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【1210】人類史教訓の算出プログラム絵巻物 [ビジネス]

 まずは新聞関連の積み残し話題から。
 新聞紙は丈夫で吸湿性が高いため、昔はいろんなところで使われたものだ。

 箪笥の抽斗や納戸の棚など、ありとあらゆる収納スペースの底面・床面には『じか置きしないなら、とりあえず新聞紙を敷く』が常識であった。だから倉庫の整理や家の建て替えなどで、普段手を付けない長期保管庫を整理すると、敷かれた新聞紙の日付で搬入時期を知ることができた。
 通常は本でいう裏表紙にあたる最終ページが、ラジオとテレビの番組表になっており『ラテ欄』と呼ばれ…と今どき念のため解説を入れたりしちゃって、とにかく昔のラテ欄なんかは出て来ると懐かしくてついつい見入ってしまう。家計簿の日記機能と似たような、懐かしい記憶の引金である【443】
 既に記憶に自信がないのだけれど、NHK朝ドラ前作『らんまん』でマンちゃん遺品の植物標本を整理するにあたり、標本を挟んだ新聞紙を手掛かりにするくだりがあったんじゃなかったっけ。

 『今日こんなことがありました、こんな日でした』という毎日の記録は時を経て、当時その場に渦巻く一時的な心理境遇から離れて、冷静な俯瞰視点での情報を再提供してくれる。そこにいた自分の姿の記憶まで含めて、誰の介入もなく一人真摯に過去を懐かしみながら反省することができる。
 いま新聞社がいくつ生き残っているのか知らないが、今日の出版物を収納の敷物にしたとして、いつの日にか人々は目を止めて思わず読み込んでしまうだろうか。カネに困った物書きが日銭目当てで政権勢力に媚びて書いた駄文散文は、それなりに特徴的ではあるんだろうが、人生の想い出に残る社会実情の脳内記録ファイルに噛み合わない。あやふやなウワサ話として卑下されていた三面記事の方がよっぽど正確だ。

 因みに、古新聞が人の目に触れてSNS記事などに昇華される例は結構な件数になっていると思われ、見境ない文書電子化の盲信なんぞ押し進めると、この社会史の草の根保管機能は失われていく。

 『誰もが認識する実情と無理なく噛み合うこと』が社会の事務連絡の機能要件だとすると、この情報領域は間もなく人口知能AIに凌駕されることになるだろう。
 まだまだ定義が不明確な『人工知能』というコトバだが、端的に演算能力と記憶能力に現代コンピューター技術が使われていて、人類文明として価値ある情報処理を可能にしてくれる機械くん…あたりがチマタの共通認識ではないかと思う。
 だとすると同じ演算と記憶のハードウェアを備えたAI同士でも、そこに記録ストックされた記憶情報の内容や、演算処理フローのアルゴリズム構成などソフトウェアによって『中立』『率直』の情報品質の管理能力が違ってくるはずだ。つまりブツだけ見て『AIだから信頼できる』という理屈は成り立たない。

 『中立』は人格や思惑による操作と相反する概念だが、その正体は『万人の人格や思惑が手放しで向かう方向性』のことだ。ヒトの世を離れたどこか雲上に、全人類がひれ伏す『中立性判定マニュアル』があって、それと照合して決まるものではない。
 ここに『中立』とは『人間と根本的に違う機械ならではのアブソリュート情報処理体系』が定義し保証する情報の質ではないことに気付いておこう。
 同様に『率直』も意図的な曲解とは相反する概念だが、その正体は『万人が未加工ありのままの現実だと認識する解釈』のことである。

