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【1163】仇討ち交通安全の格闘技試験合格ライン [ビジネス]

 さて、まだ宮古島ヘリコプター事故の話題を続ける。
 何だよコイツしつこいなあ、すっかり面白くないどころかイヤミになってきてるのも判んねえのか、もう読んでやらねえぞ…とおっしゃる方々って、実数どのくらいおられるんでしょうね。

 その感覚は正常…というか、正しいかどうかはともかく多数派の平常である。
 多数派であるからには、その傾向が社会組織スケールの自我に反映されることになり、だから事故の再発防止は難しく、その必要性を理解してマジメ一徹で取り組むのにも結構な負担が避けられない。
 特に厄介なのが、事故発生後の人間の心理ファクターではないかと思っている。

 具体的には、事故の原因を作ったり、事故に到る経緯にコトを導いたりした人間が、その現実を認めたくないが故に、知っている事実を隠したり、事実と食い違うウソの証言をしてしまい、原因事象の発動から事故に到るまでの現象メカニズムが正確に把握できないのだ。

 どんな事故が起こったのかにもよるが、関係者の何人か=自分が暮らす社会組織の一定ボリュームが不幸な損害を被った事実があり、その再発を避けるために組織内で申し合わせをしたいんだよな。
 『自分が身を置いて世話になっている組織の改善』という立派な目的がはっきりしているのに、ヘタ打った個人は『かくかくしかじか自分のせいで事故が起きた』あるいは『起きたかも』という現実をひとり胸の内にしまい込んでしまう。黙ってとぼけて一件落着の解決なんかするはずないのは百も承知で、それでもなお組織が事故にまつわる関心を風化させ、自分のせいだと特定されないまま事態が減衰・発散する流れの方を選んでしまう。

 真剣に調べ上げたことはないが、社会全域で発生する事故の総件数のうち恐らく半分以上で、事故現象のピタゴラ因果の第一手を加えた個人に『悪意』『敵意』『邪心』なんて無いんじゃないかなあ。
 いわゆる『過失』であり、そのつもりもなかったのに事故になってしまった。圧倒的にそっちだろう。

 ということは、包み隠さず偽らず社会組織の裁きに身を預けて完全に事態を紐解けば、それで最善の決着がつくように、社会組織の仕組みは工夫されている。
 確かに当人に第一手を加えた事実と自覚はあるが、人並に平和な日常を送っていただけのイチ個人の、偶然の袖の触れだろう…という事実認識が検証され共有され、その事情が酌量され後始末に反映される。
 そこまで解っているのに『人間』という情報生命体の特性は、我が身のしでかした我が事が、結果として社会組織に損害をもたらした事実を、とにかく認知したがらない。いかなる関わり方であったにせよ、悪気ないことを解ってもらえるにせよ、自分のその一手さえなければ損害は出なかったという負い目…なのだろうか。

 さて恒例の横道に入るが、もう20年近く前になるかなあ、観光地としても有名な東南アジアのタイが急速な経済成長と工業発展の時期を迎えていて、一般国民の年収は毎年何割マシの右肩上がり、同時に自家用車の普及がえらい勢いで進んだのだそうな。私自身はタイには一度も行ったことが無い。
 こないだまで国家規模の自動車交通網の日常なんぞ考えたこともない道路は、つまり全く『交通整理』されていない。必然の結果としてあっちこっちで接触・衝突が頻発する訳だが、道路交通法なんか整備されていないため警察が間に立っても誰にどれだけ非があるかの会話が成立せず、決着不可能な路上のケンカがその場のなりゆきで起こっては消え…が日常茶飯事の有様だったらしい。

