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【1201】五十音順の幸福とアルファベット順の未来展望 [ビジネス]

 ありゃりゃマンちゃん気が合うね。言った先から図鑑に新種発見を追加しちゃって。
 実はやり直し工程って、一度は見て知った通り道に『どこをアップグレードしてやろうか』『前とおんなじでたまるか』という執念めいた娯楽要素が常に背景として存在するため、一度目の落胆の瞬間に直感するほど賽の河原的な徒労感は無い。決めた目標は、やり始めたら結局は楽しくて面白い。

 理学博士号授与の記念壇上から放った『植物は、面白い!』の一言が痛快である。

 私は小学生の頃プラモデルが好きで、乗用車から航空機から艦船から陸海空ミリタリーからよく組み立てたものだが【209】、結構な回数でふたつ同じものを買っている。
 ある時は初めてのスプレー塗装で大失敗したり、またある時は完成させたのに近所の野放し放置幼児に自宅侵入されて壊されてしまったり、状況はいろいろである。当時はどこのおうちにも施錠する習慣が無かったですからね【1032】
 いずれにしても、こういう失敗なり災害なりで初期成果が失われた時、私の両親は快く再挑戦の資金を出してくれた。私が熟考して取り組みを決めて買ってきたものだから、その納得いく完遂を最優先してやろうとする気持ちがあったのだろう。
 私のその後の人生展開を見るに、これはタイヘンに有難い配慮であった。

 二度目はどこが難しいのか、組立説明書のままにやっては後でイマイチ感が出てしまうのか、全て実作業を通して解っている。二度目は仮組みして手を入れてから本組みするとか、せっかくの二度目だから初回は素通ししたところをもっと緻密にやってみようとか、初回ぶんの部品を流用して新しい改造を加えてみようだとか、その充実度は初回を大きく上回ることの方が断然多い。

 私の場合、どこかのコンテストに出品するようなレベルには到底届かず、数年後に超絶音楽バカにフェーズ移行するや執着心も失い、作品をちょっと年下の親戚の子にやってしまうなどの『処分』で苦労はしなかったのだけれど、思わず溜息の洩れるような芸術作品を仕立ててしまう超一流モデラーの皆さんって、完成品のその後の維持管理をどうしておられるのだろうか?
 どんなに温湿度条件を整えて暗所に保管しても、経時劣化による傷みは宿命的に進行するものだし、どんなややこしい箇所がどう傷むかは補修の都合なんぞ考えてくれるはずもない。傷んでなくても死ぬほどデリケートで、傷んでしまうと本来的機能が激しく損なわれる。これはキツいぞ。
 自分の手じゃ絶対に葬れないし、私は早々に音楽バカに転身しといて助かったよ。

 それにしてもマンちゃんの図鑑収録数、3250種もあるのかあ。ここはようやく1200回いったばかりだからこの3倍ネタ数があって、全部に思い付きの漫談でもない正式な学術解説が付いてるということか。凄いな。
 まあ私の頭の中の『面白いコト』はまだまだ無尽蔵にあるから、最終的にネタ数で負ける気はしないのだが、内容のロクでもなさが致命的である。さらにこんなものでもやり方をそろそろ工夫しないと、ドキュメント化を壮大に積み残したまま私自身の製品耐用期間が先に来てしまうのは確実だ。どうする?

 劇中でマンちゃんが『誰にでも手に取って欲しい。学名だけではなく和名でも引けるようにしたい』と言っていた。現代で言う『検索機能』の汎用性高い造り込みを、どう紙面構成・綴り込み構成で実現するかの思考検討である。
 偉いなあ。私が無計画にだらだら書き散らしてきたここなんかどうすんだよ。

 恐らく最初はガラケー内臓の連絡先データベースの普及あたりが発端だと思うのだが、検索窓に音読文字をテキスティングしていけば即座に結果出力が返ってくる時代が到来して、程なく『今の若い人は辞書が引けない』という社会現象が語られるようになった。
 日本語だと『あいうえお』の行順と『あかさたな』の段順が頭の中でマトリクスで組めておらず、目指す単語をお題に置き、最初に辞書のそれっぽいところを開いて出て目に付いた単語と比較して、それらふたつの単語の相対位置が、瞬時に反射神経でとらえられないというのだ。

