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【1247】前衛芸術ビデオクリップの深夜展覧会 [ビジネス]

 もうちょっと近代エンタメ音楽文化の回顧を続ける。
 前回『買い物ブギ』をはじめ昭和歌謡はメッセージ性のある日本語の歌詞が付いていたと述べたが、どうにもそのパターンに当てはまらない例がひとつ引掛かっている。
 私がまだ小学生だった1970年代に一世を風靡した、ピンクレディーだ。

 当時の私は音楽嫌いの理科工作少年だったこともあり、歌えるほど知っている曲は一曲も無いのだけれど、それでも『UFO』の支離滅裂な歌詞を耳にした時の不可解な困惑は記憶に残っている。
 ブツとしてのUFOは登場しないし、心情を訴えかける対象であるはずの宇宙人への言及も皆無。そのくせ『飲みたくなったらお酒』だとか妙な思い付きの決意をいきなり宣言し、どうにかこうにか『地球のオトコに飽きた』だとか何とか、酔っぱらったキャバクラ嬢との会話みたいなセリフで宇宙にハナシを向けかけるが、結局地球から一歩も出て行かずに終了。良いか悪いか、面白いかどうかの判断も下せない。なんじゃこりゃ?

 理屈っぽく協調性に欠けるガキだった私は、あの昭和の空気の中であの歌詞を思い付くような思考回路にはさらさら興味を持てず、休憩時間の教室でマネをする級友たちを冷めた横目でやり過ごしていたものである。
 テレビが子供の学習能力を退化させるとして目のカタキにされ、世の子供たちが『テレビは見るな、本を読め』と口酸っぱく言われていた当時、テレビの『物事の意味をきちんと考えない、堕落した精神文化』の象徴として、なるほど『UFO』は親世代の大人どもにしばしばやり玉に挙げられていたのを憶えている。

 当初わざわざメッセージ性を含んだ歌詞に助けを借りていたエンタメ音楽の商品性だったが、個人宅にしても街ナカにしても音響機器の普及が進むにつれ、音楽が『ワケのわからん何か高尚な、謎のコンテンツ』でなくなってきていたのだろう。
 音楽が珍しいモノでなくなるにつれ『覚えやすくて真似しやすく、くだけた場で遊びのネタに使いやすいこと』という目的が重要視され始めたのではないだろうか。

 この方向性が、1996(平成7)年にはPUFFY(パフィー)の『アジアの純真』にまで行き着くのだから大したものである。そのハチャメチャっぷりは、いわゆるKAWAII系の単語に通し番号を振って、乱数表任せにつないで作文したのではないかと思うほど、歌詞の意図するところが日本語の実体を成さない。
 このころ出張で来ていた米人エンジニアの一人がPUFFYをお気に入りだったのだが、まず歌詞に対訳をつけてやれなかったし、ドカチン直訳式に英単語を対応させるにしても、何故こんな採択ワードを文法規則の語順で並べたのか解説できない。
 スマン、日本人の誰にも意味ワカランし、真意の暗示も無いと思う。意味ワカランまま疑問も覚えずに好きで聴いて、カラオケで歌って、それで日本人はみんな楽しめてるんだよ。それで商業的に成功しているんだからOKってことなんじゃないのかねえ…あたりが限界であった。

 昔も今も『歌詞の意味が解らないと楽しめない』と断じる洋楽好きはいないはずで、つまり歌詞の言語メッセージ内容は、複数ある楽曲のエンタメ機能要件の一項目でしかないことが判る。
 いっぽう私の個人的な事例だと断るとして、メロディーが大好きな洋楽オリジナル曲なのに、陳腐きわまりない日本語歌詞がつけられたカバーバージョンを、どうしても心穏やかに楽しむことができないでいたりもする。ときに歌詞は、そのくらいの影響力も及ぼし得るのだ。

 もう20年以上も前になるが、知人のツテである曲の演奏を依頼され、聞いたままの曲名を頼りに帰り道の中古屋で当該曲の収録CDを買ってみたのである。そしたら『知ってる曲に知らない歌詞』で、途端にのけぞって耳から押し込まれる拒絶反応にギブアップしてしまい、とても最後まで聞けなかった。
 この出遭い頭のアクシデントが最初で最後となり、この私が一度購入したCDを中古屋で売却した、これまでの生涯で唯一の事例となっている。
 いや、正しい商品計画でカバーされ作詞されていたはずで、現に多くのユーザーに受け入れられたからこそ演奏を要望されたりもしたのだろうし、ワタクシの側にこの極端な結末の原因があるはずなのだが。

 まあ誰もが好きな音楽を好きなように楽しめば良いだけのハナシであり、いちいち個人の思い入れや趣味をシチ面倒くさく理屈づけてもしょうがないのだが、こんなとき実感として『精神世界にひとつ閉じたイチ個体としての自我なんか無いのかも知れない』と思ったりする。

 大好きなメロディーはしっかり聴覚で好印象に受け容れている反面、歌詞は律儀に国語の演算処理を介して激しく神経を逆撫でし、とても我慢できない。
 この二律背反の心理反応は、完全に別モノの情報処理体系が二本、全く相容れず別々に走っている。二本まとめて統括するジブン=『自我』『主観』なる総合枠が、呉越同舟の受け皿になって一人として完結する必要なんかないと思うのだ。
 言ってしまえば、私というハードウェアひとつに、肯定派と否定派の二人ぶんの情報処理が、タスクエリアを分けて並走しているのではないだろうか。

 小難しいばかりで正直あんまりハッピーな体験談でもないので、わざわざ話題にすることもなかったのだが、いずれ生体情報処理の構造や原理について考察するにあたり引き合いに出せるよう、ひと通り紹介しておく機会を探していた。そのくらい私の人生の記憶に刺さるメンタル史実だったということである。
 気の乗らない苦役タスクを負担なく片付ける手法のヒントに役立てたりとか、何か使い勝手はないものだろうか。いつか良いコト思いつきますように。

 最後に、いつ出すか困っていたネタをもうひとつ消化しておこう。アニソンである。
 私の体調がまだ先の見えないズッタズタで、いつ寝ていつ起きるかも地獄のなりゆき、血だらけ傷だらけの死闘を繰り広げていた頃、眠ろうにも眠れない絶望の深夜に仕方なくテレビの電源を入れた。
 そこに命中したのがTVアニメ『悪の華』のエンディング曲だ。衝撃であった。

 動画サイトで当時のTV放映版ママが見れるのかどうかは知らないが、ほぼほぼ雰囲気は御理解いただけると思う。一見して判る画家オディロン・ルドンとの関連性は各自で御確認いただくとして、さらには子供向けでないことも承知おくとして、この映像と音声をアニメ番組の『終わりの歌』の枠に充てるかフツー?

 改めて検索してみて、コレのカラオケがあるという事実にまた驚いた。凄すぎる。
 採点ランキングで何点いくか挑戦してみては?ではアナタの歌唱力にグッドラック!
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