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【1253】孤高のトップスターと大衆地盤の相対標高差 [ビジネス]

 久し振りに『リビドー』という単語を思い出した。
 どなたも一度くらいは耳にしたことがあると思う。有名な心理学者フロイトが提唱した概念なのだが、何だかおかしな誤解のされ方をして、その誤解版のほうが、あっちこっちで定説めいた語り口で扱われているケースが多い。

 よくある俗説の失敗例としては『難しい解釈過程がごちゃごちゃあるが、つまるところリビドーとは性欲であり、ヒトがこの世で何かしようと思い立つ動機を追究していくと、全てはリビドーに行き着く』という論説パターンだ。要は『ヒトの活動は結局すべからく性欲由来』とする定説となって広く親しまれている。
 ウマい笑い話的に『なるほど人間なんてそんなもんだ』と誰にでも合点されやすいためか、なんちゃってサイエンスのウンチク都市伝説として根付いているようだ。

 ここでいきなりの横道なのだが、この『リビドー』も、ロクすっぽ学術的な深堀りもなく我々世代の高校科目『倫理・社会』の教科書に登場した【1244】
 今もって倫社の授業を回想するに、サイエンスとしての情報体・人間の基本特性、その分析および解明の歴史的経緯と、そんな人間たちが生み出してきた思想や世界観の実例など、きちんと関連付けられて教示された気はまるでしない。むしろ未整理な情報の断片を強引にひと袋にくくっただけの無理筋の知識カテゴライズの印象が、当時も今もついてまわるばかりだ。
 義務教育の年齢でもなくなったハイティーン学生としては耳にしておくべき教養だろうし、とりあえず若い頭脳に押し込んじまえ、後の人生で必要に応じて各自で掘り下げればよかろう、ぐらいの割り切りがあったんでしょうかね。

 ともあれ『リビドー』とは性欲ではなく、人間が生きて寿命を過ごすにあたって『理屈抜きの衝動』が、具体的な標的もなく漫然・漠然と存在し、それを原動力としていろんなことが起こるので、その理屈抜きの衝動をフロイトが『リビドー』と名付けた。そういう位置関係で間違っていないはずである。
 生き物でいる以上は腹が減って食い物が欲しくなり、そんなとき食い物を見つけたら喰らいつくし、逆に自分を喰らいに来るようなヤツには抵抗するなり離脱するなりで対処する。こういうのは個体保存の道理に沿って起こる必然の因果だとして、他方その因果律とは別系統の行動、例えば異性めがけて一目散に絡みに行こうとするような動機の元となる精神エネルギー源が別にある。これが『リビドー』である。
 大好きな異性には自分の食い物を譲っちゃうし、大好きな異性を無事に逃がすためには我が身が餌食になる危険にも身を晒す。明らかに個体保存とは別系統なのだ。

 まあとにかくヒトを含めて生き物は、とりあえず個体保存して、そこに居続けることを原点ゼロ状態として、そのまま何にも関わらず生まれて死んでいくだけなら、ただの地球上生命のイチ単位である。影響力ゼロ、そいつの周囲世界には何ひとつアクティブ変化は起きない。
 そうじゃなくて、原点ゼロからイチなり10なり500なり『何か起こす』、足し算勘定のアクティブ発動を自然発生させるエネルギー源が生き物には内蔵されていて、それが『リビドー』なのだと私は考えている。情報処理ではなく『起震』機能とでもいうか。

 ここまで頭に入れておいていただいて、前々回に紹介した北米の俗社会的(?)ステージ・パフォーマンスの事例について考えてみよう。
 できる素質を持ち合わせたヤツがいて、通りがかってふと興味を覚えた取り巻きがくっついて、もうそれだけで、そこには『パフォーマーと観客で分担し合うエンタメ社会組織』が自然発生する。
 そして、各々の立場で最もハッピーに浸れる時空間を目指し、パフォーマーは発信を工夫するし、観客は拍手と歓声でその成果をフィードバックするしで、みんなしてその時空を『良いコト』『幸福』として盛り上げるワケだ。
 こんな原始的な巡り合わせがコトの始まりであろうことに異論を唱える方はおられないと思う。のちに思想や社会構造の文明が組み上がってくるにつれ、儀式や演劇やコンサートや学校授業、そして企業など機能性社会組織の活動に枝分かれ進化していって、いま各々の現状に到達しているのではないだろうか。

 今の時代に演劇や演奏会というと、ついつい『非凡なタレント人種が、無才の凡人の関心を集めて、発信源の一点から大衆先導する』という構図で、余暇に楽しむ特別な社会活動の形態としてとらえてしまいがちなところだが、そうではないと思う。
 むしろ、複数のヒトで構成される社会組織が協調作用に成功して、ひとまとまりの組織力をもって振舞う、その原理原則モデルがこの『原始的ステージ・パフォーマンスを内包した一群』なのではないだろうか。

 先に冒頭の流れの結論だけ言い切ってしまうなら、この原始的ステージ・パフォーマンスこそが、ヒトのリビドーに相当する『組織生命体のリビドー』なのだと思う。

 パフォーマーにとっては発信がハッピーで、オーディエンスにとっては受信がハッピーで、どっちにとっても飛び交うコミュニケーションの全てがハッピーで、そんな連中が噛み合って構成する組織体は、何か標的を見つけるとガンガン喰い付いて、片っ端からモノにして、モノにしたら次なる獲物を探そうと一層貪欲になる。

 『リビドーなきところに行動意欲なし、リビドーの降臨こそが始まり』だ。
 どうにでもばらつく母集団の中に、この組織生命リビドーが偶発したところから、あらゆる社会現象が巻き起こってくるのだろうし、企業組織なんかが立ち上がって台頭してくるのだろうと思っている。
 みんな仲良く一列一本おてて繋いで輪になって、その円周上まんべんなく同じくらい意欲的でいて、全周から一斉に『やろうぜ!』と活力が湧き上がって目覚ましい成果を上げるヒトの集団は見たことがない。
 理由は簡単、そもそも個々人のばらつきがあって集団は均質ではないからである。

 もちろんだけれど、組織生命リビドーが発現し活性化する土壌として、母集団の過半数が本心から『こうなったらいいのにな』と夢見る『幸福感の指向性』を共有していなければならない。
 例えば…と最後にいっきなりムツカシイ時事問題を持ち出すが『長期低迷から日本経済をすっかりすっきり脱却させたい』と日本国民が本気で思っていないのなら、どんなに才能と体力に溢れたパフォーマーが現れて高らかに歌っても、観客がノってこず徐々に火が消えて、烏合の衆は三々五々の解散となり雲散霧消に終わる。
 組織の行方は、優れたパフォーマーではなく『組織の過半数』が決めるのだ。

 ヒトは、自己保存とリビドー由来の本能で、その寿命をアクティブに生きる。
 組織生命体も、収支採算とリビドー由来の本能で、その寿命をアクティブに生きる。

 あっちとこっちの間柄でイイから、ひとつのステージに関わって一緒に楽しもうぜ!
 そんな時空、そうなりそうな時空が、あなたの視界のどこかに見えないだろうか。
 今季NHK朝ドラ『ブギウギ』を名残惜しみつつ、ラストステージもグッドラック!
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