SSブログ

【1161】命を守る文化系教科と体育会系教科の時間割 [ビジネス]

 前にも述べたが、民間製造業で重大死傷事故が起きた折には、とにかく全業務を一斉停止する仕組みがある。コトの大きさ次第では、会社の枠をも横断して業界全体が、当該作業どころか類似・近隣現場のあらゆる動きを無差別で停止する勢いだ。
 まさに『現場の、現場による、現場のための安全衛生チェック』であり、そこにいる当事者が、ガチで命に関わる我が事として、自分のその目と注意力で、おのれの身の安全を確保するために、発生事例を正確に理解したアタマで、手抜きなくその大ゴトが持ち場で現実になる可能性を探し、報告を上げる。
 その報告を組織管理の監視眼で総合的・横断的に受けて、そのままで再開GO判定を下せるところは再開GO、何か対策すべきと判定したところは、必ず対策を入れて安全確保を確認してからの再開GOである。

 まあ正論直球の理屈通りではあり、日本語の解説としてはこれだけにならざるを得ないのだが、こういう情報を読むなり聞くなりして、対応する人間の実際の動きには結局ばらつきが出るものなのだ。

 『解ってないヤツ』は、どうしても本腰が入らない。
 もおお、この忙しいのになんでまた…と愚痴のひとつふたつも零れ出るのは、実は自然なことであり、だらしないワケでも不真面目なワケでもないのだが。
 具体的な締切日程に押されてナウ絶対に片付けなくてはならない仕事を『現物』として抱えているのに、どっかの誰かがやった失敗の情報だけ横ヤリで持ち込んできて、そこからわざわざに想像力を拡げて、この自分にそれが起こるかどうかの回答を半ば強要されるというのは、やはり納得のいくものではない。目前の日常業務の方が優先度高いと思えてしまうのは、常識として直感できる方が大勢いると思う。

 だから事故が起こる。『危険は未然の意識の外側にある』とはこういうことなのだ。
 未然の意識のこっち側に身を置いたまま『本事例のリスク確率を自職場に適用する』という課題に取り組もうとしても、この心境では空振りにしかならない。
 これが安全衛生管理の難しいところで、業務審査は我が身まで含めて事故を間近の肌感覚で理解しない限り、少々努力したところでどうしても身が入らない。一回でもえらい目に遭うと態度が変わってくるんだけどね。

 さて、こんなところでいきなり横道によろける。
 いま『事故を間近の肌感覚で理解する』という表現を使ったが、これは『深刻な苦痛や損害とはどんなものか、我が身に転写できるくらい具体的な記憶情報として持っている』という意味としてよかろう。
 人間は『そんなことあるワケないよ』と現実を無視して決めつけ、あっと気付いた時には手遅れで『失敗』として事故に巻き込まれるのだが、実は『そんなこと』のイメージ=脳内世界の情報構築は一応そいつなりに出来上がっていて、つまりはそいつなりに『理解』してるんだよな。
 ところがいざという巡り合わせで『現実の認識』という究極逃げられない課題に対して、その脳内情報の品質が全く追い付いていなくて、だから『まさか?』と気付いて戸惑う頃には手遅れになっていると。

 まあ本当に怖い目を見たことが無くて、想像力の拡がりが届かないが故に危険の想定が甘くなるパターンでまずは始まって、職歴を重ねるうち自分自身が30分の29の軽事故に直面したり【1157】、『やっちまった』他人の事例を聞いて知ったりする機会に触れて、こりゃ安全衛生の職場意識は真面目に持っておかないとヤバいなと学んで身に付いてくるのが一般的なところだと思う。
 命を失ったり、重度障害が残ったりする事故の『意外すぎる現実』に遭遇しては、その『情報』が切実な恐怖と関連付けられて記憶として蓄積され、その情報ライブラリーが『安全衛生意識』の完成度を徐々に上げていくのだ。
 『事故を間近の肌感覚で理解する』の『理解』とは、情報の有無だけではなくて、苦痛や損失に直結した恐怖や、見よう見まねのなりゆき我流ででも行う反射的な回避行動の連動まで含めた、複合情報処理のことではないだろうか。
 『理解する』って、情報処理的に結構定義しづらい面倒な概念なのかも知れない。

