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【1252】タイパ時間割の一番コマは朝ドラ15分 [ビジネス]

 いまや私もテッパンのNHK朝ドラ視聴層の一員になってしまった。
 一日がごちゃごちゃする前の朝8時なので、他の用事に割り込まれて視聴が途切れる失敗が無いというのは有利なんだろうな。
 それともうひとつ、一話15分の放送枠ボリュームの見やすさが効いていると思う。

 動画サイトを開いてよく目につくのは、視聴時間が十数分のコンテンツだ。
 人間が視聴覚情報に接して関心を向け、その内容を理解し記憶するにあたっては、このぐらいの時間単位が最も効率が良いのだという話を聞いたことがある。
 講義形式の情報提供で成り立つような教育内容の習得が目的なら、微積分の基礎概念も、エネルギー保存則も、過去分詞形の用法も、十数分の単位に切り分けて動画コンテンツを準備し、あとはひとつ観たらちょっとトイレ行って、またひとつ観たら軽食つまんで…と本人任せにしておくと断然に学習効果があがる。そういうことらしい。

 動画コンテンツの制作に大層な設備が必要だったり、その配信網も普及していなかったりという時代においては、受講者を大勢まとめて一室に押し込み、教壇の一箇所から講師の直接プレゼン作業をもってコンテンツ提供をするしかなかった。
 そんな集団行動を十数分の細切れにしていては、イチ単位の起動と停止にかかる過渡行程ばかりに時間を浪費してしまい、純粋な内容習得にかけられる時間も集中力も雀の涙となって、とても学習の場にならない。だから時間的にも空間的にも拘束感があって少々窮屈だが、だいたい小学校授業45分から大学講義100分ぐらいの講義コマで教室一斉の授業方式に落ち着いているのだそうだ。
 これが真実だとすると、NHK朝ドラはコンテンツのボリュームとして、そもそもから理解を得て受け容れられやすい特性を持っているということになる。

 もっとも映画やドラマは『よしっ、今日の放映ぶんを逃さず洩らさず見覚えるぞ!』と構えてかかったりしない娯楽コンテンツだ。むしろ視聴に耐えるくらい手の込んだ事実関係のストーリーを語ろうとすると、最低でも子供向け番組の30分枠や一般的な1時間ドラマ枠、さらには劇場公開の映画並のひと声90分以上が必要になる。
 一話15分の細切れにするからには、前回の記憶も新しい翌日のうちに次回、つまり毎日の放映がまず前提となりそうだし、それはそれでひとつ組み上がったストーリー全体像を一気に視聴する通常スタイルとは異なる造りにしなければ、15分毎回を洩れなく視聴に耐える内容でつないでいけない。
 ストーリーの進展が止まったりダレたり混濁したりしては視聴者のアタマの中でハナシが繋がらなくなり、日課としての視聴を諦められてしまう。いったん諦められたら、少なくとも半年は客が戻って来ない。制作ハードルが高い番組形態だ。

 大衆向け歌謡曲の尺がせいぜい数分単位、しかしそれでも一話15分枠にはどえらいボリュームを占有するはずなのだが、そこを割り切って楽曲ステージの完全版収録を優先し、番組のウリ=メインコンテンツとして各々しっかり収めたところに今季『ブギウギ』の値打ちがあったと思う。

 今どきビジュアル面も音響面も、大掛かりなステージ設備はすっかり収益性を失ってしまって壊滅状態、保全に手間のかかる遊休機材を維持できず力尽きた業者の話もいくつか聞いた。
 いったん倒産して事業体が失われると、代わりの誰かが機材を揃え直して即参入とは全く行かず、故に業界が傷めば傷んだぶんだけ、単純引き算でヒトもモノも不可逆的に失われていく。ステージ設備業界に限ったことではないが、補助金名目の税金バラマキで点稼ぎをしようとした愚政コロナ騒ぎの結末の一例として、経済単位を再起不能に衰弱させた事実をよく見覚えておいていただきたい。
 当時その気前でバラマキをやっていた奴等の、そんな気前の出どころの一面が、今頃ちょっと人目について話題にもなってるワケだよ。当時のうちから経済原理に則した資金源なんか日本のどこにもないことは判っていたはずなのに、扇動されるままバラマキ日本円を手に同調してしまった日本大衆社会は、貴重なエンタメ文化の専門業域を瀕死に追いやってしまったのである。
 とにかくこんな状況下で、今のうちに民放にない資金力でCGも使わずに、昭和ステージ様式を再現して若い役者さんたちの活躍の舞台を組み、これだけの記録に残せた意義は大きい。

 ところで講義形式の教育プログラムの話題に戻るが、『微積分の基礎概念』『エネルギー保存則』『過去分詞形の用法』みたいな知識アイテム題目がまずひとつあったとして、受講生のタイプ別に数通りのオプションで動画コンテンツを用意しておけば、現状の学校教育相当どころかそれ以上の習得効果は上げられるはずだとする考え方があり、それには私も賛成である。要は教養コンテンツの一大標準ライブラリーだ。
 幸いにも致命傷にまでは到らなかったものの、他ならぬ私自身が『この教師の受け持ちでさえなかったら…』式に出会いがしらで苦手科目の心象を刷り込まれ、余計な回り道をした記憶がある。
 嫌いなんだからできませ~ん!で終わらせず、自らが模索・工夫して習得してしまう自律スキルも重要だが、それが平均的に期待できる年齢となると、やはり義務教育以降だと思う。そうなるまでは、やはり『教師ガチャ』のハズレをなくして基礎学力を効率よく習得するに越したことはない。

 こうなると、初等教育で生徒たちの記憶ストレージに知識情報ファイルを書き込む仕事はごっそり機械化・自動化が進むことになり、生徒の誰々にとりあえずどのバージョンをあてがうのが良さそうかは、わざわざAIと言わずもっと昭和式にドカチン原始的なフィーリング判定でやっちゃって大きな問題はなさそうに思う。
 一方そうでない領域が『学校の機能』『教師の専門職域』として残るんだろうな。

 おのれに備わったストレージ機能の『未書き込み=白紙領域』を自覚した生徒たちが、信頼して腹を割ってコイツに学ぼうと決心して、率直で真剣なコミュニケーション成立のもと、勉強の楽しさ面白さを共鳴し合える人格こそが、教師の本質的な適性として求められる時代が来ると思う。ホントは今だってそうでないと困る。

 人さまと『心理の共鳴』を実現するコミュニケーション要件とは何なのだろう?
 解ってるヤツは自然に解っていて、解ってないヤツは何をどう説明しても解らない。

 あっちとこっちの間柄でイイから、ひとつのステージに関わって一緒に楽しもうぜ!
 そんな未来の学校は、転売禁止のチケット入場制になるのかも知れない。
 では『ブギウギ』大詰めのステージを楽しみにしつつ、週明けもグッドラック!
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