 個人あるいは一部の少人数が、全体集合の中にあって部分集合を装いながら、全体集合から違った系に変質し、全体の自然な情報処理に噛み合わないこと・同化しないことをやらかし始めた時、そいつらは中立でなくなり率直でもなくなる。
 ここまでを整理すると、『社会の事務連絡』の品質を維持するにあたり、特定の人格や思惑と縁を切る方策として、まず情報品質の管理に関わる人間を人工知能AIに代替する方策が有効。
 但しAI置換だけでは足りておらず、これを社会全体が考え得る限りオープン化して、ひたすら社会組織全体の情報特性を広く反映させるとともに、常に最新情報を演算させ記憶を更新させ続けることだ。これが世間一般『まあ常識的に良いセンいってんじゃない?』ぐらいのレベルで実現すれば、政権に跪き言いなりを喧伝するだけのマスコミ報道など、業界まるごと消滅する。

 現時点において既に公開AIは、とりあえず単語や表現の選択において好意的な姿勢を保ちながら、言語情報の応酬としてかなり自然な会話が可能になっている。つまり情報体コミュニケーションの局面において、善良な人格像と潤沢な知識量を感じさせる印象ツールは揃っている。
 このAIに人間が自覚する『主観』『自我』『意識』のようなものはあるのだろうか?

 ナウ議論が交わされているところではあるが、これらの印象ツールを『統計的オウム』と呼んで『主観』『自我』『意識』の本質とは別に扱うべきだとする考え方がある。こっちがどんな受け止め方をしようが、所詮は膨大な記録情報から統計的に導き出される演算結果の所業に過ぎないのだと。
 豊富な知識を持ち相手に好意を抱く『主観』『自我』『意識』があるからこそ相応の印象ツールが揃うのだけれど、だからって成功している会話例から印象ツールだけメカニカル算出で揃えて返答を組んでも、その情報の質的オウム返しに『主観』『自我』『意識』が宿るワケじゃないでしょ。そういうことなんだろうな。

 こればっかりはオウムたる発信元に乗り移らない限り、絶対に答が出ない…というか、乗り移れるからにはそこに『主観』『自我』『意識』とせめて等価なモノが存在してなきゃいけない気もするんだが、そこの深みにハマりに行くのはやめておこう。
 今ポイントを置くのは『統計的』という、全体集合を代表する特性で応答する規律作動をもって『理知的で好意的』という印象が完成されているということだ。
 言ってしまえば『統計的オウム』そのものは大いに結構であり、現有の知識で精一杯フレンドリーに会話するその姿勢は、多くの人々にとって社会性の目標値だったりもするのではないか。
 ここまで理解すると『社会性の理想像は統計で算出できる』として理屈の破綻は無いように思え、AI議論において『人間の尊厳』みたいな漠然ワードを印籠にしてAI社会参画を否定する向きには、その『尊厳』とやらのナニが統計算出値を上回って価値があると感じられるのか解説させてみたい。

 私個人的には『主観』『自我』『意識』みたいなものは幻影でしかなくて、大脳=大容量ストレージを持つ生物はみんな『統計的オウム』なのではないかと思っている。
 だからこそ成長期の初期書き込みは非常に重要なのだ。突込んで話題にするかどうか長らく迷っているのだが、殺人や略奪などの破壊的行為を楽しく建設的な事象として入力された人間や動物は、その方向性のアルゴリズムに則って自らの寿命を生きていく。

 人のココロは時に予測を外れてぐらついたり、のぼせあがって粗悪な狂い方もしがち、『統計的オウム』の理想を知りながら、いけないと解ってそれを裏切ったりもしてしまう。だが結局のところ『人間、誰しもそんなもの』という共通認識があって、それを否定したくないし大抵は否定しないため、結局の結局これがまた全体集団の代表特性として割り込んでくるからムツカシイ。
 社会に流通する『中立』や『率直』の浮動性を認めて、過去や現在の、個人や大衆の、生データと統計算出結果をいつもみんなでチェックし考え直すために、情報空間の記録メディアは存在する。
 ブツとしてただ置いておける情報を目のカタキにする社会風潮は危険だと思う。

 今日のあなたの作文が永遠に幸福を発信しますように。では送信、グッドラック!
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