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【1112】人智に背いて崩れる幻のサル山帝国ヒストリー [ビジネス]

 今年もそろそろ年賀状の購入計画を立てる季節になってきたか。
 前の元旦ぶんについては、継続派と廃止派の双方を想定し、廃止派にはその意図をもって『御遠慮なくスルーしてください』の一文を加えたのだが【1015】、その初年度としては『ほとんど誰も年賀状をやめようとしない』という結果となっている。

 NHK朝ドラでも、ケンカ別れの末の駆け落ち状態になっていた妻の実家に特命係長が年賀状を絶やしておらず、それをまたお義母さんが全部保管していた筋が語られていたが、ああいう人間関係においてドンピシャで有効な文化なんだよな。世の中いろんな人々がいろんな生活を送っているワケで、そんな中『そうしとくもんだから』の社交辞令として自動更新を繰り返す通信回路は便利かつ貴重なものだ。
 ただの印刷のみで一切の自筆がない一枚でも、本人もしくはその家族が名前だけでも私の記憶を持っていてくれて、それを発送する判断を下してくれているからには悪い気はしない。実際これだけ生きてきて、暮らし向きが想定外の急展開を迎える局面というのは忘れた頃に案外あるもので、そんなとき直近一年以内に連絡先の割れた挨拶状の束があるというのは断然に便利だし何かと心強い。いい慣習の伝統文化だ。
 もし折り入っての相談事があるのなら、まず連絡をつけてその旨持ち掛けた理由の説明から斬り込んで、お久し振りの会話を立ち上げれば良い。最新の通信回線が開いていて、ワケを話してコトバが通じるというのは、げに有難いものである。

 さて今夏、政治勢力が新興宗教を集票基盤と資金源にしている事実が明るみに出て広く知れ渡り、与党二党ともに『政教分離の原則』を日本社会に向け改めて公然と保証する必要が発生しているのは御存知の通り。
 本件とりあえず日本国民にとって、判断の仕方に迷うような未知の新概念アイテムはひとつもないところがポイントなのかなあ。『宗教』の世間的な立ち位置は、普通に社会を生きていれば誰もが実感をもって語れるはずだ。

 まず『宗教』といえばキリスト教イスラム教に仏教などなど、義務教育の社会の教科書級に人類の一大思想文化として認知されているメジャーブランド群がある。これらが何かその世界観に基づいて、現代の人類社会に脅威を及ぼすような集団活動を起こすと思う人はいないだろう。
 歴史を遡れば確かにその宗派なりに描いた世界観の共有を仲間意識の証として、世界地図スケールの規模にまで巨大な組織勢力を形成し、組織vs組織で国家間戦争の様相にまで重大化した事実はある。
 だが現代文明社会においては『基本的人権』なる概念が確立し、ひとつの社会空間での複数の宗教の共存まで前提とした上で、ヒト対ヒト相互の自立性・自律性を交通整理して両立保証する理知的認識が普及しているため、今さら『ナニ教こそが文明社会の支配律として相応しい、他は認められない』みたいな存在意義の正否をかけた衝突は起こり得ないと思われる。

 次に、主に戦後に発祥した『新興宗教』のくくりがあると思う。
 例えばキリスト教ならイエス・キリスト、イスラム教ならアラーの神、仏教ならお釈迦さまだっけ…といった具合に、もう具体的な実在人物の印象を遥か離れて神格化され『世の支配律』の殿堂入りをしている雲上の面々が、その思想体系のアタマを取って燦然と据えられているワケだが、新興宗教にはそれが存在しない。…よな、フツー?

 その新興宗教が提示する世界観の基軸として、現存あるいは生前の記録が明確に残っていて墓参りもできるような人物が据えられていたりすると、『基本的人権』の初期の雛形ぐらいは既にあったはずの近代文明社会で、どうしてそのそこらへんの誰かさんに何もかも捧げるようなことになっちゃったのよ?という脊椎反射の警戒感で受け止める人が圧倒的多数のため、どうしてもキワモノ扱いになるのだろう。
 基本的人権の主張がとりあえず可能な社会なら、良いモノは良い、欲しいモノは欲しい、イヤなモノはイヤ、と行動の選択ができる。そこには良くも悪くも個人由来の利害心象の折衷が根源的に絡むはずで、逆にそうなっていない一方的な人間関係に対しては、原則ヒトは不自然を感じて防御の心理で構えるものだ。

