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【1016】年の瀬の待合室に足りなかったモノ [ビジネス]

 わああ、暮れも押し迫って来たぞ…と言いつつ、あんまり良い事とも思えないが、昨年に続いて例年の年末年始に比べれば、賑やかさがまだまだの感じはする。
 いつまでも『コロナごっこ』をやってたいバカが多すぎるってことなんだろうが、厳しい言い方をすれば、まだそんなことをしていてどうにかなると思い込んでいられるからこの実情であって、ならば結局どうなるかを判って青ざめるところまで、行き着くところまで行くだけの話だ。バカは死ななきゃ治らないのかも知れない。

 楽しい系の話題ってナニかないかなあ…なんて思っていたら、楽しいどころか今度は大阪の中心街で、他殺目的なのか自殺目的なのか、大勢を巻き込んでの雑居ビル放火事件が起きてしまった。亡くなった方々は直前までまさか自分の命が途絶えるとは夢にも思っていなかったはずで、御遺族ともどもその無念を思うと胸が痛む。
 この手の事件が起こると、あほが専門家の名札ぶら下げて『なぜこんな行為に到ったか』をネタに、いかにも考えているフリをしながら延々と無駄に漫談して遊ぶのが通例だが、結論は最初から決まっている。
 この世に生きる人間ひとり、そんな大それた破滅を自ら選ぶような絶望に追い込まれた理由を、そんな窮地を遥か彼方の別世界にしか思わないような立場の日和見ヒマ人が弄んで、取り合う価値のある情報になんぞ行き当たるワケがないのだ。以上。

 凍てつく冬の夜空のもと、それでも孤独に耐え過ごして何かやりたいことがあるうちは、明日を迎えた方が少しでも良いコトあるかも知れないと思えるうちは、人間その無事な明日の方を選ぶものだろう。そうしなかったんだから、明日迎える日本社会のことを本気で『必要ない』と決断したんだろうな。

 とにかく自分が望んで実現を試みる大団円の将来ビジョンがある限り、自分自身も周辺社会も破滅させる訳には行かないはずだから、どんな苦境に甘んじてでも反転攻勢のチャンスを待つことはできる。少し前に確かホリエモン氏だったか、『結局はやりたいことのあるヤツが強い』とどこかで語っているのを目にした記憶があるが、まさにその通りだと思う。
 ささやかなレベルから大それたレベルまで、叶えて叶って楽しく面白いモノ幸せなモノに向かって、コトを進めたりコトが進んだり一喜一憂できるだけで、当人にとっては掛替えのない活力の源泉となるのだ。

 以前『できる』と『やりたい』は日本語としては区別できてしまうが、人間の自然な稼動スタンバイ状態としては同一事象を指しているのではないかと述べた【802】
 恐らくこの推察は当たっていて、文明社会でさまざまなお仕着せ価値観や世間映りの良し悪しみたいなものが『ヒトにとって望ましいモノ』の共有情報として刷り込まれて来ない限りは、人間ジブンに身ひとつでできもしないことを羨望したりはキホンしないのではないかという気がする。寿命を限られた生物として、そんなヒマがあったら、できることを実現して満足に到達した方が断然効率が良いからだ。

 ここで長らく私が若い人たちに対して『勉強しろ、身体を動かせ、いろんなことに噛みついて体験を積め』と盛んにけしかけるのには、大きくふたつ理由がある。
 ひとつは成長期に考えまくり、動きまくり、目前の現実に数多くの情報を見出して絡みまくり、結果がどうあれ七転八倒の大騒ぎをすることで、精神的にも体力的にも最高出力値を高めておくためだ。『できるコト』の許容レンジを、人材の素性として存分に拡張しておいて欲しい。
 もうひとつは、そこで不可抗力・自分以外の支配律と組み合う場数を踏んで、『物事に我を通す』という粗野で原始的な本能に抑えを効かせるメンタリティ土壌を築いておくためだ。森羅万象・大自然相手も、社会組織の自我・人類文明相手も、大きな総合システムとして個人の誰の思惑にも従わず、その大いなる原理に導かれて作動が決まる。あらゆる事物が自然に流れる方向の存在を認め、それに観念しつつも逆らわずスムーズに制御する視点としての理知性を備えておいて欲しい。

 初等教育の段階で、昔話や童話に触れなかった人はいまい。そして、そこで語られるストーリーの本質に、本気の本気で納得いかず真剣に懐疑視・否定視を決め込んでいる人もいないはずである。
 詐欺や強奪に暴力行為などで判りやすい設定がなされた悪役は、つまるところ『世の自然な流れを私利私欲で脅かす傍若無人』という社会的特性を象徴しているとして良かろう。社会に出る前段階の子供たちは、『自分の好き放題』という衝動を胸の内に自覚しつつ、それをまんま直接実行に移すと『みんなの迷惑』になり、それは結局自分にとっても嬉しくない、不幸な気分でしかいられない社会空間に帰着するという因果応報まで、滞りなく習得する。まずはそういうことだよな。
 幼少期にみんな当たり前のこととしてごく自然に受け容れるのに、わざわざいろんなストーリー展開のお話に組んで繰り返し教え込むという御節介な念押しインプットが、古今東西で全く例外のない社会常識にまでなっているというのは、いざ考え直してみると興味深い事実だ。

 そして確かにいいオトナが、コドモでも解るような不自然な邪心を起こしては、無駄に寿命を浪費し社会組織の進化を逆戻りさせており、これもまた古今東西いつまで経っても解決しない。
 つまるところ『できるコト』が頭打ちになり『やりたいコト』を見失った幼稚オトナが、『我を通せるコト』を血眼で探して『共通認識の情報としてトクとされていそうなコト』を奪い合い、『トクな自分は他人より優良な状態にある』とする物証を掻き集めて競うのだ。もちろんこんな幼稚オトナが幸福感に到達することは永久にない。
 幼稚オトナは、総人口に対して統計的に一定数どうしても発生する訳だが、こんな惨めな構成域に混じらないよう、若い人たちには勉強して、身体を動かして、多くの体験を積んで欲しいと言っている。

 幼稚オトナはとうとう『民主主義は現代社会の正解なのか?』とまで吹き込みにかかり始めた。これはつまり『我を通せる誰かに皆で言いなりになる世の中の方がラクかもよ、な?な?』とそそのかす『国民主権の突き崩し』を意味する。
 いま税金資本の公金注入でしか存命できなくなっている経済単位が社会に多過ぎるのだが、とりあえず若年層・現役世代の人たちは気を抜かず手を抜かず『できるコト』で自分の人生を支える方策を、自己防衛として確立しておく心構えが必要だろう。自分のチカラは、解って努力して自分で鍛えるしかない。

 『できるコト』は現実になるから『やりたいコト』なのであり、その実現に向かって自力の一歩で近づいて行けるから、達成感と幸福感に恵まれた時間が過ごせるのだ。
 『親ガチャ』なんて言う前に『自分ガチャ』だと思うぞ。では頑張って、御幸運を!
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