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【944】ジブン初期値と書き込み記述の整理ノート [ビジネス]

 えーと、いろんなテーマが相互に絡み合っているので、ハナシがあっち行ったりこっち行ったりするのだけれど、食い物系をもう少し続けてみるとしようか。
 かつて田畑の傍の、草木や生物がいっぱいいる郊外の一軒家に住んでいた時期があるというハナシはした【640】【655】
 よって大家さんの農家の生活が身近にあって、いろいろと面白かったのだ。

 いま4月で、もうしばらくは畑でビニールハウスに客を入れてイチゴを摘んで食べれるようなことをやっていると思うが、私の記憶ではハウスのイチゴが突出して美味いのは1月末~2月アタマである。作業中の仕出し用の東屋へ家賃を持って行ったり、外から帰りがかりに挨拶に寄ったりすると、いつもこぶし大に迫るようなイチゴを5~6個いただいたものだ。
 こうして間近で連続的に定点観測していると、1月最終週あたりに糖度とみずみずしい香りがガツンと別次元に移行する。そこから約2週間、大家さんの姿が無くとも無人販売棚で買いまくり、食いまくる。一生ぶん食う勢いで。

 思うに、あれって後天的・人為的に書き込まれるキビヤックの美味さとは生体感覚の原理的に異なっていて、あのイチゴの美味さの方は先天的に生物共通に備わった素の生存本能の喜びではないだろうか。

 もうひとつ想い出深いのがブロッコリーで、大家さんちの奥様によれば『お鍋で茹でてマヨネーズででも食べちゃえば?』とのことだったので、単純にそうしてみた。
 これがまた驚異的で、しばらくすると『一体どんな凝った食材を何種類入れたスープを煮込んでるんだろう?』と理解不能に陥るような複雑な香りで家じゅう一杯になったのである。何かの香草みたいな高級な香りがするのはまあ植物だから納得できるとして、コンソメ系とかブイヨン系とか肉系を感じさせる旨味の香りが明らかに混じっているのには、目前の景色と一致しなくて何とも不思議としか言いようが無かった。もちろん味も歯応え・歯切れもこの上ないもので、それだけで一食いってしまった。

 ただの野菜おそるべし。これも生物ならみんな好んで食っちまいそうな気がする。
 新鮮さという普遍的な優良食材アドバンテージはあるにしても、『茹でる』という文明的処理の調理後に、あんなにも本能的な食欲に訴えかける五感の喜びがあるってのはちょっと不思議ではある。

 ここで冒頭のイチゴの話に戻って、確かまだ寒いうちにハウスの中にミツバチを放して受粉させるのである。近所に養蜂家があって、巣箱にカバーを掛けて軽トラに積んで持ってきたら、一旦ハウスの前に巣箱を置いてカバーを外してやるのだ。閉じ込められ運搬されて来たミツバチたちはストレスが溜まるのか、一斉に表に出て近くを飛び回るのだが、程なくみんな巣箱に帰るので、いよいよハウスに入れると。
 まあストレス鎮静過程に黒だかりでわんわん飛んでいてもミツバチ君は大人しく、黒シャツを着て歩き回ってその様子を眺めていても、通説のようにクマと間違われて敵視されることは一度も無かった。そもそもクマに巣を狙われている現象の検知モードとは決定的に何かが違っているんだろうな。
 ミツバチは両目ぱちくりで可愛い顔してるんだが、そういえばスズメバチは複眼がかなり上向けに偏在しており、しゃがんで身を低くした方が襲われる確率が減らせるというのは一理ありそうに思う。