 ここがポイントで、メジャーブランド宗教は聖夜にプレゼントを奮発するとか、ハラール食文化の規律でメニューを選ぶとか、仏壇に花を買って添えて線香立ててお経あげるとか、損得を考えない庶民の日常生活の習慣として定着しており、まあささやかには経済にも宗派別の特殊事情として影響するんだろうが、それは歴史を経て社会の人々がお互い『基本的人権の保障に抵触しない』と常識で自然に納得される範囲なのだ。

 いっぽう新興宗教は新しい組織集団が故の宿命として、現在進行中の民主主義議会制・多数決議決における票数確保や、資本主義・自由競争原理の一様性とは別の目的性のカネ流れなど、現代文明社会の平等な共同運用を乱す機能を持ち得てしまう。
 『民主主義・資本主義を必ず狙って狂わす』とは言わない。
 だが『組織性のある集団行動なのだから、狂わす機能を備え得る危うさが認められる』のであり、社会組織の自我にコトが起こる前に歯止めをかけておく必要がある。日本国憲法が『政教分離の原則』を謳う真意は、ここにあるのだと私は考えている。

 この時点で結論は決まる。
 旧来のメジャーブランド宗教と、少なくともナントカ教会・ナントカ学会なる新興宗教の間には、明確な一線の区別があるのだ。
 『基本的人権を等しく保証するための社会運用機能への接触』という少々ややこしい判定基準なので、いざ古来広く浸透しているメジャーブランドとの差を明言で列挙しようと考え始めると判別点の整理がつけられなくなってしまうのではなかろうか。だがきちんと考えれば、違うものは違う。
 まずナントカ教会・ナントカ学会の新興宗教組は『社会通念として政治活動と認められる領域と一切の関係を断絶している・断絶させる保証』が、日本国憲法に則って必要であることを確かめておきたい。

 ナニナニ党の誰それが教会で賛美歌を歌おうが数珠もって墓参りに行こうが、誰も咎めないし実害もない。これはその通りだ。
 だがナニナニ党の誰それが、ナントカ教会やナントカ学会の運営に関わる会合に加わっていたとか、一般通念としての交際の常識を超えるような接待および金銭授受などをやっていたなら、それらは上記の根拠に基づいて憲法違反ということになるだろう。ここに『どんな動機やいきさつの参画なのか』『どっちにおいくら動いたのか』の詳細事情や程度問題は一切介在しない。どこかで線引きする議論など無い。
 『政治家だから墓参りに行くなというのか』みたいな苦し紛れの反論も聞こえたことがあるが、まさにメジャーブランドとの線引き解説の難しさを悪用した攪乱操作であり、取り合ってはならない。古来伝統の慣習たる墓参りは別、それだけだ。

 今なんだか『信者から団体が貢がせすぎだと判断されたケースについては、事情次第で払い戻しの余地があることにする』みたいな、いかにも実効性ゼロがあからさまな立法議論に持ち込もうとする雰囲気も漂ってきてそうなので、イチ国民として先に否定の一刀で断じておく。おいくらだから憲法違反って話じゃないっつってんだろが。
 また『救済新法』だか何だか知らないが、イチ国民が自分自身の意思決定でどこかの団体にお支払いしたのなら、そこに後始末が発生したとして本人個人で解決すべきマターであり、ゆめゆめ公金=社会の共有財源を持ち出して穴埋めするような関わりでないことも厳格に確認しておきたい。

 与党二党は集票マシンと集金マシンを繋ぎ留めておこうと必死のようだ。
 無視して壊してこんなことになるくらいだから、人類の理知性が歴史を重ねて編み出した文明社会の運用手法=民主主義・資本主義と、それを維持管理するためのこのべからず項は確かに正しいってことなんだろうな。
 『政教分離の原則』、1億2千万人で今しっかり勉強し直しておきましょうぜ。

 ヒトが手にして満足した知恵をわざわざに捨てて、黄色いサルが今なおしがみつき、かじりつこうと群がる先には何があるのか。歴史の教科書の最初に、アウストラロピテクスから徐々に立ち上がっていく原始人類の姿が掲載されているが、極東の黄色いサルがとりあえずあの最後尾に並ぶのはいつのことだろう?

 今夏以降の日本社会、あなたが教科書を作るならどう記述しますか?
 どんな生徒として何を読んで学んで欲しいですか?では今週も元気にグッドラック!
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