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【1113】ヒトの進化の環境整備チェックリスト [ビジネス]

 ふーん、舞ちゃんはお好みに肉かぶせて、そのままひっくり返すんだ?
 あれだと握り寿司の酢飯とネタのような積層構成になるため、裏返したとき肉が直に鉄板と接する位置関係となり、他人の口喧嘩に気を取られなくとも早期の焦げ付きが心配になる。薄い肉一枚の上から野菜や水分を大量に含んだ粉もんタネが乗るので、粉もん層に熱を通したい目的と肉を焦がさない節度のバランスが、どうしても火加減の調整とターンオーバーの念入りな手間を要求してくる。
 テコでぴたぺた遊び半分にひっぱたいたり、ごそごそ底ざらえにテコ突っ込んで置き直したり、無意味に圧迫したりひっくり返したり、食い物をオモチャにしてに形状を整えながら雑談でダベるにはイマイチ向かないんじゃないかなあ。食う段になって肉を底面にすると切り分けやすいのは認めるけど。

 まああのくらいなら、オコゲが香ばしい!で食っちまって気にならないだろう。
 『食い物は焦がすと発癌性物質と化す』とか何とかイミフにおどろおどろしい都市伝説がポピュラーに定着したのは何故だ?どうせ食い物なんだし、オコゲに怯えるのは異常だと思うぞ。
 あれもこれも猛火バーベキューの採り忘れみたいに炭になるまで焼いて食うんでもあるまいし、どうせ加熱処理したら見える見えない関係なくそれなりの熱変化は起こってるんだろ?食い物に因縁つけてるヒマがあったら、鈍感力で食事を楽しんだ方がきっと健康になれるぞ。

 私は1~2割ほどタネを取っておいて、肉の上からもう一層かぶせに行くタイプである。両面の層構成を揃えて冗長性を与え、気楽に火を通すためだ。
 高校生時代、近所になかなか安くて美味いお好み焼き屋さんがあって、そこは4人掛け鉄板テーブルが食堂然と並ぶ完全セルフ制となっており、小学校給食の『大きいおかず』風のアルマイト容器に野菜入りのタネをどん!と用意され、肉入りの場合はその上に牛なり豚なり平たく被せて載せられ、横に玉子一個が生でごろんと付いてくるスタイルであった。今でも焼くのは好きだし得意である。

 オトコばっかりのむさ苦しい学校にあんな可愛い女の子ふたり放り込んだら、もっと根本的に違う形で全学級スケールの争奪戦が始まっているはずなんだが、まあストーリーの本筋とはあまりにも関係ない枝葉エピソードになっちゃうし、こんなもんでしょ。
 学業成績以外までも緻密に評価する名物教官というのはあって自然な設定だと思うが、そこで学生たちがいわゆる『点稼ぎ』のデモンストレーションの必要性を意識するくだりが面白い。実は案外とこれ、ドラマだからといってわざとらに若い人たちの心理展開に、ある意味オトナ価値観に意図的に媚びるかのような背景事情を用意したもの、とも言い切れないのである。

 今のガチ現実の若い人たちは、良くも悪くも洗練されたヨソ行きの社交辞令を通して学校組織と接しているのだ。これに気付かず幸いなこととして薄らぼんやり彼等を眺めている限り、『無難な平穏』を取り繕うバイアスのかかった情報ばかりインプットされて、実質相手にされずにオシマイではなかろうか。

 かの航空学校の教官殿が今後どんなキャラクターとして描写されるのかは知る由もないが、少なくとも私は人材育成の課題を担う立場に立ったとして、あらかじめ準備された視点で細かく記録をつけるような見方はしない。
 みんな若いんだし元気なんだし、つっけんどんにお独りさまで自分流を突張るのもヨシ、和やかな親睦を取り持とうとあちこち遁走するもヨシである。好成績をハナにかけて嫌がられるのも何の問題も無いし、低成績からえっちらおっちら苦節ステップを重ねるのも後々を楽しみに眺めると思う。
 私自身もまだ見知らない領域まで含めて、ナニがどのくらい優れているかは、本人たちがどこまで走るか、走った到達点からどの方向に手を伸ばそうとするかで決まる。こういうのは『計画』『実績』『反省点』などに代表されるヘンテコな評価書式なんぞ用意するから、記入欄を埋めるためのヘタクソな作文が先に立ってしまい、スカが的外れな先入観の人材説明書を各々に貼り付けちまうんだよ【75】

