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【934】ババ引きチキンレースの1億2千万席アリーナ [ビジネス]

 いま時点で五輪大会の開催を現実視している人が世界中に何人いるだろう?
 あのシンボルマークの看板を貼り付けて正式な五輪だと主張することは、現場の標準作業として可能は可能だが、いくら一部の人間の都合で主張だけしてみても、国際社会組織の自我がそれを認めなければオシマイである。

 今さら言ってもしょうがないんだが、元々が丸ごと中止するか、規模縮小など手を尽くして、どうにかやれたとして2年延期にして来年の夏にしかなり得ないのは判っていたワケで【837】、単にそれを国際社会に向けて自分の口で言い切る責任感のあるヤツがどこにもいなかっただけ…という、何ともお粗末な理由によりこの現状がある。
 今夏、世界大会としての開催形態はもう世界中の選手たちの境遇からして不可能であり、ローカル大会にしても観客およびメディア動員に国際色は顕れようがないし、第一コロナ感染の被害度が日本に比べて遥かに深刻な他国においては、自国社会の建て直しに手一杯で五輪どころではなかろう。

 何しろ従来確認されていないウィルスに起因する感染症なので、不用意な油断で侮る訳には行かないのだけれど、それにしても億単位人数の母集団が見せる現状の傾向からして、この日本国ではインフルエンザなど馴染みのある感染症と同じケタで被害や対策の規模を捉えて良さそうな幸運がある。
 早々に日本国内の社会稼働をほぼほぼ元通りのペースにまで持ち直させてそれを宣言し、他国の感染事情に日本から合わせに行く形で五輪大会の善後策を主導していけたし、そうすべきであった。
 やれ大会開催の決定権がどこそこの誰それにあるとかないとかの問題ではない。
 新型コロナ感染症の被害が最も軽微で、つまり臨機応変に物事を切り回す活力を残しており、それがたまたま国際マターのホスト地を引き受けている日本国であるとならば、本来率先して万事を落ち着け、グローバルなイベントマネジメント能力を世に示す展開を選ぶのが、賢い外交戦略というものだろう。

 前々からのことではあるが、特にここ最近の日本国政で気になるのは尽々『責任を取らない』姿勢への徹底ぶり・執着ぶりである。何だかんだで昔は集中砲火を浴び、追い込まれて逃げ切れなくなって、時に『なんで私が…』と天を呪い恨み言を呟きながらも、観念して『責任をひっかぶって失脚する』パターンが多かった。だが昨今は違う。

 例えば世襲のガキは国会の応酬で幼稚な激情の勢いに任せて、場当たり反論のためだけの真っ赤なウソに口を滑らせ、のちの真相追及で完全に虚偽答弁の事実関係まで暴かれているのに、政権ぐるみ組織ぐるみでそれを頑として認めず、遂には人を殺してまで隠蔽工作を続けシラを切り通した。その隠蔽工作も、もうコトの経緯顛末の記録の存在まで明らかなのに、今なお遺族の声を聞こえぬふりで全てがとぼけられたままである。
 何かの拍子にリーダーポストに就いて、調子の良い間は散々に人気者を気取り高圧的・支配的に幅を利かせる一方、ちょっとしくじると逃げるために言い訳にもならないようなウソ八百で蓋をして、場を凍り付かせたまま延々と風化を待つだけの戦法が常套手段になってしまったのだ。ここに『何かの拍子にでもリーダーポストに座っちゃったんだから、これが自分の運命なのだ』という覚悟は無い。

 日本国民の暮らす一般社会の生活現場では、容疑者否認のまま行政処分が下されるケースもそれなりの件数発生しているはずだが、こと国家運営のスタッフ業域での出来事となると全く話が違い、我々下民層からは上級国民擁護の特別措置とも映る『容疑者否認=見逃し放置』が定番となっている。

