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【1204】数学の秘境から来た優等生 [ビジネス]

 ついこないだの話だが、北米議会で『つなぎ予算』が成立した。
 要は国家運営費が枯渇してしまい、取り決めた債務上限値を超えて借金で切り回す財務方針が議決されたということである。
 つまるところカネなんぞ、ヒトが社会が『ウン、これってカネだよね、有価事物と交換していいよね』ってことで頷き合えば、いくらでも無から捻出できてしまう。裏返せば『これはカネだといくら言い張っても、誰も価値を認めないじゃん』とする共通認識が広まれば、どんな決め事があろうが通貨として流通しなくなる。

 世界各国から移民が集う北米社会はこの原理原則がドライかつシビアに現実化する傾向にあり、国家機関であろうとも財源が枯渇したら、その機能は停止する。
 事故や事件に遭遇して警察に電話したら留守対応の音声テープが聞こえてくるんだろうし、警察署に直接駆け込もうにも『本日休業』の表示が出ていて玄関は施錠されているかも知れない。火事や急患にも消防も救急も来ないし、役所の窓口は閉鎖され公共施設の清掃や設備保全も止まるだろう。

 これでは困るので、当座の公共機能の維持のために、とりあえず既存の取り決め度外視で『つなぎ予算』を成立させたという訳だ。
 もちろんこんな状況に陥る前に、慎重冷静なロジカル検討を経て債務上限値が決められているのだから、それを超えた事後調整の必要性が決定的になる。だから北米議会は結構なギリまで紛糾していたのだが、正しい姿である。
 そして経済原理としては間違いなく不正解の『つなぎ予算』の議決が、その上位課題『北米社会の維持継続』に正解として作用するかどうかは誰にも判らないし、これから決まることだ。
 私個人のタラレバ感想だけれど、北米大統領がトランプ君だったらこの混乱は無かったんじゃないかなあ。こんなところで言ってもどうしようもないんだけどさ。

 さて太平洋の対岸のことを気にする前に、我が日本国の円安はいよいよ打つ手なし、というか何をやっても経済社会がマトモに反応しないところまで行き詰まってきた感じである。
 日本円建ての数字が派手に踊っても、当事者以外は大して価値の流動を感じない出来事にしかならないということだ。その場で高額の有価物件に現実の動きを作っても、結局はそれをキャンセルする事後処理が洩れなくセットで付いてくる。経済の原理原則として、そうなる。
 もうみんな自分ちの、自分個人のカネ廻りとして実感し尽くしているはずだ。

 まあ改善の兆しも見えないダメっぷりは何年も前からのことであり、まず今の政権体制が底を打ってからでないと次が何も起こらない。よって今日の本題はこっちではなく、割と最近になってインドを対象にしたビジネス言論が目立ってきているので、そっちのハナシだ。
 恐らくは史上もっとも存在感の薄い北米大統領、バイデン爺が一体ナニをどうしたいのかさっぱり見えず、案の定冒頭のような北米経済の腰折れ傾向が強まってきて、ならばと東南アジアのひとつ向こうのインドにナニガシか次の一手を探り始めた…あたりの実情ではなかろうか。
 今や中国を抜いて世界一の人口を擁し、経済の伸び代もありそうだし、奥の深い思想文化があって数字にも強そうアタマ良さそう、こんなところが効いているんだろうな。

 今の二十代・三十代は知らないと思うが、確か今世紀に入った頃だっけか、一度インドをビジネスパートナーにしようと模索する試みがあったのだ。
 その直前まで日本企業の『アウトソーシング』が流行になっており、大企業が組織構造の簡素化・軽量化による収益向上を狙って、組織機能や事業部署単位で外注に換えていく舵切りが目立っていたのだが、ここに『オフショア』という新語とともにインドを開拓しようとする動きが加わったのである。
 まあ海外発注を強く意識して指したアウトソーシング、ってとこだろうか。

