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【1123】いただきもの文明に迷う自然保護区の未来 [ビジネス]

 おお、遂に年内最後の回を迎えた。次回は2023年の元旦となる予定です。
 『光陰矢の如し』で早いっちゃ早いんだけれど、何しろ今年は積年の切望を解決するパソコン更新ができただけでも、私にとっては燦然と輝く一年であった。自宅の抜本的レイアウト刷新にかかり、お約束の体調抑揚ですんなりスムーズとは行かないながら、いわゆる引越真っ最中の光景の中えっちらおっちらでも建て直しに転じられているのは、文字通り10年来の夢である。どうしてどうして、悪くない年だったよ。

 ああなったらいいのにな、こうだったらどんなに幸せだろう…
 普通にこの世に暮らしていたら誰もが考えるテーマである。あなたが次の瞬間に出遭う人にいきなりこの質問をしても、とりあえず全員が全員の百発百中でナニガシか中身のある回答を返してくるはずだ。
 では1億2千万人日本社会の過半数は、一体ナニを望んでいるのだろう?

 別に苦労や努力を嫌がって怠けて、場当たりに気の向くまま遊んで暮らすのが望みだとは言わないにしても、成長期に人並に勉強して運動して周囲と遜色ない教養と体力を身に付けておけば、成人年齢に達したところで自分が社会の一端を担う機能ポストがいくつか席を空けて待っている。
 その選択肢に対して『やりたいコト』『本当に好きなコト』『向いているコト』みたいなジブン基準で意思決定すれば、理想に対する満足度はともかく、みんなで運営している日本社会の一員になれて、誰かがジブンに価値を認めてくれて、その対価として人並のカネを当然のようにくれる。
 何だかんだで昭和世代は『望まずに済む』この安直な世界観をもって『世の中そんなもん』と受け止め、これよりも深いところについて一切考えずに暮らしてきた。何故いつも機能ポストに空席があったのか、何故その席を埋めただけで価値ありとされ人並のカネ換算にあやかれていたのか、意識したことがないのである。

 結論から先に明言しておくなら『経済社会で居場所がある』という事象は
 1.人に、社会に、いいコトになる。
 2.いいコト=他人に、社会に存在価値を認めてもらえる。
 3.その価値がカネ換算され、ナニがおいくらか決まってカネと釣合う。
 この三段階を経て成立するものであり、裏返せばこの有価事象の流通原理に則らない『本当は役に立たないでっちあげ架空価値の売買』や『価値交換と無関係にただの物体として動くカネ』は、全て経済社会に対して邪魔な外乱や損害性の雑音として作用する。市場が納得する交換相場を狂わせるのだ。

 ありていに言えば、人が、社会が、1億2千万人日本国が、本心から『なるほどコレはこうしといた方が良いな』と思う社会活動やその成果物こそが日本経済の実質駆動力であり、逆にイチ国民としてそこに疑問や反感が湧くような事物なら、そんなもの日本円経済体力の負担や障害にしかならない。無駄骨、徒労である。

 本来1億2千万人いる人間の『こうしたい』『こうしよう』と関係ない無駄なことをやるんなら、それが1億2千万人の『やる気なさ』となって、その人数規模で鬱が日本社会を埋める。
 以前にも述べたと思うが『景気』というのは活況つまり賑わいの度合であり、例えばそこにいる人々の気持ちが明るく元気に高揚していればそれが反映され、消費行動なんかの生活事象も盛んになる。その盛況が『好景気』で、指標値で決まるものではない。
 失われたウン十年とやらは、端的に日本人の誰も良いと思わないようなことばかりやっていたら、1億2千万人全員が面白くなくなって日本じゅうが陰鬱になりました、それだけのハナシなのだと思う。では何故これだけ人数がいて、全員が全員イヤになるようなことにしかならなかったのか。

 昔なら、良くも悪くも周囲のまとまった人数を従えるくらいの目立った人材が、そこに拡がる赤裸々な人間関係の現実のなりゆきとしてボス格に収まり、そいつが主導権を行使する形で集落スケールの社会組織が統治されていた。非・文明的とはいえ野生動物の延長としては正常に作動していたはずだ。
 集落の住民がみんな安心して、元気に、幸福に過ごせるよう、ボス格が住民の交通整理を進めていく限りその集落は平和に栄える。群れで生きる野生動物の代表的な集団形態がこの構図になるのも、誰もが自然なことと認識できるのではなかろうか。

