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【828】憧れのマネジメント絶対音感 [ビジネス]

 大事なハナシゆえに一本調子でダレないよう、カラーを変えてみよう。

 こんな大騒ぎの時にジャズの話題から始める。
 スタンダード・ジャズにおいては、いろんな楽器奏者がコード進行を守りながら、次々思い思いにアドリブ=即興演奏を展開する【566】
 上手いヤツは本当に上手く、途中よろけるように聞こえそうで明らかにピタリ狙ってやっているのが判る経過音を華麗に渡り歩きながら、フレーズのシメなど要所はばっちり外さずキメていくなど、まさに絶妙。スリリングにして抜群の安定感、曲メロが原形をとどめないほどに崩しても、今どこをやっているのか共演者も聴衆も見失うことなく安心して聴いていられる。
 楽器やってる連中はみんなそれを目指して、フレーズの引き出しを増やしつつ、楽曲が音世界に布く規則性に無理なく自由自在に同化するストーリー構築を工夫する。『うええ~、そこまで踏み外して良いワケ?』『うっはあ、あれだけハジけてこう帰って来るのか!』みたいな会話にも花が咲くワケだ。

 得意気にアドリブを展開していてここぞ!の確信で一発キメたつもりが、手元が狂ったり自分の認識が間違えていたりして『違う』『ハズレ』『お呼びでない』音を出してしまい、一斉に振り返った共演者たちの視線を浴びつつ白玉音符を慌てて弾き直して、バツが悪そうに笑って誤魔化しながら頭を掻き掻き…まあみっともなく失敗しても笑って済むようなレベルのセッションではあるあるの日常風景だ。
 ところがたま~に、こういった空間に全く現実的な接点を持たない人種が紛れ込んで来ることがある。そういった人々を卑下するつもりはさらさら無いと最初に断っておこう。

 『出していいアタリの音』と『出してはいけないハズレの音』の区別が、真剣に判らないヤツがいるのだ。じっくり解説してやればハタと手を打って理解してくれるとか、夜な夜なハードな訓練を繰り返して何年越しで体得するとか、そういう次元の問題ではない。まさに次元が違うというか、その音が鳴った時に音楽になっているかいないかの直感的な概念が、あっけらかんと欠落しているのである。
 例えばピアノの前に座ってド・ミ・ソの鍵盤を同時に叩いた時と、ド・レ・ミの鍵盤を同時に叩いた時とで、どっちが美しい響きの和音として成立しているのか判別できないと言えば良いだろうか。なぜ前者が美しいのか、音楽的なのか、そっちなら出して良くて、なぜ後者はやめとくべきなのか。こんなもの説明しようったってできないのだが、わからない人間にとっては区別が無いのでどっちも平然と等価で混ぜ込んでくる。そんな感じだ。

 本人的には何らかのメリットあるいは楽しみの感覚があってこそジャズを好いたのだと思う。人格的には何の問題も無いし、五体満足で楽器の演奏操作も自由自在、むしろどこかに習いに行ってまで取り組んでいる場合すらあって、その向上心や練習意欲には頭が下がりこそすれ決して否定的なクチなんぞききたくはない。だが。

 既存の楽曲が譜面化されていて、その指示に従い楽器を操作する限りは、上手い下手はともかくそりゃもちろん音楽としての出音が再現される。だがアドリブとなると、いわゆる『センス』を頼りに反射的動作で楽曲を作っていかねばならない。そこに常人と共通の文法が無いのである。
 どのパートの誰からどんな指摘を受けようがどう指南されようが、そして本人がどんなに真面目にそれを受け取めて理解に努め修正を試みようが、意識できないモノはどうしようもない。時々耳にする『自分が音痴だと自覚している人は音痴ではない』という通説を思い出すのだが、確かにその通りなのだ。
 ハズしていて自覚できない事実それそのものが、人並み以下に劣っている悪いコトで、それが本人の人間としての価値を落とすなどとは言わない。だが社会にいる大多数の人間に備わっている共通の感覚世界を前提に成り立っている文化体系があり、理由はともかくその共通性に乗っかれない以上は、そこでのキャリア形成は望んでも叶いようがない。

