えられなかったのが、高度経済成長期の日本社会だったのだと思う。
 では明律大学女子部のオンナたちの理知性に囲まれた法廷に、グッドラック!
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