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【1194】魔法のコトバが開く精神文化の内覧ゲート [ビジネス]

 9月になった。NHK朝ドラ『らんまん』は今月いっぱいだっけ。
 いろいろと見どころはあったが、学問に向かうにあたっての取り組み姿勢が、きっちりとその目的意識でテーマとして描かれているのはポイント高い。

 ひと昔前は、誰と誰がくっついただの別れただの、誰と誰の立場間の確執でどっちが勝ち上がっただの蹴落とされただの『定番の山谷イベント』のつなぎとして、『そこで主人公は一念発起して猛勉強し、その道の第一人者となりました』ぐらいの扱いが多かったんじゃないですかね。
 特に高度経済成長期の頃なんかは、労働にしても勉学にしても歯を食いしばり身を擦り減らし、誰に頼まれなくとも際限なく突き詰めるのが常識だったから、たまの余暇時間に観るドラマにまでわざわざマジメ領域の正論を語る精神文化はあんまりなかったように思う。
 むしろお行儀よく学校組織なんかに噛み合って着実に賢くなっていくという当たり前の展開は、社会常識として君臨している権力への隷従として、不当に否定視されていたものだ。優等生がフヌケかいけすかないヤツの役回り、そして『うわ、マジメ~』がけなし言葉だった時代である。歪んでたなあ。

 とにかく、マンちゃんが台湾のフィールド調査に先立って、準備として現地の言葉を十分に習得するべきだと調査計画隊と交渉していたのは正攻法であり正解だ。
 やっぱり人間が二人いて『二人の人間として関わり合う』には、相応のコミュニケーションが成立していなければならない。裏返せば、そこで交わせるコミュニケーションの精度と情報量で、二人が過ごす時間の質が決まる。

 例えば私がシルクロード単独踏破を思い立って実行したとして、道中いろんな人々と出会うだろうし、怖い目や嫌な目も見るんだろうが、普通に親切にしてくれる人もきっと多い。通じない言葉を身振り手振りで埋め合わせながら、一生の想い出に残るような素敵な交流もたくさん体験できる。
 だがそれはそれ、コトバ通じぬもヒトとヒトの共感や好意を確かめ合うには、片言レベルの意思疎通で何とかなるというハナシであり、シルクロード上の土着の精神文化にまで好奇心の底引き網を拡げながら、そこに育まれた日常生活のありのままを正確に観察するのなら、全くのチカラ不足だ。
 少なくとも初対面で現地ネイティブに『あ、コイツ世間話が交わせる』と思ってもらえるぐらいになっておかないと、まず会話そのものが、そして一緒に過ごす全てのシーンが、当地の日常生活から隔離された『異文化との特別な接点』になってしまう。

 だから忘れないうちに先に言っておくが、ベタにもベタだけれど、一応できるとこ頑張れるとこまでで結構なので、英語は身に付ける努力をしておいて損は無い。きっとどこかで、やらないよりはやっていて良かったと達成感に浸れる時が来る。
 よく言われる通り上手い下手は関係なく、きちんと諦めずコミュニケーションを試みる姿勢こそが礼儀である。お互いが相手の意思を好意的に酌み合いながらのなりゆき出来高で、毎回何かひとつ良い結果を出しつつ上達していくことができるはずだ。

 ここで盛んに紹介している北米見聞録のネタだけれど、コレ以前に書いたかどうか忘れちゃったよ、私が三十路過ぎで初めて北米に渡った時には、私が単独で各地に飛んで空港で初対面の現地スタッフと見つけ合って落ち合い、そこから協力体制を立ち上げて当該地域の仕事を喰っていくという業態であった。
 実は当時の職場慣習に従い、日本人がもう一人くっついてくる計画になっていたのだが、コイツが英語力ゼロで心労に押しつぶされて使い物にならなくなっており、かたや私といえば『まあ野放しで生きてけるんじゃね?』ってことで、会社としては経費半分で済むしちょうどいいや!とオチが着いた。大らかな時代である。