 ずっと山野や海など自然に恵まれた日本列島で暮らしてきて、元々はそんな素質のボス格が参集して、急造ながらも近代国家運営スタッフ業域を埋めたんだから、当初その指示命令系がそこそこスムーズに機能したであろうことは想像に難くない。
 実力公認のちゃんと偉いヤツが指図するというのは理に適っていて、いかにも理想像にも見えるのだけれど、一方これはまさに階級社会の姿であり、支配層vs被支配層に各々立場を二分する社会構造でもあることに気付いておこう。実力に秀でて、社会全域を面積でとらえて最適化する目的意識を持てるボス適格人材あっての組織表なのだ。

 こんな体制が大東亜戦争の敗戦をもってガラガラポンで御破算となり、GHQ主導で制定された日本国憲法のもと1億2千万人みな平等の近代欧米式ってことで、年齢など一定の基本要件さえ満たせば誰もが国家運営スタッフに立候補することができるようになり、選挙で十分な得票数さえ集めれば、現実として国家運営スタッフ職に就くことができるようになった。
 ここで『平等』の概念と引き換えに、戦後の日本社会は『リーダー格の適性』を政治家の具備要件から外してしまったのである。

 もっとも欧米文化発の民主主義に基づく選挙プロセスに従って大衆がきちんと理性判断し、昔と同じく『社会運用に適性のある人材が選出されれば』何の問題も無い。
 だが民主主義確立に到る人類史を直接体験していないサル山日本国は想定外の失敗モードにそれて、社会ぐるみでロクに思考も選定もせず、結局『得票多数で勝てば支配権ゲット!』みたいな賭博型の陳腐な大衆ゲームにしてしまったのである。

 特に若い人たちにはよく見覚えておいて欲しい。
 日本国憲法以下どんなに綿密に考えて厳重な文書記録を残したとしても、その意味を建設的に読み取り、現実に直面する課題事象にその内容を活かすべく意思決定し、その価値現象を実現して幸福になる目的で実行動に動かなければ、全ては不快な鬱だ。
 どこそこにナニナニが書いてあるからどうしろこうしろ、あんなことがあったからコレコレを作文して対策しろ、何もかも無能のサルが、知恵も思考も思いやりも覚悟もなくやる限り、やればやるほど煩わしい面倒と無意味な履歴だけ積み上がってオワリだ。

 情報は、現実に活かしてこそ価値がある。人類文明史が重ねてきた知見が記録と通信を経て降臨し、具体的な文書情報にまとまって手に入ったまでは良かったが、進化の遅れた黄色いサルはヒトとしてそれを活用できなかった。
 最初は『霞が関文学』みたいなインチキ隠語の詐称スキル体系で日本語の表意機能をガタガタに不安定にさせ、当然そんなものを根拠に国政を動かしていたら、一義的ソリッドな現実との食い違いが誤魔化しようのないくらい顕著に問題化してくる。
 言語を意思疎通の情報体系として理解している人間なら、どこかでヤバいと察知して、文書情報と実行動の簡素・確実な整合に方針転換するはずであった。
 だが所詮はサル畜生、でたらめな奇声の代わりに、聞き覚えた日本語らしき吠え声をあげるところにまでしか知能が及んでいない。

 知性なく吠えるサルどもは間違いなく害悪だし追々駆除も必要なんだろうが、戦後ゼロベースから上向きにしか空間が開けていなかった時代の好き放題やりたい放題に浮かれて、日本社会が持っていた価値をサルのエサに使い捨てたのは、ほかならぬ我々1億2千万人日本人である。これはこれで誰がどこまで悪いというハナシはできるのだけれど、とにかくみんな揃って現状からの脱却は必要だ。

 2022年人智を失い、人類文明システムの正常作動を自己管理できず、国家組織の幸福な運営をしくじり続けた黄色いサルの卑しいサル山は、遂に深層崩壊の大きな亀裂がどこから見てもあからさまになった。思考停止で無責任にエサをやる慣習も急速に廃れて全員無視に転じてきており、必死にサル山支配権を主張する我欲宣言の辻褄も合わなくなってきている。このまま道理に従うコトの行方を眺めるとしようか。
 血で血を洗う社会変革の紆余曲折を経て欧米が辿り着いた民主主義の原理を、日本国はこの節目でどのくらい理解し習得できるのだろう?

 …ってことで、大変ではあるが必然にして必要な逆境の2022年だったと思われ、総じてあながち悪い年でもなかったかなと私は考えます。しんどくても諦めちゃ損ですぜ。
 相手もいないのに孤独に吐き捨てる愚痴を覗きにおいでくださった皆さま、今年一年どうもありがとうございました。どうぞ良いお年を、そして来年も御幸運を!
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