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【1208】ちょびひげ算太おじさんの世直し底力 [ビジネス]

 時は世界大恐慌に向かう不況の下り坂、NHK朝ドラ『ブギウギ』のUSK歌劇団でも収益改善の身を切るリストラ策が次々と放たれ、会社にとっては看板従業員たる踊り子たちが、一致団結とは行かないまでも思い思いに協力体制を組みながら、労組協議の整備を目指して動き始めた。

 この時代のショービジネスシーンにおける雇用条件についてはあんまり知らないのだが、ひとつ確実なのは、記録メディアが無いため全てライブ稼働一発勝負の肉体労働だったということである。
 私の母親が1929(昭和4)年生まれの94歳で、『活動写真』と呼ばれる無音声のフィルム動画に、壇上の傍らの『弁士』が一人で台詞を付けていくという原始的な段階の映画をリアルタイムで知っている。
 パフォーマンスと言えばお芝居も音楽もライブしか無かったという時代は意外と最近にあったことで、それがフィルム録画を経て現状のデジタルコンテンツが一般流通するまでに、思いのほか時間はかかっていないということになる。まあF.M.アレクサンダーが19世紀後半~20世紀前半を跨ぐ時期の人だしね【1032】

 映像や音声の記録機器の発達により周辺事情・付帯事情の領域が変遷してきたにせよ、何だかんだで舞台ライブとしてやっていたパフォーマンスの基本はそのままなんじゃないの?
 だって設定シーンで劇中の役どころの心身状態を最大限に観客に伝え、その場の世界観に引きずり込む目的はずっと変わらないはずでしょ…と単純に考える方がどれだけおられるか判らないけれど、お察しの通りそんなに単純なものではなさそうだ。
 じゃあどこがどう何に合わせて要求値が変わり、工夫がなされてきたのかというと、私は役者でもなければ、演技で舞台も撮影も経験したことが無いので、体感を絡めて具体的な解説はやりようが無い。

 けれども、ってところで久し振りに映画を一本紹介する。
 タイトルは思いきり判りやすくも”CHAPLIN”、邦題は何故か『チャーリー』である。

 1992年の作品で、粉飾なくソリッドなチャールズ・チャップリンのバイオグラフィーという造りになっている。バイオグラフィーにありがちな大作で本編145分に及ぶ。
 先に書いておくと、ソリッドであるが故に女性関係のハードな一面もそれなりに描かれているため、子供さんのいるおうちで家族視聴するのは、あんまりお勧めできない。

 チャールズ・チャップリンを演じるのはロバート・ダウニーJr.、実はその従順でない若きチャップリンに不満を募らせるハリウッド女流監督として、”THE REWRITE”『リライフ』のマリサ・トメイがちょびっとだけ出演しているところが私にとってツボだったりする【917】
 改めてちょっと調べてみたら”GANDHI”『ガンジー』と同じリチャード・アッテンボロー監督の作品なのだそうで、なるほどその率直な長編ドキュメンタリータッチの作風には合点がいく【1133】

 さてこの”CHAPLIN”『チャーリー』だが、熱烈なチャールズ・チャップリン研究家専用というよりは、ソロ・パフォーマンス役者の一生を通して見るエンタメ文化の開拓・進化の歴史資料として、プロ・アマ問わず役者経験のある方に一度は御覧いただきたいものだ。損はしないと思う。
 時流のエンタメ最新技術が突き付けてくる市場新天地の拡張速度に突き動かされて、私生活そっちのけで研究と創作に没頭するその姿には、世界第一人者となった実力派パフォーマーの幸福とは何かを考えさせられる。

 因みにこの”CHAPLIN”『チャーリー』は、恐らくだけれどNHK朝ドラ『カムカムエブリバディ』算太おじさんの役作りに参考にされていたと思われ、好きで観ていた人なら『あ、あれかー!』と思い出しながら楽しめたりもすると思う。
 いや、放送当時はネタばらしみたいになりそうで気が退けて、黙っておりました。

 私の親世代からもよく聞いたのだけれど、チャールズ・チャップリンの有名作はどれも社会風刺が痛烈に効いていた。『コメディ』というジャンルは、庶民一般層に敬遠されるような軋轢を孕んだ社会問題や、批判的なあまり一部の権力から敵視されそうな政治思想のメッセージを、『笑える架空の出来事』にして広く普及させる目的の公共情報という位置付けだったのだという。
 産業革命による機械動力の大量生産ラインを相手に、人間の方が機械のイチ部品に成り下がってしまう。国を沸かせた独裁政権の国家体制による強大な組織力が、結局は国民の幸福を妨げ、人間の幸福を妨げてしまう。何しろ素朴な内容の映像なのに、これらのテーマが実に解りやすいのだ。