 私自身ガチに所在地インドの企業から訪日してきて、現地らしいインド文化の流儀をもって振舞うインド人とは付き合ったことが無く、自分ちの会社の北米事業所から出張で来日してきたインド出身のアメリカ人女性と数週間職場で一緒だった程度である。従って、決して対インドのオフショアトライアル企画の一環でもなかったのだろうけど、私にとってインド系人材の特性を垣間見るにはちょうどいい経験であった。
 もちろんたった一例のサンプルで民族の総観的な特性まで語るのは明らかに行き過ぎているが、それにしても特徴的なイメージの記憶が鮮烈に残っている。

 判りやすくひと声式の結論から行くと、日本人・日本企業にとってはなかなかにハードルが高いと思われる。計算能力の優劣やロジカル思考フローへの適性がどうこう言う前に、DNAレベルで精神構造が違い過ぎるのだ。
 欧米や日本の女の子って、明るく賑やかなタイプも、物静かな秀才タイプも、オンナとしての柔和な可愛げというか、生活感のある愛嬌みたいな、きゃいっとした雰囲気の一面が共通しているものだが、かのインド系アメリカ女性は三十路前後の若さにも関わらず、機械的に冷徹とさえ感じられる底無しの落ち着きようであった。
 会話していて、喜怒哀楽の感情の揺れが微塵も感じられず、ヒマラヤ山間山麓の寺院で曼荼羅図と対峙しながら一言も発さずに丸一日座っていそうな、静穏な重量感のある悠久のガンジスの神秘性とでも言うか、コトバが通じてもヒト対ヒトのコミュニケーション会話にならない感が凄い。

 だからこそ、そんじょそこらの他民族だと問題文の意味がまず理解できないような数学の難問や、数字の規則性にまつわる天文学的に壮大な概念体系を正確・緻密に思考することができるんだろうな。精神的にガチャガチャしたところが全く無いので、真面目といえば究極的に真面目である。
 具体化された課題の解決能力は非常に高いと思われるが、日本の職場ですったもんだしているビジネス人種とは生きる時空間が違うため、ヒトの集団としてのひとつの組織に融け合わないんじゃなかろうか。
 以前ここで『数』の概念はヒトの認知対象となる情報形態としてかなり特殊なもので、現状の人工知能AIが一見初歩的な数量把握や演算処理を意外なほど簡単に失敗するのは、『数』という情報体系をそれと判って、その特別な世界観の規律を情報処理に適用できていないからではないかと述べた【1175】
 そこらの他民族が、普段は『数』じゃない情報体系で生きていて、定量的・論理的な局面で『数』の情報体系に切り替えて対応するのに対して、インド系DNAは普段から『数』の情報体系でずっと生きている感じがする。

 まあ若くして日本に出張してくるからには優秀な技術職として評価されてのことだったはずで、経済的にも教育的にもトップクラスの少数派の道を辿ってきていたのは間違いなかろう。だが日本に限らず普通に企業が人材を求めて、業務能力の評価尺度で採用を検討するとなると、この層に命中する確率が結構高いような気がする。
 優秀は優秀なはずだけれど、雑多な他民族が交錯する職場に馴染めるかどうか、一緒に混ざり込んでヒューマン的いい加減に騒げるかどうかの方が、むしろ採用のネックになってくるのでは。

 恰幅よくガハハと笑って愛想振り撒きながらインド料理店やってる人もいますけどね。日本企業がビジネス戦力として人材発掘を考えるにあたっては、ちょっとこんな事例があることをアタマに置いておいて良いと思った。
 しかし15億人に迫るインド人口は、これからどんな動向を見せるのだろう?
 既に経済大国でも何でもなくなった日本国は、いつまで『インド人材を戦力にする』という立場で語れるのだろう?

 子供たち若者たち、いろんな国のいろんなメンタリティの人と仲良くできるようになっときな。今日もスマホで交わすその会話、国際性コミュニケーション術の鍛錬に活かせないものか。
 明日の世界地図で置いてきぼりにならないよう、考えて工夫してグッドラック!
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