 民主主義法治国家の完成されたプロセスとして『全員が揺るぎない物証で確信できる判決が得られない限り、その供述をウソとは決めつけないし、よって罰しない』という理屈を徹底するのは、ある意味立派に見えるっちゃ立派に見えるが、だからって大嘘つきの虚偽答弁まで真実と等価扱いにしてしまっては、社会組織が下すべき措置が永遠に決まらなくなる。
 現状、日本社会の最大の問題は、自爆テロ非国民犯罪者政権の仲間ウチにまんまと取り入った上級国民は、政権一体で結託する『特別な組織力』により、どんなに逸脱した反社会的行為もやり散らかしで法的措置にかからないというところにある。
 例の学術会議なんか良い例だが、あからさまな違法行為でさえ、法治国家としての措置検討にグズって手を付けないという機能不全まで起こしているのは御存知の通りだ。

 昭和の時代だったら『ああ、あんとき税金で花見やってたネコババ野郎か。てめえなんぞに100万出されても、ウチにゃ向こう百年一滴も売る酒はねえよ』みたいな、『お互いさまお陰さまで持ち合う世間さまを裏切った、不心得者への断罪』の社会通念は普通にあった。
 個人が社会生活を送るにあたっては、法的措置よりこっちの方が遥かに重く厳しいと思われ、だからこそその後もこの日本社会の一角で暮らしていくつもりの限りは、公衆の面前で引責の節目をつけておかないと、カタチだけでも人並を自称してマトモに生きていけなかったんではなかろうか。

 かつてなら誰も疑問なく当然の因果応報として普及していた、そんな規律違反に対する社会組織からの風当たりが、いわゆる『ゆとり教育』の時代から異質の読解をされるようになったと思う。
 日常生活での社会的断罪を個人スケールで執行すると、『人を傷つける心無い前時代型のイジメ行為』みたいな解釈の方が、社会道徳=大衆の心のあるべき姿として声高に叫ばれるようになってきたのである。これは確かに、人命に関わるような重罪を犯してからの更生を不当に難しくしない配慮なんかとしては、あながち的外れではないのだが…
 戦後復興から高度経済成長を我先にと争い、温厚な共存意識が疎かになっていた当時の日本国は『見境なく優しい=イイ加減に甘くヌルい日本社会』を嬉しいコト楽しいコトと勘違いしたのだ。

 要はオオヤケの立場にいてどれだけ大衆の心を卑しく裏切っても、そのポストを降りれば、人畜無害の顔を付けて平然と暮らせる日本社会になってしまったのである。
 これが日本社会に生きる成年社会人一般の規律マインドを大きく損ね、その結果、日本人は『組織の民』にありながら自国社会の組織運営を他人事としてしか意識できない、無道徳で仲間甲斐の無い精神文化の『烏合の衆』に変質したのではないだろうか。

 上級国民がいい気になって、大衆の心との約束事を勝手な解釈で悪用し、大衆が日々生きる経済力を無断で好き放題に使い捨てていて、そこを天災に襲われて苦境に陥ったんだろ?
 いま1億2千万人日本国民にとって、上級国民は同じ組織に暮らす仲間ではない。

 最後に余談。元五輪がらみの某・卓球選手ののハナシだ。くだらないったらない。
 いかにもの若い人のヨタ話なんだし、いい大人の成人社会人は取り合いなさんな。
 どこまでホントなのかはともかく、『なんで今頃こんなスキャンダルが?』と聞えよがしに大騒ぎするのは、スポーツ界ナンタラ協会のドンだとか、烏合マスコミだとか、焦点ずらし・世論攪乱の目的がある政権ウチワの連中だけにやらせておいて間違いは無いと思うよ。

 よりにもよって、コロナ被害が一番小さくて、大会主催の実質責任が一番重大な我国だけなんだよな、実効コロナ対策にも、五輪大会の運営判断にも、一向にマジメになれない国ってのはさ。
 特に首都圏の皆さん、本当に大変だと思うけれど、着実に反撃準備に徹しながら生き抜きましょう。引き続き、御幸運を!
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