 結果としてこの処置判断は大成功だった。多少はマシな英会話が私に幸運を呼んだ。
 私にとって、技術的に特段優秀でもない、何より英会話のできない足手纏いがぶら下がっていては、そいつを置いてきぼりにしないためだけの無駄なお守りに苛立つばかりだったはずだし、きっと現地側スタッフたちの『標準的な日本人対応』の枠がはずれなくて、二人揃って腹を割ってもらえなかったと思う。
 普通に言葉が通じる間柄なら時間がもったいなくて絶対やらないような初歩的な内容の発言を、えっちらおっちら言葉の壁を乗り越えながら交わして『仕事で会話をした』という成果だけを確かめ、それで退屈地獄・ムダ手間地獄の定時を消化したら、せいぜい夕食の店を紹介だけしてオシマイ。日本人出張者アテンド然とした不毛な時間は、彼等にとっても真剣に身の入るものではなかったと思われる。
 週末にわざわざ時間使って『日本人にとっての北米文化体験ツアー』に付き合わされ、日本国内じゃ一応合法的に店頭購入できない無修正VHSビデオをまとめ買いするとか、日本国内じゃもちろん撃てない拳銃をカネ払って撃たせてもらえる射撃場で発砲体験するとか、しょうもない観光ツアーでテキトーに土産を持たせるのが定番だったのだ。そのくだらないことには、徒労感を思いやるに余りある。

 逆に日常の雑談ぐらいなら常用テンポOK、アタマの中はほとんど米人になりに来たかのような日本人が単独で乗り込んできたとなると、北米スタッフの連中同士でいじりネタとして面白がってもらっていたようで、私は北米全土のあちこちで自宅に招かれ、常連で通うメシ屋や酒場に連れ出してもらい、本気の本気で『オマエこっちに越して来いよ』『ここで一緒に暮らさない?』と誘われたものである【860】
 かねてからちょくちょく五月雨式に紹介している通り、その経験はどれもこれもタイヘン面白いのだが、到底一回で消化できる分量でもないし、今回ももうここまで来ちゃってるのでいずれの機会に。

 冒頭の語学力とくに会話力の必要性の話題に戻るが、要は不自然なつっかえや誤解のもどかしさがなく、安穏気楽に十分な精度でコミュニケーションできるかどうかが、ヨソ行きでない普段着の生活文化の領域に混ぜてもらえるポイントだ。
 マンちゃんはそのゾーンの情報で調査研究結果が欲しかったんだろうな…と視聴者が理解できるようなストーリーでこの場面にまで来ているのには実に感心、いい朝ドラだと思う。
 いっぽう当時は日本が統治を進めた地域において、厳しい強制力をもって日本文化を普及させていた一面もよく描かれていて、ぶつけ方はなかなか巧かった。統治方策としての日本語が確実に機能し、大東亜共栄圏の近代化と生産力向上を底支えしたのは事実である。

 どこの国のどんな文化圏の言語でコミュニケーションするにしても、まずお互いの言いたいコト聞きたいコトがあって、それらに対して素直で自然な表現が選ばれて交換されなければ意味は無い。
 誰もが『これってどういうイミ?』と興味を持ちつつ言語を学ぶ時、そのコトバが発せられる元となった心情を正確に知りたいと自然に思うだろう。
 『あーそういうコトね、な~るほど!』と腑に落ちた瞬間、その場面で自分が言語以外に感じ取っていたリアルタイムの五感検知と、ぴたり一致しているはずである。それが言語の機能要件なのだ。
 言語は非常に高度化された便利なコミュニケーションツールだが、文法や発音だけ整っていてもダメで、きちんと『意味を持たせる』目的で扱われなければ機能しない。

 ちょっと前まで『霞が関文学』などと茶化して自虐ネタにして諦めていた、日本国政の日本語コミュニケーション障害は、まだそれなりの勢いで横行・通用しているのだろうか。年々その世界に興味と好奇心をもって踏み込む若者が減少しているというし、一刻も早く絶滅して欲しいものだけれど。

 知りたい対象を大切に活かすなら、コミュニケーション回路の充実と整備が必要だ。
 具体的な対象を絞れなかったら、いいからまず英語。マイペースでグッドラック!
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