 私が子供だった昭和40年代のころ日本のテレビでは、いい大人がわざと恥知らずな扮装をしたり幼稚な被りモノを被ったりして、日頃の鬱憤を晴らすため破滅的・痴呆的にドタバタ羽目を外してはゲラゲラ笑うだけのような退廃的な番組が高い視聴率を取っていた。別に当時の多数派を見下すつもりはないが、ウチではそんなもの家族の誰も見なかったし、それで良かったと思う。
 週休1日のカレンダーで出世昇進を目指して深残の日々、自分を封じて会社の歯車に徹する当時の労働者には、トゲの立ちそうなマジメ含みのインテリ劇なんぞ沢山だったんだろうな。当時のニッポン労働者気質をよく反映した、ある種の社会文化である。

 もっとも、これはこれでPTA=Parent Teacher Association、文字通り『保護者と教員で成す協会組織』に…おっとお?
 今ちょっと調べたところ、これにイチ対イチ対応する決め打ちドンピシャ和訳が存在しないようで、うまく見つからない。そんなもんなんだっけ?
 まあいいや、とにかく親やセン公の全国横断型組織層から『子供の成育に悪影響がある』とされ、有害番組として強烈に非難を浴びていたものだ。だが視聴率が取れるからには市場原理が働いて、テレビ業界全体にこの痴呆ドタバタ劇を是とする風潮も定着してしまい、これが少なからず『子供がテレビを観るのはいけないことだ』とする通説に結び付いたのだろう。

 映画”CHAPLIN”『チャーリー』に話題を戻す。
 元々は観衆席と対峙する簡素な舞台施設で、当時としては意外性ハプニング仕立てのサービス精神がてんこ盛りな身ひとつ即興アクション芸を得意とし、大人気を博したチャールズ・チャップリン。そんな彼が新興勢力の映像記録メディアと出遭っては模索し、開拓し、自分なりの妥協のない解釈で、最高の成果を目指そうと追求する姿が印象的だというハナシだった。
 エンタメだ映像メディアだという枠に限定したことではないが、ありもん環境に身を預けることしか頭になくなっていて、その出来合い世界で自分の持ち駒だけ試したらもう手詰まり、みたいな負け体質に陥っている現代人がいかに多いことか。
 世間的にはユーモラスで愛嬌ある仕草がトレードマークになっているチャールズ・チャップリンだが、その野生的で貪欲な生命力に溢れた生きざまと、当時の国際政情にまで影響を及ぼすほどの成果達成度まで、我々は一度じっくり眺め直すべき時代になっているのかも知れない。

 現実問題とまるで噛み合わないのが解り切った日本語で議論を交わし書類を作り、文明社会の原理原則の知恵に逆らうのを解っていて破壊工作にしかならないデタラメ細工を繰り返し、それをさもエラい実力者たちの公明正大な社会運営であるかのように吹聴して回る。
 こんな日本社会の情報流通の実情にして『ああ栄華を誇っていたマスメディアは何故チカラを失ったのだろうか』なんて、今さら何か考えることあるのか?

 エンタメ全体もコメディ域パフォーマンスも『面白い』の心象で相手の受信ゲートを開かせて訴えかけるので、大衆の動向を左右する影響力を秘めているのは間違いない。だが無能低能役立たずな政治家どもが、国民の視線を浴びながらドタバタ娯楽業界に懐柔しに出向くような位置関係など、この世にあり得ない。
 百歩譲って仕方なくそれをやるにしても、もうちょっとマシな相談先の程度というか、格の選び方があるだろうに。日本の無能低能役立たずの政治家どもが、まさに無能で低能で役に立たないワケだよ。

 豊かな日本列島に抱かれて、ほかっておいても土着の集団生活が自然発生して始まったニッポン精神文化は、馴れ合い環境の箱庭に恵まれてきたが故に生来のコミュニケーション虚弱体質がなかなか抜けない。
 デジタルネイティブ世代は、少なくともデジタル空間の人間関係において、このニッポン生来の閉鎖性を知らずに生まれ育っている。昭和老人の閉鎖性世界からの視点で、若年層が社会参画して来ないと映るのも当然だろう。
 ますますのオープン化に抗えない高度情報化社会の未来、こんな閉鎖性社会にクビを突込んでは時代に逆行して淘汰されるしかない。子供たち若者たちが腹を割ってこず距離を置くのは正しい判断だと思う。

 とりあえず30年前の映画だけど、機会があったら一度観てみていただきたい。
 ファスト視聴で観るなよ、もったいないぞ。では学びの標準再生にグッドラック!
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