 一般的には『素質』『才能』と表現される人間の適性、これは避けられない現実として個人個人でばらついており、有無や程度の偏りがある。社会的平等の議論は普通に交わされて良いと思うが、適性の偏りを差別意識につながるとして悪者扱いで無視したり、敢えて逆行さえするような無理を強行したりというのは賢明とは言い難い。
 何か特定の適性を取り上げて、それがあったり長けていたりするヤツが優れていて偉くて、欠けてるヤツ乏しいヤツは劣っていてダメ…などという価値観は好きじゃないが、だからって自分に適性の無い対象めがけて意地や憧れで執着し続ける姿を見ても、イマイチ積極的に応援できないのは事実だ。自分占有の時空間で物品と向き合う孤独な取り組みならいざ知らず、社会においては絡む相手が発生してしまうので、その相手にとっては迷惑にもなってしまう。
 残念だが、ホントに適性が無くて向いてなくてモノにならないヤツは、手を施そうにも手が届かなくてモノにならない。ちょっと酷い響き方をしてしまうのだけれど、私は音楽を通して『本当にそんな人種がいる』という現実を認めることを学んだ。非難も批判も意味を持たないのだから、争いごとにしても無駄である。

 で、ここまでは音感という生来備わる認知能力がテーマだった訳だが、後にこれが生来でなく、理屈で解るハナシ、考えて答が出るハナシにもちょくちょく起こっていることに気が付いた。なるほど理屈も思考も、現時点できないヤツにとっては生来備わっていないのと同じ不可能事象であり、努力や経験で手に入るとはとても思えないんだろうな。
 手を変え品を変え誰から何度、時に感情的に、時に懇切丁寧に論理的・合理的に正されても、ぽか~んと全員の時間を巻き戻して何ひとつ進展の無い不毛のゼロ地点から、再び変わらぬ持論の主張を始めてしまうのだ。
 周囲から見りゃ『解るはず』『解ってるクセに』そいつが悪い・ハズしてる・間違えてるとは映るのだけれど、実はそういう問題ではなかったりする。向いてない人種が自覚なくやっていて、まずテコでも動かぬアッチの世界の主張が永久不動で確定しており、そこに全ての辻褄を合わせようと残りの言動が決まってくる。この順番なのだ。

 おっと、あっという間にえらく分量を喰ってしまった。
 まあ誰とは言わんが、というか一人ふたりの規模ではなく結構まとまった数の組織集団まで対象になるのだが、つまるところ今般の混乱はこういう本質のもとに起こっているのではないかと見受ける。

 向いてないんだよ。そんなのを追い詰めるから発狂するのだ。ほかっておこう。

 1億2千万人日本国民は、こんなぶっ壊れた誤作動も起こさずここまで来れている。
 引き続き思慮深く冷静沈着が一番、マスクは対面時の飛沫感染を抑止する程度の機能なんだし、どうせ外出を控えるんだからトイレットペーパーは切らしても致命的には困らない。感染検査するなら結果を受けてどう行動するか決めていないと意味ないし、1~2週間で感染の進行度に白黒つくほど動きが出るとも思えない…というか一気にラクにはなり得ないから、いまあれこれ躍起になる理由をひとつずつ考え直そう。
 あとガッコの措置は現場事情があちこち大きく違い過ぎるはずだから、自治体単位で一週間~半月毎の短期計画を刻みながら進めるしかないのかなあ。

 現場の現実を決める最前線の実力が、直近を生き延びる最善策を求めてフル稼働。
 雑音も飛び交うが、狙いはこれひとつだと思う。お互い大事に行きましょうぜ♪
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