SSブログ

【1207】タイマン度胸の伝達率向上委員会 [ビジネス]

 『日本社会の一般庶民層の組織自我の変遷』についてもう少し。
 大衆の注目を浴びる立場を無条件の反射的に避けなくなり、偶然にでもその立場になったらパニクらずにソツなく応答する習慣が、日本社会に広く定着したのは好ましい傾向だと私は思っている。

 『社会空間に対して自画像を披露するのは特別なことだ』とする直結ロジックが起動してしまうと、多くの場合まず当人は自然体で発揮できるはずのさまざまなパフォーマンス機能を失う。人目の無いところでリラックスして表情豊かに発信しコミュニケーションできていたものを、途端に窮屈な管理枠に拘束されたヨソ行きの提出物として演じるのだから、そりゃ負担を感じるのもカタくなるのも当然というものだ。

 仕事のプレゼでもない日常生活の場で、その昔の昭和世代は『自分の世界に没頭する』あるいは『気心知れた家族や友知人と会話する』ぐらいの拡がりでしか、思うところを吐き出す機会がなかった。
 こんな情報環境が『言われる前に察してよ』『クチで言わせるな、忖度しろよ』『それは言わない約束でしょ』みたいな、コミュニケーションしてるんだかしてないんだか判らない不明瞭な押し引きで人間関係が動くような、控えめで奥ゆかしく大人しいが、ある意味陰湿で裏含みのある社会形態を作り出したのだと思う。
 『NOと言えない日本人』には、『イヤなものはイヤ、ダメなものはダメ』と正確に意思表示する必要があったことに間違いはない。

 私が人生の視野を振り返って、社会一般の大衆層が遠慮や躊躇のタガを外して恥ずかしげもなく発散する体験を普及させ、社会空間を前に率直に発信する姿勢が公認のものに転じたきっかけとして、やはりカラオケの影響力は大きかったと感じる。
 ちょうど今リアルタイムで『ブギウギ』劇中のテーマにもなっているが、『世間に自己主張するには才能=人並以上の何かが必要』とする心理的ハードルが、昔はチマタの常識として共有されていて、そのハードルがオリンピック選手級の高さから常人の過半数が軽く越えられるレベルにまで下がったのだ。

 今も語り草とされるバブル期ディスコブームのお立ち台では、『品よく小ぎれいに身だしなみを整え、大人のマナーを身に付けて、早く世間のレディの仲間入りをしましょう』みたいな、メルヘンチックな表紙絵のハードカバー指南書に小学校まで夢中になっていたような女の子たちが、捨て身の一発屋芸人もたじろぐ前衛ファッションに身を包んで、閃光と轟音のなか踊り狂うことになる。
 日テレ系だったか、当時の首都圏では『トゥナイト』という時事サブカル特集番組がウィークデーの日付変更線前後にデイリー放映されていた。御存知ない昭和世代には『11PM』終了後の後釜番組だと説明すればイメージしやすいかも知れない。
 人気絶頂のディスコ文化は当然格好の取材ネタとなっており、毎日の帰宅が普通に夜11時台になっていた我々サラリーマン若年層が、都心に花咲く浮世文化を他人事として眺めて楽しむにはぴったりの、まさに『情報番組』であった。

 そこらで合コンやったらオトコどもの我先の喰い付きを一身に集められそうな『フツーっぽい綺麗なお姉さん』が、どっかのビーナス像じゃあるまいし、ホタテの貝殻一枚で股間を隠したようなビキニ衣装…というか未開民族の装身具でインタビューに応じていた回の翌日など、職場でソッコー話題になったものである。
 支持構造としては、背中側からお尻の割れ目に沿って、線状の部材をまわりこませてその先端に貝殻を固定するしかないはずだ。現実の工作として難しくはないが、実際そんな構造で現物を起こした時、本人の装着感は一体どんなことになるのか心配で仕方ない。そもそもお立ち台に乗っているところを下から見上げたら、どんな光景になっているのだろう?トイレに行ったらどうするんだろうか?
 あの娘、見かけはメチャクチャ好みなんだが、そのへんを気にする自意識プログラムが壊れてるってのは厳しいよなあ。うん解る、オレもあの娘が一番好きだったんだが…

