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【952】車輪数別ウラ技交通安全の必修テキスト [ビジネス]

 おいおい特定の地域にせよ業域にせよ緊急事態宣言の一部緩和が可能だというなら、国民の生命の安全に引き換えるとして税金を注ぎ込むような全国一律の重大性は無いはずだが?
 まあいいや、せっかく始めた機会に単車ネタをもう一発やっておこうか。

 単車に乗って最初に気づくのは『四輪に比べていろいろ手間がかかる』ことだ。
 自家用車にしろバス・タクシーの公共交通にしろ、ドアから室内に入ったら立つも座るも非・乗り物と本質的な違いは無くそのままでいられる。居間でソファーに腰を沈めたり、ダイニングで食事に対面することさえ叶うなら、走行Gを喰らうだけで何の苦も無く世間の自動車に乗ることができてしまう。
 もっとも、運転する立場だとホントは違う気構えが良いんですけどね【494】

 初めてのヒトが自動二輪に乗っかって何も考えずにブレーキをかけると、車体は停まろうとするが自分は慣性に乗って前へ出るため、燃料タンクの後端が意外な勢いで股間に割り込んでくることに驚くはずだ。これを避けるため両膝でタンクを挟んで、下半身の運動系を車体の系に一体化させねばならない。これが『ニーグリップ』と呼ばれる操作技法である。
 ニーグリップしっ放しでも走れるし教習所はそう教えるけれど、それなりにチカラも使うし、乗り慣れてくると必要な場面だけ膝下を固めれば十分だと判ってくる。

 ここに自動二輪の運転の、四輪の運転との決定的な違いが顕れているのだ。
 四輪は乗った瞬間から特別に意識もせず、乗員と車体の運動系が一体化する。いっぽう二輪では運転者の運動系は身ひとつ単独で空中をかっ飛んでおり、自分がどっちへどう飛ぶかを決めるために、自分とは別系統にある車体を股の間であれこれ切り回して操作し、結果的に自分自身の加減速や旋回を『車体を介した対地の相対運動として』実現するのである。
 だから制動時は膝下を単車に固定し体重を目いっぱい後ろに退いて、全荷重を前輪の接地点に集中させて突き刺すのだし、旋回したければ体重を前後輪の通過軌跡よりインコース側に落とさないとダメなのだ。
 昨今そこらの路上で見ていても、エンジンで走行する無人の単車にぬいぐるみをポン置きしたかのように、頭の動きが路面の凹凸を正直に拾ってしまっている光景をよく見かける。『単車の運転原理を心得ずにぼんやり身を預けてしまっている』乗り方なので危なっかしくてしょうがない。死ぬぞ、ホンマに。

 ちょっとややこしいのがスクーターで、二輪でありながら両足を揃えた食卓着座で済んでしまい、ニーグリップをしようにも股の間に車体が無い。これはぱっと見いエンジン駆動の二輪車でこそあるが、自動二輪の運動性からは単純な引き算勘定で、乗る方も出遭う方も理解しておく必要がある。おまけに原付サイズだと重心位置が高く、小径タイヤの接地面積で受け止められる制動力も微々たるものだ。
 ついこないだ還暦まであと数年となり、ずっと乗り損ねていた大型車に乗りたいと、まさにシニア大型教習を敢行した友達がいるのだが、その教習課程で少しだが原付スクーターに乗せられたそうなのだ。高校生の乗り始めから普通の単車ばかりだった彼にとってスクーターは初体験だったそうなのだが、何しろ下半身で車体姿勢を操作する手段が無いので、恐ろしくてしょうがないと嘆いていた。私も含めて、スクーターを怖がる単車乗りは結構いると思う。

 原付スクーターは自他共々『自動二輪と物理的に別物』と認識を切り換え、道路の左端に張り付いて『いかに安全に速やかに、他の交通を先に行かせるか』に徹するのが基本だ。再スタート後に抜き返されるのが確実ならば、繰り返し四輪と無駄に絡んであらぬ反感を買うリスクを避けるため、交差点や踏切ではむしろ前に出ないことである。
 路上ではいろんな事情によりいろんなペースで走る走行体がいるので、少々大袈裟だが社会組織の動向を窺いつつさばく気分で、お互いに相手をよく見て一期一会のチームワークを成立させるような頭の体操式のコンセプトを持っておくのが良い。わざわざに品行方正の精神規範に磨きをかけずとも、よく言われる『譲り合いの精神』が自然に身に付くのではないかと思う。

 ともあれ『単車は他と異なる走行原理の自動車である』という事実を認識されたい。
 『二輪は危険だ』という通説は、何かあったら自動車級の走行速度に身ひとつで立ち向かわねばならないという点でまず正解。だからそんなことにならないよう一般交通を安全に貫く速度を保たねばならないのであり、そのための知識と技量が叶うなら、あながち危険なものでもない。これが総合的な正解だ。
 渋滞に巻かれる心配も無ければ駐車スペースも圧倒的に小さくて済むし、四輪より安全・便利に運行できる状況は多々ある。活用しない手はないし、そもそも走ること自体に特有の楽しさがある。

 ただ交通事故は軽微な物損で済んでも処理には時間が掛かるし、万が一にでも絡んでしまって出費が発生した場合は、もちろん諭吉さんが何枚・何十枚という単位になるから、日常生活面では被害甚大の特別損失になる。これさえ頭の片隅にあるならば絶対に起こり得ない不注意ミスや暴発型ロードレイジが、今は本当に珍しくなくなった。
 交通事故の場合、ほぼ確実に『あの瞬間に判断を誤った』というコトの経緯と因果がはっきりする。それはつまり、やってしまうと『後悔先に立たず』のパターンが例外なく待っているということだ。どうか割の合わない不運をひっかぶって後悔することの無いよう気を付けましょう、お互いに…ですな。

 因みに、自動運転の交通事故の場合、この『判断を誤った経緯』が事故の当事者の誰にも無いケースが存在する…というか、むしろ多数派になると考えられ、どんな理屈でどう処理しようが未完結感を引きずる事例が社会に蓄積し、これが案外と普及を阻む最大の問題になる可能性がありそうに思う。また回を改めて、いつかやりましょうか。

 う~ん、2回このトピックを続けてきて思うのは、社会組織が成す一般空間には本当にいろんなヤツがいるということだ。その自然な全体作動に従えるかどうかが暮らしの幸福のポイントとなる。
 いろんなヤツがいるだけに、『規則でそうなっているから』という程度の根拠でどうにかなる行動規範の限界はあっけなくも低い。物理法則に従う原理レベルの共有概念を、よく理解して自然にこなせる者が生き残る。そんなハナシでした。

 今日までゴールデンウィークだった方も結構おられたろうが、この経済緊縮態勢で相応の因果が顕れてくるかどうか正確なところの情報を待ちましょうぜ。判断をグズっている東京五輪も大概どうしようもなくなっているが、そのへん含めて議論は確認した現実が起点である。
 率直な現状把握と対応を、現実は決して裏切らない。では腹を括ってグッドラック!
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