 まあいいや、本題に戻って、安全衛生管理の本気度のハナシである。
 誰もが若いうちはこの情報ライブラリーがまだスッカスカで、つまり安全衛生意識がスキだらけだしとっさの回避反射もできておらず、つまり『事故の危険に対する理解が足りない』ということになるのだが、この未完成の段階で、そんな『切実な恐怖の記憶』と同格の緊急発動パワーで『逃げたい、避けたい』衝動を起こさせるため必要なのが、怒鳴ってぶん殴って蹴飛ばしての『本能領域のストレス調教』ではないだろうか。
 年月を重ねて現代日常生活で情報ライブラリーが十分に充実するのを待っていたら、社会空間で、少なくとも現場作業者として、生きていくには到底間に合わない。
 ここでポイントは、情報ライブラリーを構築するのに掛かる時間は負からず、致命傷を負う前に怒声と体罰で叩き込んで間に合わせるしかないという真理である。

 レベルの違いはあれども乳幼児から成人まで、『話して聞かせて解ること』と『ごちゃごちゃ言わずカラダに叩き込むこと』の両方を組み合わせた人材育成の基礎概念が、昭和の時代から少なくとも二十世紀のうちはきちんと確立していた。
 日本語で『事故の危険を解っている』と表現するメンタル事象は、少なくとも『情報ライブラリー』由来と『本能トレーニング』由来の二層構成になっている。それを昔みんな経験則で社会常識として心得ていたのに、やたら洗練を装った『優しい社会』が提唱する『暴力』『虐待』『ハラスメント』の攻撃的正義がもてはやされた結果、謎解きのような行きがかりを経て危なくもないモノで死んだり、死んで当たり前の自殺行為を自覚せずやって当たり前に死んでしまう事故が激増したように見受ける。
 もっともこんな今風の世の中でも、高い安全衛生意識を要求されて暮らしてきた人間はいて、自分の視野の外側を畏れ恐れる目の付け所や、誰の意識・心理状態をも信用せず何度も多面的に確かめようとする感覚が見え隠れするので『解ってるヤツ』同士はすぐお互いに感づくものだ。

 逆に『そんなことあるワケない』とか『あいつはひとコト多い』みたいな小言をついつい口走りたがるタイプは、自分の思い込みから踏み出せず踏み出さず、その未熟な自画像にも気付いていない人種である。
 手段を択ばず危険回避を身に付ける必要もないぬるま湯のような安全地帯に生きてきて、自分ひとりの脳内世界を一方的に主張して大ゴトにもならず収まってきた過去の顕れであり、良い悪いはともかく…というかあんまり良いハナシも無いんだけど、とりあえず事務・軽作業向き限定にしといた方が無難な人材ということになるだろう。
 これだけ偉そうな私まで含めて、いざ事故に接した時『自分の意識の外側の現実』に的確に組み合い、冷静に処置するのは本当に難しいものだ。座学にしても実習にしても、これを短時間でラクチンに倍速習得する方法は、今の私には思いつけていない。

 今どき流行の人工知能AIの場合、膨大な危険事例の情報ライブラリーを最初から高い完成度で用意しておくことが可能であり、回避動作との連動も初期設定で叶ってしまう。怒声や体罰など、言ってしまえばわざわざに危害性の入力を加えるストレス調教を施さなくても、ちゃんと安全衛生的に正しく動くのだ。
 『緊張感』や『責任感』の機能プログラムは必要ないと思われる。
 これってかなり決定的に人間を上回る一面なのではないかという気がしている。

 人間は習得・体得した記憶という『情報』を忘れて疎かにし、また事故を起こす。
 世の中の重保現場は、その確率と戦いながら生計を立てている。

 たったひとつの命まで差し出して揉み消される軍隊ごっこのママゴト上下関係ごとき、そもそもから習得するものでもなければ、つい疎かに忘れるものでもないだろう。
 若い自衛隊員の人たち、使い古されたセリフだが、よく考えて自分を大切にした方が良いと思うよ。宮古島はそろそろ梅雨入りとなる。
 当面まず二次災害は何としても避けねばならない。明日も無事故で、御幸運を!
nice!(11)  コメント(0)