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【1195】麗しき理知性の筆跡練習帳 [ビジネス]

 そうそうNHK朝ドラ『らんまん』が終わってしまわないうちに。
 劇中では盛んに英文の『筆記体』が登場する。割と最近の数年前あたりに、筆記体を学校授業の履修内容から外しちゃったんじゃなかったっけ?

 まあテキスティングが当たり前になった今日、直筆で英文の書面作成をする必要性もあんまりないだろうし…という見込みは間違っていないと思う。でも筆記体がすらすら書ける読めるってのは、な~んか知的に格調高くてカッコいいんだよな。
 いま書面に書き落としているその文字の前後のつながりを、一筆書き的な流れを持って書き進められるよう工夫された書体であり、理屈抜きにその紙面の概観が美しい。

 1965(昭和40)年生まれの私が中学英語を学び始めた1970年代後半、筆記体の習得は授業の一環として組まれていた。確かに『習い事』として仕込まれ知っておかないと、いわゆる『ブロック体』つまり活字の書体と、どれがどれだかドンピシャ整合できないような気もする。
 英語はアルファベット26文字の順列組み合わせで書き切れてしまうため、パーソナルレベルの活字化は比較的簡単で『タイプライター』なる印字機が普及していた。
 電気は不要、キーボードを叩くと機械仕掛けで凸版式の活字ハンマーが紙面に向けて振り出され、ハンマーが紙面を叩く直前にインクを染み込ませたリボンが滑り込まされて、紙面に印字される仕組みだ。
 昭和どころか、戦前どころか、二十世紀になるやならずのうちには、このハンマー式のタイプライターは実用化されていた。現物を目の当たりにすると判るが、この機構を電気仕掛け一切ナシでやれているというのは実にエコでクールだと思う。
 実は我が家にもタイプライターが1台あって、英語の勉強はもとより、洋楽のLPレコードをカセットテープに落として聞くのが一般的だった時代に、曲目リストを活字で作ってカセットケースに入れておくのに大層便利したものだ。私はこれをきっかけに手元を見ずにキーを叩くブラインドタッチを自然に身に付け、後のパソコン時代を迎えてその恩恵に大いにあやかることとなる。

 例によって横道にそれるのだが、現代のパソコンにも共通するこのキー配列は、タイプライターがまだ開発段階にあった頃の、印刷所の活字棚のレイアウトを流用したものだと言われている。
 このへん私は詳しくないのだけれど、つまり手書きの原稿を目前に用意して、その通りに碁盤の目にひとつひとつゴム印状の金属製活字スタンプを嵌めこんでいくとか、そういう作業だったんだろうな。”a”、”b”、”c”…と棚に区分けされてたくさん入っている活字スタンプの棚の区画から必要ぶんを拾ってきて文章を組み、刷ったあとはバラしてまた元通りの棚に戻す…みたいなことになるんだろうが、その棚のアルファベット配置に従ってタイプライターのキーを組んだのだという。
 “a”なんか使用頻度はメチャクチャ高く、だから左寄りの中間的な高さにあったりするのも当然で、でもタイプライターのキー配列にした時、それが左手の小指にあたる最悪の位置に相当するところまで考えてませんでした…って、改めて『ホントかよ?』とか疑っちゃうんだけど、とりあえずそういうことらしい。
 ”q”や”x”が隅っこになってるのは理に適っている気がするのだが、他がどのくらい活字棚として機能的だったのかはイマイチよく解りません。

 まあいいや、いわゆる五十音としての平仮名カタカナに加えて膨大な数の漢字を交える日本語は到底こうはいかなくて、個人文書の活字化はワープロ時代の到来を待たねばならないのだが、上記の事情によりアルファベットに関しては早々に動力源不要のピタゴラ式メカで脱・個人筆跡が進んでいた。
 いま思い返せば、我々世代が中学校でアルファベットの筆記体を教わり、試験の回答も筆記体を指定されていた当時のうちから、ネイティブの若年層は筆記体をあんまり使っていなかったように思う。どこでどう関わりを持ったのか、亡姉が中学だか高校だかの年齢で米人の同世代の女の子と文通していた時期があり、その文通相手はいわゆる『丸文字』のアルファベット版ともいうべき書式を使っていたのを憶えている。
 今の時点になって70代の世代の人が整った筆記体でサインを入れているのを見ると、『懐かし格調の筆記体の本家本元』としてビミョーに感動してしまうのだ。やっぱり理知的というか、伝統文化の教養を備えている感じがして見栄えがするよ。

 筆記体の線構成を見るに、恐らくはヒトが簡素な筆記用具を手にした時代に、速やかな流れで文字を書き落とそうとした結果の産物なのだと察する。石窟の壁面に一画ずつ刻み込む作業だとあんなになるはずがなく、鉛筆にしてもペンにしても『さらさら』と表現されるぐらいのスピードは出したい目的意識で出来上がってきたものと思われる。
 あと、もしかしたら一旦筆先を紙面に付けたら、可能な限り離さずに滑らせ続けたかったのかなあ。

 ブロック体にしても筆記体にしても、英語にしても日本語にしても、文字を手書きするにあたっては反射動作として情報処理がなされているのだそうだ。つまり『あ』と書き始める時『左上らへんから横棒を引張って…』のような、エレメント毎の作画手順をいちいち段階的に意識していないということになる。
 文字表現まで含んだ言語情報というものは、つまるところ人類文明としての記号体系であり、何らかの現実事象をイメージしつつそれに呼応した単語・文字を、アタマを使わず考えずに、脊椎かどうかは知らんが反射動作としてツーカー出力するワケだ。

 だとすると、何となくだがブロック体で書くより筆記体で書く方が、一本なめらかにつながった流れのある思考展開で流麗に作文できそうに思うのだが、いかがだろうか。
 印刷の概念が無かった時代、文字がまだパーソナルな記録や通信の使い道に限られていた時代、文字を書く本人のタイパ意識が筆記体を開発した。
 のちに印刷など記録メディア・通信メディアが急発達してくると、フォントひとつひとつを任意に組み合わせて作文し、目的を果たしたらまた分解して組み直して他の作文に再利用するシチュエーションが激増。さらに個人間でやりとりする手紙さえも、スマホなど最新式通信機器の普及でテキスティングに圧倒されて今のようなことになっている。そういうことなんじゃないかなあ。

 遂には『あ』とテキスティングしただけで、ずらりと選択肢に並ぶ『あ』で始まる単語群から適したものを選ぶ…という筆記とは異質の作業にまで変遷しており、私はこの機能は使わないが、これこそ現代流タイパ意識の産物なのだろう。
 ちょっと問題だなあと感じるのは、『あ』で始まる単語群のうち採用する単語はたったひとつであり、結果として残る選択肢は全て無駄になるのだから、現代流のタイパ作文はどえらく歩留まりが悪いという事実である。
 もちろん全部電気喰ってやってることだから、もしこのプロセスを画期的に異なる方式にして不採用ぶんのフードロスならぬワードロス?をなくせば、あなたにのしかかる通信費はいくつぶんのイチになるだろうか。

 若い人たちには、画像やテキスティングに身を任せて検索と受け身でスマホにかまけるばかりではなくて、画像やテキスティングなる情報伝達ツールに対して、好奇心と興味を向け『観察眼』の姿勢で接していただきたい。
 『らんまん』のおスエ嬢、田んぼと畑しかない渋谷をビジネス視点で『観察』にかかるようだ。NHK朝ドラ、終盤までダレずにシッポまでアンコ詰まってるなあ。
 簡単に身に付くし、筆記体を覚えといたら?良いコトあるかも、グッドラック!
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