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【1229】大荒れ新年の時間遅れ祝賀カレンダー [ビジネス]

 何ということだ、正月一日の夕方に大震災とは。気の毒なことこの上ない。
 そんな翌二日の夕方に今度は羽田空港の滑走路で飛行機の衝突事故だって言うんだから、すっかり気おくれしちゃってるんだが、無事に過ごせている方々まずは明けましておめでとうございます。

 とりあえずこの新年は寝正月にならないことに成功した。今のところではあるけれど、年末のやられ放題からは少しずつフェーズ進展しつつある。
 とにかく10年以上にわたってステロイド残留の痕跡だけ残して潜伏していた『離脱待ち』ポイントがいくつか割と派手に動いてくれているから、ここはひとつ皮算用せず秘かに期待かな。

 日本列島の大事件については情報が揃うのをもう少し待つとして、取り急ぎ新年早々は『人間を含む生物の情報処理とは如何なるカラクリなのか』の話題を、昨年から跨いで引張ることにしよう。
 長らく謎と神秘の盲目的ラッピングを解かないことをお行儀にして特別扱いしてきた感もあるサイエンス課題だが、現代コンピューター技術の概念に照らして、実は大したことないゼロイチのデジタルデータを、やっぱり大したことないクロック数で処理してるだけなんじゃないのか、という仮説をとりあえず立ててみたワケだ。
 そりゃ人間ひとりで1兆個とも言われる数の細胞が、顕微鏡級の機能分担構成でイチ個体として組み上がって作動しているのは凄いよ?
 だが逆に、たかがこの程度の個別パッケージに、一体どんだけ緻密で複雑で高機能なハイパーメカが収まるというのだ?

 一見すごすぎてナニをどう感知・処理しているのか見当もつかない、視覚情報にまつわるデータ形式とその流通プロセスなのだが、これまで人類が工夫に工夫を重ねて『人間の視覚にどうにか付き合ってもらえる、人間の視覚のダウングレード情報』を開発し、うまいこと人間の超絶ミラクル視覚システムに自然に受容される技術を構築してきたと思い込んでいたところ、開けてびっくり案外とその軽量簡素化思想こそが、人間の視覚を司る基本原理そのものでした…というのが今般の私の見立てである。
 漫画アニメーションが自然に鑑賞できているからには、少なくともその条件下ではコマ分割0.125秒でも十分な現実の光景相当の認識として、滑らかに見えているということだ。これは良いでしょう。

 しかしモノが飛んできて反射的に目を閉じる動作などについては、網膜像をタイミング偶然任せの0.1秒ピッチで拾いに行くだけでは、あまりにも遅すぎるような気がするんだよ。そこでだ。

 例によって『生体情報の円錐モデル』を持ち出してみよう【1171】
 『危険!』の網膜像を検知した瞬間、1Fリアル円フロアの対面の周上に並ぶ瞼の開閉アクチュエーターに向かって『閉』の通信ビームが発射され、一切の演算過程ナシで瞼が閉じられる。そして眼球をガードする。
 ポイントは円錐モデルにおいて『1Fフロア完結の出来事として』目を閉じる反射動作が行われているというところにあり、この入出力単位は30億年生命の歴史の淘汰の結果として定型化され、ROM素子に焼き付けられて、人間の内部通信ネットワークに標準装備されているのではないかと思うのだ。
 よく『無意識の危機回避本能』みたいな言われ方をするが、未加工のアナログ感受器信号が出力動作に直結するような原始的な通信ネットワークの制御体系が、その正体なんじゃないすかねえ。

 そして『そういう一連の反射反応が起きた』という1Fフロア通信の事実が、円錐の頂点からハンディカムで撮影されており、デジタル形式にデータ化されて大脳ストレージに記録され、自分の身体に自分のコトとして起こる現象ながら、不随意に発現する『人体の不思議』として、客観的に向き合う知識ストックとなる。そういうことだろう。

 『人間には、モノが飛んでくると思わず目をつぶるという反射動作が備わっています』という自覚アイテムの完成である。
 次にこの事実情報について思い巡らし、何らかの考えごと=情報処理に絡めようとする時には、脳ストレージから検索された当該記録ファイルが2Fバーチャル円フロアの周上に呼び出されてきて『意識』のまな板に乗る…ってことになるんだろうな。

 人間の知能の発達の決定的要件を『言語の発明』だとする学説はよく見かける。
 だがこれは、今の時代もう少し踏み込んで『デジタルデータ体系による、個体間通信の発明だ』と言い換えた方が適切なのかも知れない。

 …えー、まだ話は続けたいのだが、調子が上がらないんで今回はここまで。
 視覚だの聴覚だの触覚だの、我々いろんな面で外界を把握して生きているワケだけれど、その『外界の把握』ってところが意外とナマ信号じゃなくて、初期から手が掛かった上での情報体系になっていて、その情報体系に乗っかっちゃう過程で特有の論理性というか、因果律が割り込んでるんだよ。
 だからなんだけど、自分の内々のコトで終わらず、相手を見つけて論理や因果を含んだ内容の情報を、言語なり身振り手振りなりで体外的に伝えるようになった。
 これがまあ、良いコト悪いコトいろいろあるんでしょうな。

 絶好調で暮らしてたら、こんな面倒くさいコト考えなかったかも知れないなあ。ラクでもなきゃ快適でもない時間だけれど、なかなか役に立っている気がするぞ。
 いま不運の方々に、いずれ幸運への大逆転が訪れますよう。今年もグッドラック!
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