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【1164】人工でない知能の文理仕様差チェック [ビジネス]

 う~ん、今回はどこからハナシを始めようか。
 このところ日本国が潜在的な弱点として抱えていた『民主主義法治社会=ロジカルな社会運営を装いながら、実は何の根拠もない権力の好き放題やり散らかし。結局のところでみんなしてそれを認め合って同調してしまっている』という国民的オモテウラ体質に、本格的な変動が起きているように見える。いいコトだよ。

 そうだな、例えばいろんな人がごく普通に『正しい』という表現を使うけれど、改めて『正しい』とは具体的にどういう意味なのか考えてみていただきたいのだ。

 いやらしくも先にイチ抜けで逃げてやれ。
 理系人種の言う『正しい』は、世の中の出来事を一定の規則性で把握しようとする姿勢がまずあって、その目的を阻害するような現象や行為を指摘する局面で、本来こうあるべきだ!と述べるにあたり持ち出される日本語だと思う。
 水の沸点を確認したいのなら、お鍋に水を張って底から加熱するとして、とりあえず故障なく間違いないものとして使えている温度計の感温部をちゃんと十分な深さに浸けてやって、温度表示の指す数値を素直な視射角でありのまま読み取る。
 温度計の感温部が鍋の底にごっつんこしてたり、逆に水面に触れるか触れないかのちょび浸けだったりすると温度計にとっては『正しくない』作動になってしまう。水銀柱式の温度計だと、もちろん面直方向からの視射角を前提に目盛が表面に刻印されているから、それを理解してその通りに読まないと『正しくない』読み値になってしまう。

 『正しい』とは、ヒトが構築した理知性の世界観に沿って『現実』を把握しようとする時、森羅万象この世の道理に従って、妥当な見解が得られるかどうかだと定義することができると思う。
 地球がこの宇宙空間の原点・中心であるとする天動説は、モノとモノの間にどんな運動が起こるのかの観察と分析を重ねて次々と『正しくない』検証結果が判明した。
 いっぽう地球なんぞ宇宙空間のとあるイチ要素に過ぎないとする地動説が提唱され、これに照らすと天動説が『正しくない』理由が判明し、いっぽう地動説は『正しい』として何事につけ読みハズシや原因不明の失敗を呼び込まないことが判ってきた。今どき天動説を論拠に天文学や宇宙航空技術を語る人はいないだろう。
 『現実の展開』を何か物事の計画から実行でなぞっていくにしても、天動説の世界構造を前提とした因果思考では物事の辻褄が合わなくなる。天動説は『正しくない』、そしてこれに代わる地動説は『正しい』のだ。

 では文系人種が言う『正しい』とは何なのだろう?
 社会学的・語学的にどこまでマジメな理屈が構築できるのかはともかく、少なくとも現状日本社会の上から下まで事実上の実態となっているのは『誰かさんの言う通り』ではないだろうか。つまり基準が定まらなくて『誰かさんの都合』がどうにでも『正しい』という扱いの枠にハマり込む。
 その『誰かさん』になりたいヤツがいたりいなかったり、なりたいヤツがいたとして理系的に正しかったり正しくなかったり…と事情はいろいろなパターンがあるにしても、結局は『誰かさんの言う通り=正しい』としてそこまでなのが文系思考だと思う。

 ポイントは、『正しい』としてわざわざに目指す方針の拠り所として、
  理系=いったん情報化され全員が納得した基準=民主主義の組織運用原理
 が成立していることに対して、
  文系=個人の思惑に沿うか沿わないかの基準=独裁主義の組織運用原理
 に終わっていることだ。

 あらかじめ断っておくが、別に文系思考が未熟で望ましくないと一概に否定するつもりは無い。いかなるやり方にせよ、優れた個人の思惑が無駄な時間をかけずに組織運営の現実に反映され、みんながそれで不満なく暮らせるなら、文系思考の『誰かさんの言う通り』は大いに結構、幸福な社会組織のイチ形態として何ら非難されるものではないということになる。

 だからなのだが文系人種は文系思考で行くのなら、組織上層に立って『みんなが納得する幸福な社会』を個人として完結させられる『誰かさん』を、いつも社会組織のどこかに作り出し、育て上げ、間違いなく『正しい』規律を社会に布く立場に継続的に座らせなければならない。
 その特別な人を選出しないできないで放置していると、例えば交通死傷事故が起こった時に、事故現場の当事者たちの中で最も激しい感情と圧倒的な腕力を備えているヤツが『誰かさん』として作用し、そいつの瞬間的な激情で『正しい』現実が決着する。

 えー、それって『正しい』のー???などとおっしゃるなかれ。
 その結末で事故という事実が残処理も発生させず、一人も文句を言わずにその先の時間が動き始めるのなら、『正しい』っちゃ『正しい』のだ。関係者の何人かがやりきれない悲しみに暮れても、繰り返し思い出しては再沸する怒りと悔しさを持て余すほどの重度トラウマに陥っても。人の世の世界基準はそういうもんなのだからしょうがない。

 『正しい』という日本語は、キホン人間が自分ひとりの在りようを管理する、絶対的・自主的な法則性を指すというよりは、案外と相手や社会空間あっての、物事の表面的な姿の共有で決まる機械的なコトバなのではないだろうか。
 『メンタルにお行儀良くて清楚』というおセンチ心象の方がついつい日本人の判断力に効いてしまいがちなのだが、いざ行動決定に顕れてくるのはもっとあやふやななりゆきの不出来な現実だったりする。

 昨今の日本社会のダメっぷりの主要因のひとつとして、『正しい』という日本語の誤用が横行している事実があると思う。
 具体的には、日本社会で『美しい言動』を演出するために『正しい』という日本語が濫用されているものの、その実態は『個人の言う通り』でしかなく、その個人の席に収まるために既存の社会運用規則で根拠づけるという順番になってしまっているのだ。

 実はどんなに落ち着いた優秀な人格者でも、意識の外側から不意打ちを喰らうと、その優秀な情報処理能力と行動規範が通常通りに作動しなくなることが多い。
 前にも述べたが、意思決定フローチャートにおいて判定基準値が決まれば絶対にぐらつかない人工知能とは違い、人間は恐怖や困惑にいともあっさり屈服し、気紛れなエラー出力をしてしまう。
 前回述べたような、本能の底の底で失敗を嫌う、特に損害を発生させた失敗との縁故を意識の外に追い払うかのような、人間としての作動原理もここに強烈に作用する。

 この難題に、思いつく限りの使える手を使い切って、人智を尽くして真っ向から組み合い、この世で実現する限界まで理系思考式の『正しい』仕組みを作ろうとするのが、重保現場の安全衛生の管理業務だと思っている。

 『正しくないと死ぬ』からな。この一文に辿り着きたかった。

 ゲロ舐めクソ舐め烏合マスコミがサル山祭りの囃し立てに夢中だが、広島の原爆をもう少し『正しく』扱えないものか。その浅はかな茶番の光景には呆れかえる。
 戦勝国の戦死者は苦痛なく穏やかに息を引き取り、御遺族に喜んで見送られたとでも言うのか。その立場の国々の国民にとって、各国代表を広島に集めて御満悦の軍拡ニッポンはどんな印象に映るのだろう?

 直接の戦禍の被害者でもない私に『正しい』口調で批評をする権利などないか。
 余計なコト言っちまう前にお開きだ、窮屈な思いの広島の皆さんにグッドラック!
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