 …などとエンジニアリング頭脳の使い方としてどこまで適切か甚だ怪しい会話を楽しくお下劣に交わしつつ、机の上では丁々発止の技術開発業務を日夜進めていたものだ。
 同世代のオンナたちがまだいたいけな十数年前に憧れていたはずの、オトナの女性像の成れの果てを目の当たりにして、これはまたタイヘンな少女精神文化の大転換が起こっているものだと唖然とするばかりであった。
 とにかく当時の誰がどの一面を、どこまで大ゴト扱いで意識していたのかは知らないが、私は日本社会の『お行儀や気品としての閉鎖性』が、アリからナシにはっきり裏返ったのがこの時代だと思っている。

 旧態依然の現状打破をスローガンに掲げて、傍若無人の破壊的マインドを『縛られない個性』『自由の可能性』に読み換えて野放しにするのはどうかと思う。
 だがムカシ日本経済が一見調子よかった頃の現役=バブル以上の世代が、自分自身の正直な価値観・人生観と真摯に向き合いもせず、流れ作業で夢遊病のように甘んじてきたニッポン精神世界の『掟』を意図的に捨てにかからないと、社会でヒトとヒトとが響き合って組み上がる組織構造を維持できない時代になっている。
 もっとも流れ作業で『掟』に身を任せて気にもならなかった人種には、こんな話を外から突込まれて理解して、最新の気質に適応しようとする視野など開けるはずもない。
 日本経済の絶望的な長期的低迷は、世代交代に失敗し人員構成が腰砕けになり、さまざまな産業域で組織力が失われて、それでもなお的を射た改善に動けていないことが主要因のひとつなのではないだろうか。こんなものを『失われたナンタラ』と名付けてみたところで、何の希望的な展開も起こりようがない。

 朝ドラ『ブギウギ』の歌劇団組織は、多少きびきびとした規律戒律の緊張感こそ描かれているが、やはり現代の視聴者層の理解と共感を優先して、人間関係の本質のところは今風に自由で、いわゆるタテ社会の窮屈感よりも、登場人物たちの好意や友情などが強調して描写されていると見受ける。
 まあ朝ドラ視聴で毎日が始まる現代ニッポン人に向けて放映するなら、このあたりが良いところなのかも知れない。決して悪い印象ではなく、一般大衆の平均値狙いの考え方の貴重な一例として、興味深く観させてもらっている。

 他に大掛かりな娯楽が無かった時代、あんなステージ…と言うと失礼になるのだが、人力で緞帳を引きずらりとフィラメント電球が縁取って光るような舞台で、庶民が一生やらないようなメイクと服飾で役者さんたちが華やかに舞い踊るステージ上での出来事は、それだけで観客にとって人生の記憶に残るほどの体験だったはずである。
 私が生まれた頃すでに映画に続いてテレビが社会で一般普及しており、それら放映コンテンツでの露出頻度こそが役者さんたちの知名度を左右するようにもなっていた訳だけれど、それでも現代のこの時代にして『舞台ライブこそ役者職業の本質、一度ハマると病みつきになる』と語られるのだ。
 やはり全身全霊の表現を対面コミュニケーションの直撃で観衆に伝える舞台ライブは、他のパフォーマンス形態とは別格の、堪えられない充実感があるのだという。

 貧相で矮小な閉鎖性気質に閉じ込められ今も抜け出せないニッポン精神文化だが、今季朝ドラのストーリーを通した直達コミュニケーション観の解説と手引きで、一歩でも前進させられないものだろうか。  
 応援するので、工夫とチャレンジでひとつ面白いところをお願い致したい。
 社会を引張る果敢で華やかなステージに、グッドラック!
nice!(12)  コメント(0) 

nice! 12

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。