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【946】預けたジブンと残したジブンの分析眼力 [ビジネス]

 ふと気が付くと4月も中間地点を過ぎたから、ゴールデンウィーク間近である。
 『コロナ死ぬ死ぬ』はいつまで続ける気なんだろうかねえ?

 改めてここで言及するまでもなかったと見え、昨今はインターネットのブラウザーを開いた画面にざあっと並ぶ時事トピック群に、『どこそこの番組で誰それさんがコレコレと発言しました』、ただそれだけの記事がえらい数を占めている。
 かつての常識的な報道記事ならば、そういうのって『起きました。朝ごはん食べました…』の小学生の日記式に、あまりの中身ナシのカラッポ確信犯を叱られるところだ。だが時を経て、なかなかどうして私のようにスマホも持ってないヤツがテレビもつけなくなっている時代、これががっつり実になっている。
 視聴に電気代や時間を割くに到底値しないコンテンツどもを一瞬で俯瞰し、たまたま話題になっているのを見かけたその元ネタが何なのか、どれどれと知りたい時にだけ当該箇所を見に行ける。おお、これは便利じゃないの。

 二十世紀の時代、VHSビデオで内容のペラい番組をつい録画してしまったはいいが、倍速で観ると音声が出ないし、ヘッドやテープの摺動速度が上がるため機器の傷みが気になってなかなか思い切れなかった。我々世代、HDD・DVDデッキはまだしも自宅のパソコンでテレビ番組を録画して、早送りは自由自在だわ、カーソル移動でちゃっちゃ好きな場面に飛べるわ、サクッと削除して一瞬でサヨナラできるわ、その利便性に感動したものである。そして擦り減らない。

 いまティーンから二十代あたりの人たちには、『価値アリと思った情報コンテンツを、自前のブツとして所有したい』という、我々中高年世代では当たり前の心情がさっぱりと消滅しているように見受ける。印刷物も、磁気媒体も、光学ディスクも、まず持ち物として確保しようとする動機が感じられない。
 『もし忘れちゃったら、それでもう一回見たいという衝動に駆られたらどうするの?』という年寄りの心配は意味を持たず、だいたい最初から『記憶に残して習得を確かめ、それを満足感に繋げる』という情報処理フローがそもそも存在しないらしい。
 更には、本でも映画でも、直接ベタに時間をかけておのれの五感で浸るより、気の利いた御贔屓さんのレビューをさっと一読して、それをもって結構な確率で『十分な内容精度でダウンロード完了』のOK判定が出るように見える。
 『そんな、どこの誰が書いたかも判らない情報で…』なんて卑下する感情は、彼等にとって大きな御世話なのだと思っておいた方が良いのかも知れない。彼等各々の本人なりに信頼を寄せるレビュアーはきちんと目的別・ジャンル別にストックされていて、少なくとも彼等自身が不自由しないレベルで、世の中に流通する情報コンテンツのエッセンスをきっちり役立てているのだから。

 昨今のバカな大人どもは、若い子たちがごく普通に一瞬で読み飛ばす程度の薄っぺらな情報を、わざわざ逆方向にだらだら漫談のシロート世間話で盛って拡げて、まとめる以前の無駄だらけに煩雑化させ長引かせている。そんな産廃ジャンク・コンテンツを乞食サラリーマンとおもらい雛壇が、大昔の商売形式の残骸みたいな慣習に乗せてタレ流すばかりなんだから、そりゃ視聴者不在にもなるさ。

 ところでちょっと気にしておきたいのが、このデジタル・ネイティブ世代の情報ライフ事情を分析的に考えるに、『体験取り込みと記憶ストレージ内臓機能』の領域は放棄しているものの、『遭遇するリアルタイム現実と、適切な記憶ファイルを整合し、自らの判定基準をもって正否決定』する領域は残っているという事実だ。
 私の主観ドラレコ仮説に照らせば『主観としてのジブン感』は確実に維持しつつ、『意識』の主要因である記憶ストレージについては、捨て去るというより通信網を介して他と広く共有しているという見方が正しい感じがする。
 その通信網の拡がりはキホン繋がる限りの無条件の不特定多数、だからこそ彼等は生存のための能力として、無限の情報空間にストレージされた無数のファイルの中から、『本当に役に立つモノ』『意思決定の根拠にして大丈夫なモノ』を選定する眼力を鍛え、育み、備えているのだ。

 今それが正しいか正しくないかはともかく、例えば営業職で採用した若者に『営業マンたるもの、我が社の製品ラインアップぐらい全て暗記してなくてどうする!』などと唐突に捻じ込んだら、即刻の退職届で返されるのがオチだろう。『そんなダルいことできるかよ』という憎まれ反感ではなく、『ナニその異次元・意味不明の要求値?ソレ無理!』というドライな直感の判定によるものだ。
 逆に、年寄り世代としても『使える』と思えるストレージを工夫して用意し、彼等世代なりの検索プロセス開発をまず任せてやって、出てきた成果について一緒に考えながらGO/NO GO評価していくなど、双方の世代から折衷できる情報世界をまず相互構築する試みは、結構メがあるんじゃないかなあ。

 さて一部のアッチの世界に行っちゃった人たちが、今日の日本社会に『公共情報だよね、一般性あるよね、常識だよね』と、相手の存在も確かめずジブンらウチワの中だけに夢中で繰り返している、不毛な演劇『コロナ死ぬ死ぬ』に話を戻そう。

 発症者の重症度や致死率の真値、それらに導かれる正味の危険度がどのくらいなのかはともかく、日本社会の、特に若年層の自我は完全に『コロナ死ぬ死ぬ』の半島型国営放送に飽きて見限ってしまっている。単なる在学組ならばまだしも、もうアルバイトなどで実社会経済にまで踏み込んでいる層は、生活のために営業しようとすると行政と悶着が起きるってんだから、かなり切実に『真実の在り処とヒマで噓つきなオトナ社会の言論のズレ』を意識していると考えるべきだろう。
 そう、1億2千万人日本国組織は、新型コロナ・ウィルス感染症による疾病や苦痛・致死を避けたいのであり、それを避けて元通り仲間たちと自由に会って普通に話して、勉強して仕事して遊んで、四苦八苦でいいから生活を維持して暮らしたいのである。
 見境なくマスクをしたいのでもなければ、ワクチンと称する得体の知れない注射を打ちたいのでもない。いわんやそんなものに大事な税金を、ビタ一文払うつもりもない。

 誰にだってその人なりの立場があるのはみんな知っているし、今の若い人たちはそのあたり、薄ら鈍感で済んでいた甘ちゃん年寄り世代よりも、遥かにロジカルかつ敏感に反応する。
 以前にも述べたが、地方行政を預かる自治体首長さんたちを始め、ガチの本気で社会生活の現場を切り盛りする役目を自負する方々は、ビクビクせず意思決定の根拠を明確に提示しながら真面目に徹して頑張っていれば、十分近い将来に必ず社会組織の自我は心を寄せてくることだろう。

 まあいいや、いざ物事の現実の素顔がのぞき始めて、万が一それが真剣にコワいことになっていた場合に備えて、緊張感は解かずに体力は温存しておこう。
 いま日本社会にとって大切なのは、目前の現実を正確に見ること、きちんと自分の身で感じること、そして悪い雑音が放たれているところについては、発生部位ローカルの自前分担タスクとして思い思いに摘発し消去することだ。
 道行く人が突然血を吐いて倒れたり、電車で向かいに座った人が急に苦しみだして息絶えたりはしてないワケっしょ?みんな手分けして真実を探そう、ではグッドラック!
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