 本来気を付けるべきは、まず自他の殺傷に思い及ぶほどの感情の衝突だ。
 昭和の時代に当人同士が各々信ずる『正義』を賭けて、ビシッ!バキッ!とか雨の中を二人で泥だらけになって組み合って、口角や鼻の下にひとすじ流血して解決してくれる程度なら、これもまた問題は無い。二人ともバテてきて『…やるなあ』『…お前こそ』『…わっはっはっは!』と大笑いして本当に仲良しになってくれた実例は知らないけれど、『共通認識している道理をどう現実的にさばくか』で意見がたがうぶんには、当人らで擦り合わせて最適解を導き出すに任せておいて険悪な結末にはならない。

 怖いのは道理を壊す『怨恨』で、誠心誠意を籠めた真剣な努力で会心の成果も上がっているのに、いわゆるサル山力学で抑え込まれ、理解の足りないオオヤケの同調もあって世間的には無いものにされたり、あまつさえ人生を賭けていた成果を他人が横取りした行きがかりになるケースなんかは理解しやすいかも知れない。現実世界に対して、思考や解釈で収まりのつかない激しい嫌悪の感情と否定的な記憶が醸成され、修復不可能な人間関係の軋轢意識に化けるのではないかと思う。
 大学研究室や公的研究施設など進級と世代が交錯する小世界で、メッタ刺しの凶悪殺人事件が起きたり無差別標的の危険物テロが仕掛けられたりといった事例を見るたび、人さまが丹精込めた世界観を怒らせた時の怖さを思い知らされるのだ。
 この手の『道理の歪曲』を見つけたら、いち早く『捻じれてんじゃないのか』とその認識を共有し、みんなで考えて対応を決めるよう方向付ける必要があると思う。

 もうひとつは『背徳』の構図を動機の段階から摘発し排除しておくことだろう。
 単に誰かが誰かを好いたり疎ましがったりという関係は人間2人以上いたら普通に発生するものだし、それがコミュニケーションの場面で見え隠れするのも自然である。気にするヤツは気にするし、気にしないヤツは気にしないし、遅くとも小学校中学年以上かな?親とは別の自我が確定する年齢になったらキホン本人マターでしかない。
 ここで背徳つまり『組織集団としての成立を脅かす裏切りマインド』が湧くと、その共同生活の場をお互いさまのお陰さまで維持する良心や仲間意識の共通基盤が、深いところから潔癖性を失い崩壊するのだ。
 仲間を落とし入れるために裏で悪い噂を流すとか、みんなで拠出した共同資産に手を付けるとか、社会通念の領域まで含めた違法性・犯罪性というか、まさに『反社会的意識』が紛れ込んでいると、その組織体は組織力を失う。
 反社会的というからには同じ社会の他の人さまにとって『悪いコト』であり、悪いコトを起こしたのなら、その張本人がきちんと認めて謝って改める処置で解決するのが現実解となる【109】

 私の考える限り、これらのような集団意識の致命的な品質低下を食い止めながら、本人たち思う存分のペースで『本人が良いと思うこと』と『パイロットとして十分優れていること』が一致した時期を見定めてやるのが、名伯楽教官の役目ではないかなあ。ヒトは環境への適応性を持つ生物なので、劣悪な環境の組織では優秀に進化できない。

 最近の若い人と接していると『この主人公は正しくないと思う』とか『この登場人物は嫌いだ』とか『作者は何故こんな辛い話を他人に読ませようとしたのか』みたいな、日本語として否定的な内容の読書感想文を、コトもあろうに『書いてはいけない』という倫理的概念でとらえて避けているケースに遭遇することがあって驚く。
 だからみんな読書感想文が書けないし、あらゆるレポートが嫌いなのだ。アンケートなどもそのへん解らずに設問して回答を受け取るだけでは何の課題検出にもならない。

 北米相手の交易で活躍中の若者が、少し遠慮がちな前置きで『皆さんちょっと引掛かるかも知れませんが、僕は有名動画サイトで英会話を習得したんです』と語ってくれたこともあった。ああーわたしゃ昭和のNHKラジオ講座ですわい、結構ケッコウ。
 テキスト集とカセットテープでそこまで英語力がモノにならなかった馬鹿な年長に、上から目線でやっかみ混じりの偏屈教育論でもぶたれたか。賢くて気の利く若者にくっだらない遠慮と躊躇を教え込みおって、無能老人が。

 確かに教育プログラムにおいて教官や指導係というのは成績評価する側の立場にあるのだが、それは『未来を生きる若者たちが、現時点でどこまで適性アリかを判定する作業』に過ぎないと、正確に理解しておくべきだ。たかが既存枠への整合の完成度なんぞ、その程度のもんである。
 年長世代が見聞きして通ってきた知見を、確かに若者たちは知らない。
 だが若者たちがこれから見聞きして通る知見を、年長組は見聞きすらできない。

 日本社会は、その事実関係に観念すべきだ。
 将来の知見が現行の知見を超えて進化の歴史を刻めるよう、明朝もグッドラック!
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