 お国柄として全土なのか地域性があるのか、タイは日常的に大家族が連れ立って徒歩で移動するのが珍しくないそうで、車道も歩道もはっきりしないどころか舗装からしてままならない、もちろん気の利いた夜間照明なんかあるはずもない、そんな道路環境だから当然のこととして、車が歩行者をはねる死傷事故が激増した。
 イスラムの教えが起源だと聞いたのだけれど、まあ歴史のあるメジャーブランド宗教は大なり小なり相互に影響し合っているし、詳しいところを私から知ったかぶりで解説する訳にも行かないのだが、とにかく『目には目を、歯には歯を』の因果応報コンセプトが精神文化の地盤になっているお国柄だとか故の、タイヘンな事情があったのだそうだ。
 上記のような背景を持つ文化社会が、高度経済成長期の日本が言う『交通戦争』の時代を迎えてどうなったかというと、車が路上の歩行者を轢いてしまって思わず停車し、運転者が車外に出て状況確認に向かったところを、何とその場で残りの家族に捕えられ袋叩きにされ、状況次第では殺害にまで到る例が多発したという。確かに屈強の若い男性が運転者だったとしても、真っ暗な夜道で大事な家族を失った親類縁者の集団に襲い掛かられたら、完全白紙のゼロ起動から現状把握を経て、身に降りかかる危険を単独さばき切って車に戻り、警察に届け出られるとは到底思えない。
 世界的にも歩行者優先の原則が目立つ日本の交通規則だが、この現実は『知って驚く世界の交通裁判の実態』といったところか。

 この過激な社会情勢を受けて対策に走る順番で法規整備が進んだためか、早い話が『人を轢いたと思っても、その場は必ずしも停まらなくて良い』として運転者が報復されないようにまず保護し、数週間に設定した猶予期間中に警察なり裁判所なりに出頭すれば『轢き逃げ』罪状の概念での責任は問わない…とすることになったのだとか。交通死傷事故の事後申告を運転者に認める制度ということになる。
 その後も変わらぬ基本コンセプトで法体系が踏襲されているのかは聞いていない。
 ともあれ『交通事故』のイメージにもいろいろあって、自動車なんか殆ど走っていなかった世界で、突如増殖し始めた自家用車に不意に掛け替えのない家族を奪われた場合、実に素朴に『そいつが乗った車に家族を殺された』という加害vs被害の構図が成立し、関係者だけのその場で断罪され死刑にも処される。一例として知っておこう。

 しまった失敗した。タイ交通紀行に分量を割き過ぎた。
 何が言いたかったかというと、法律も何も無く直感が実行動にいきなり反映されて表出する世界は意外に恐ろしいもので、もしかするとこういう『生物としての、素の人間』に等しく備わる特性が、一律に『事故原因としてのジブン』を嫌うのかも知れないなあと思っているのだ。
 この『理屈抜きの拒絶反応』をなだめてすかして、理知性ケアの徹底構築でようやく手に入る『ついついヒトが迷い込みがちな事故の再発防止』を少しずつだが確実に積み上げ、『現実』としての事故を1件ずつでも減らしていくのが職場安全衛生の仕事ではないだろうか。

 うわ~もっとトゲトゲしくエグい殺伐系のハナシをするつもりだったのだが、ここからその本題を始めると終われなくなるので、今回はここまで。
 いや、ひと月ちょっと前にいきなり一家のお父さんが帰ってこなくなった、もしくはそれに準ずる損失に晒された家庭が10世帯もあって、普通の民間事業の現場だったら、ひと月半も業務改善しないで黙っていて許されるハナシなんぞどこにも無いので、まだまだ日本社会のナニがどういけないのか掘り下げるつもりだ。再発させないために。

 まあいいや、タイの精神文化は、それはそれで人間が社会組織を成して暮らす時のコミュニケーション原理を提示しているのであり、これで当時の主権国家『タイ国』が切り回せていたのなら、外野が余計なクチを挟む筋合いなどないだろう。
 『法治国家』という単語を口走るにあたって、日本社会の生活現場で具体的にどんな組織行動を起こす概念なのか、今回の交通事故の実例レベルで語れるヤツはどのくらいいるのだろうか?

 そう、死にたくないから、死なせたくないから安全衛生管理が迅速に機能する。死んでしょうがないから、死なせて平気だから、的外れのわざとらトンチンカン言論で無駄な時間が過ぎていく。
 こういうのを命がいくつあっても足りない、いてはいけない場所という。
 ともあれ、とりあえずの明日も無事故で御幸運を!
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