 いっぽうの英語はアルファベット26文字だから多少は簡単かと思いきや、そもそもから『エービーシーの歌』があやふやで、アタマのA・B・C・D・Eとお尻のX・Y・Zぐらいなら何とかなるが、その間に広く分布するふたつのアルファベットの相対位置関係はもうお手上げ。
 どうやら仮名もアルファベットも、文字列を一定の規律体系に則した空間位置として意識する能力が失われているらしい。私は今も百科事典は大好きだし、確かに頻度が落ちたとはいえ辞書も引くが、標的探索の瞬発力が落ちたとは微塵も感じない。
 今どき無用の長物的に見えるのかも知れないが、この能力は結構思わぬところで役に立っているような気がして仕方ない。子供たち若者たち、古い辞書が手近にあるなら、ただのゲームで構わないので早引き競争などやっておくと悪いことは無いように思うぞ。きちんと根拠を示せなくてスマンけど。

 現代の子供たち若者たちは、いわゆる『デジタルネイティブ』という世代であり、我々昭和世代とは原理レベルで異なる情報インフラ環境で生まれ育ってきた。
 ちょっと前なら『パソコンに没頭してばかりではいけない』、最近なら『スマホにかまけてばかりではいけない』などの言論が、まだ昭和世代の世論が過半数を占めていた日本社会の、若者批判を象徴する大局的姿勢として飛び交っていたものだ。
 過去にここで何度も述べている通りこの私自身も、心構えのない無防備のまま次々と情報だけ溢れてくるスマホに身を任せるというか、アタマを預けるのは大反対である。
 だが反面、もう昭和世代には見ようと努力しても永遠に見えない、子供たち若者たちのデジタルネイティブ精神構造で社会規律を成立させて動く情報空間があって、若い人たちはそこでその年齢の人生を生きているのも事実だ。物理法則も、流通言語も、喜怒哀楽や快・不快の基準さえ理解を超えた別体系なんだよ。

 『若者はいつの時代でも否定されるものだ』などと物知り顔を決め込むヤツに限って、この世代を分けた『精神構造・情報社会の次元違い』のところを思考停止のブラックボックスにしたまま、ケチな経験則に仕立ててしまっている。こういうのが若者に腹を割ってもらっているところを見たことが無い。

 また『国際的な競争力を身に付ける』だとか『最新の時代に適応する能力を身に付ける』だとか、これまた具体的な課題項目がさっぱり見えないクチだけスローガンを掲げて、初等教育のうちからわざわざに高度通信機器を持たせたがるバカな大人が多すぎると思う。
 そりゃ子供の年齢で最先端新技術のトップクラス級の思考をするようなジーニアス人材の輩出は、可能性として全く無いハナシではないけれど、ガッコに通信ツールばら撒いてそんな稀有な成果の刈り取りが期待できるものでもない。
 むしろバラマキ通信ツールを巡ってのくだらない利権商売を発生源から根絶する意味で、小中学校はリア充アナログ世界で心身を鍛えるのが最優先だ。

 最近あちこちで気になるのが、子供連れのお母さんが子供の顔を母親として見ずに、スマホに熱中している姿である。やれ虐待だ育児放棄だと判りやすく見えて指差して人を呼べる現象については、目を吊り上げてアラ探しめいた指摘ばかりする癖に、それこそ子供でも判るあからさまな親としての我が子への関心の放棄が、社会問題として扱われず看過されている風潮には少し恐怖感さえ覚える。
 デジタルネイティブ時代の人材育成・能力開発が、ヒト以外の情報体との交信を絡めたものになるのは必然だし宿命だが、それがヒト対ヒトの素直な意思疎通を阻害して、ヒト対ヒトの好意的・建設的な共生空間の幸福を損なうことがないように、慎重に目を光らせ適宜に周知を図る必要があると思う。

 今季NHK朝ドラ『らんまん』は、マンちゃん発の幸福の連鎖を描いたドラマであった。いつも自分で幸福を組んで放って連鎖させていけば『やりたいこと』が枯渇することなどない。
 若者たち、今のそのデジタルライフで『恒星のような人物』になれるだろうか?
 デジタル機器と態度を決めて向き合うのは自分だ。よく考えて、グッドラック!
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