 とにかく人間が生きて食っていてただ『美味』と判定する根拠には、実は複数の異なる原理があり、『生物にとって本来食うべきモノ』とする先天的な判定フローと、『食えると判っているので食って大丈夫なモノ』とする後天的な判定フローの最低二極がありそうに思う。
 このあたりで『主観とは、意識とは何ぞや?』のハナシに戻ってくるのだが、とにかく口に放り込んで得られる感覚に対して、我々は過去に遭遇してきた食生活の記憶ファイルに照らして『OK vs NG』の判定を出しているワケだよな。そして少なくとも、果物の甘さなんかは恐らく生れ落ちた瞬間からの標準作業として『OK』判定を下して呑み込んでいる。なのに、だ。
 口に入れたモノ全部を総ざらえひっくるめて、いわゆる乳幼児期の食の記憶を残している人はいないのではないだろうか。最も原始的で、最も人それぞれの違いが無さそうな、印象深い経験なのに。

 そう、生まれたばかりで記憶ファイルがまだ白紙の乳幼児は、『記憶ファイルと整合して正否判定する』という情報処理プロセスが成立しないため、この時点でまだ『主観としてのジブンは存在していない』のではないかと思うのだ。ぶっちゃけ小さな子供は昆虫と一緒ってことだな。誰かその時代のジブンについて覚えてるヒト、憶えてるヒトいますか?
 私が『意識なるものの主体は記憶ファイルのストック』であると考え、『主観としてのジブン感はリアルタイム五感入力と記憶ファイルの内容レビューとの整合作業』ではないかと推察する所以である。

 さてイメージしやすい例として食に関わる意識について述べてきたが、例えば日本国という組織生命体が、過去にコロナ・ウィルスという生命淘汰のライバルに出遭っていたとしよう。
 日本国はもう、はしかやおたふく風邪みたいなもので、一時的に罹患して、多少の被害も出すが、それ以上のことは無いということも普通に考えられる。ヘルペス・ウィルスなんかは水疱瘡に一度かかっておけば、その後は何事も無く人体と共生して暮らしており、しかし人間が何かの理由で急激に弱ると再活性化して発症してしまったりするのだが、これが『帯状疱疹』の正体だったりもする。

 ともあれ1億2千万人からいる日本国組織において、1年前も今も国家生命体が大打撃を喰らうほどの損害はついぞ出ていない。人類文明の社会生活で『個人が死ぬ』というのは確かに大ゴトなんだけれど、地球上生命の損害度として見る限りは決して重篤な事態ではないワケだし。
 そしてコロナ罹患をくぐり抜けた日本人が生き残って血縁を繋いだ結果として、日本人のDNA構造に『強コロナ耐性』が書き記されているのであれば、これも先天性の生体特性として本質的に機能する記憶情報であると考えるのが筋であろう。
 こんなラッキーな記憶ファイルが地付きで備わっている可能性が高いなら、現代科学文明の場当たり的な浅知恵の悪あがきなんかより、生命淘汰の悠久の歴史が授けた日本人の生存競争力の方がよほど信頼に値するものであり、まず優先すべきは現状ママの勝率の確認ではないかと思う。

 放っておいても美味いと思うとか思わないとか、そんな領域とどっこいの情報階層で日本人血統の強コロナ耐性が期待できるのに、『コレを美味いとする味覚はよろしくないので、ケミカル薬剤で生来の味覚に操作を入れて改めよう』と早々に人体改造をそそのかすのが、現状のワクチン医療政策ではないのか。

 まず程度はともかく病理的な症状は出るし、これを放置せず『新型コロナにかからない、死なない』を目指す社会的な対応が必要だとする考え方は正しい。だが『しっかり食って、よく寝て、安静にしていれば普通に元気になれる』はずの日本国が、こんなに果てしない混乱から抜け出せない理由は一体何なのだろう?

 『こんなに大勢が感染している、危ない危ない』
 『もう医療現場では対応できない、死ぬ死ぬ』
 『みんなクスリ打ってるんだから、細かいこと言わずにワクチン打て打て』
 これら全て、どこが発信するどんな情報をもって日本社会の体調の現状を認識し、何の基準で行動選択の判定をして、どこで広域発信のルートに乗せられているのか、そして我々日本国民は各自でおのれのDNA情報とどっちを優先して信じるべきなのか判断を求められている。

 アナタはジブンが生き残るために、誰のどんな情報とどんな判断力を信じますか?
 では今週も引き続き、グッドラック!
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