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【892】楽しい組織生命体ライフの参加資格 [ビジネス]

 学術会議も聖域ではなく、行政改革の対象とのこと。勇ましい限りだ。
 正当な理由も無いのに何となくの慣習として誰も手を出せなくなっている『聖域』は確かに無くすべきで、遠慮なく改革の対象にしてくれて結構なのだが、国家運営の原理コンセプトに照らして『介入無用』とされている相手に向かって手出しを宣言すると、これは単なる勘違いの勇み足でしかない。

 問題というものは、きちんと原因や弊害から修正と対策という因果一連の帰結をイチ単位に切り出して分析し、『原因事象に手を打って弊害を解消し、改善を得た』という情報がまとまるように扱わないと、的外れのトンチンカンな悪あがきばかりが重なって、最終的には壮大な損害の連鎖に終わってしまう。
 何よりまず、どこのどいつが何の理由で、くだんの6人をハブったのか。
 その理由がナニかあって、判断したヤツがいる。この原因フェーズの解明が必要だ。

 …で、もうひとつ別の問題として、こんな学術会議が設置・運営されていた意味は何なのか、そこを紐解いていく必要があると思う。
 そもそも学術『会議』と銘打っている以上、議事録が出てこないという現実はあり得ないのだが、とりあえずそこの議論は後回しにして、議事録が無いという言い分はそのまま認めてしまおう。『あるvsない』の不毛な議論を発生させないためだ。
 その代わり『ナニナニとコレコレの決定には、当会議から各々誰それが関わっている』という事実ぐらいはすぐ出てくるんだろうし他廻りで調べもつくだろうから、まずはそれら記録書類が出てくる側で事実関係を洗うのがよろしい。手近な進展が得られるところから調査にあたって、判るところから明らかにしていくのだ。

 まずは学術会議とやらが、どこで何の判断に対してどんな内容と効力の意思表示をしていたのか特定せねばならない。それこそがこの会議体の機能そのものであり、だから費用対効果の算出ロジックとなり、更には存続検討の判定根拠にもなるからだ。
 別に調査記録のありとあらゆる場面で、個々人の発言が一字一句そのまま残っている必要などなく、そこで出席者一同『これでキマリ!』とした文書情報が読めれば事実関係は十分追える。
 学術会議とやらがどこまで絡んでいたにしろ、その『キマリ!』にぽっかりと重大な関心洩れがあったのなら追加で埋め合わせ検討の修復にかかれば良いのだし、その『キマリ!』に組織の自我に反する不正が含まれていたのなら、関係者たちのどこにその動機と実行操作があったのかという調査になるだけである。ただの会議でいちいち物証取るヒマ人はいないだろうし、これが議事録なる記録情報の本来機能だ。

 余談だが、逆にそんな追跡調査の事後処理でも巻き起こらない限りは、建設的な目的で集う出席者たちが意見を摺り合わせて合意するのが組織の運営会議なのだから、議事録なんぞ情報として小型軽量に越したことはない。たくさん読みやすく保管して、後々それを読んで情報として活用できないのであれば、会議設定および調整からかけた工数やコストの全部が全部、ただの無駄に帰してしまう。
 古電球に便所タワシみたいな無知無能が『会議記録の全デジタル化』とか気の狂った的外れを口走る前にクギを刺しておくワケだが、例えば会議中の映像や音声を一部始終デジタル収録したとしても、その現場で成された会議組織の意思決定の記録としての意味など成さないのである。莫大なストレージ容量を食いつぶすだけの、ただのサーバー負荷に過ぎない。

 恒例の横道をちょっと挟んでおくと、デジカメの普及とともに、スライドを使ったプレゼのライブを視聴しながら、そのスライド画像をちょいと撮影…という業態が一気に定着したものだ。デジカメは後にスマホにとって代わられるのだが、まあプレゼ中にシャッター疑似電子音がうるさいこと。盗撮防止機能でOFFれないのか、それはともかく。

 結論から行くと『できるヤツ』は結局メモ帳にペンを走らせ『場』に集中するのだ。
 ただ作業として撮り貯めただけの映像データを有益な実用情報として保管するためには、結局それらを同じ時間かけて見直して、それでもオリジナル版より劣化したおのれの記憶を辿って記録資料に仕立てなければならない。プレゼ内容に真剣な興味と取り組む心構えのある人間は、そんなレビュー作業を本当にやるのか、どこまでやるのか、腰据えて本気で入れ込んでやる時間が自分にあるのかを全て判っており、その上でナウ目前の進行中ライブに対峙する。その場で自分の意識に乗ったコトを書き落とす。

 先手を打って、簡単な十数分の会議のビデオファイルで構わないので、古電球と便所タワシにポンと渡して、そこで話し合われた課題と経緯と結論について把握させ、翌日にでも答えさせて理解度を測る実験などいかがだろうか。あれからこれからデタラメに脱ハンコだのデジタル化だの、次々迷惑に騒ぐのをやめさせられるんじゃないかなあ。
 無能の非効率にも程がある、言語文明を持つ人間としてダメなんだよこいつら。

 組織運営に関わる諸機関の有用性・機能性を決定的に左右するのはそこでなされる意思決定の質であり、その良否の基準概念は、最新電子技術到来のビフォー・アフターどころか、日本史年表級の大昔から今の今まで変わっていない。
 人間は社会性に基づいて大勢で組織を形成し、そこに発生する総意=組織の自我とうまくやっていく目的意識が芽生え、お互い協調し合えるよう言語情報を活用しながら平和と幸福を目指そうとする。この原理がきちんと理解できている思考世界において、『決裁証明プロセスの廃止』による省力化とか『デジタル庁』『デジタル大臣』などと抜かす国家機関の新設など、最初から概念として成立しないのだ。
 返すがえす、たかが古電球や便所タワシの知能で捻り出せるトンデモ案件ではないというのは一瞬で判るんだが、まあよく思いついたもんだよ。

 さてビミョーにこじつけ風にも見えてしまうかも知れないが、組織マネジメントの現場としては、こういった意思決定の記録管理がシンプルで見やすい単位で蓄積されていると、タイヘンに有難いのだ。
 例えばA4で一枚、内容をよく反映した一行タイトルで始まり、どんな事情の背景があってナニが問題だったのか、だから誰々が参集してどんな結論を出したのか、コトの進展として何の相違点が残ったのか。
 そして、こんな形式で整理された情報で考えるにしても、そもそも『我々ってこんな社会組織なので、こうするのが良さそうなんだよな』と直感的にイメージできて、みんなから意見百出するにも個々のバラツキ狭く立場が近い方が、何事もモメずにまとまりやすいのは理解できると思う。

 そう、280万人大阪市をひとつの大阪市議会で意思決定する場合と、これを四分割して各々数十万人単位の特別区で別々に完結させる場合で、どちらが迅速かつ的確なのか想像していただきたい。
 今夏の大阪府市政は、飲食店舗の営業制限や積極的な学校の空調使用の指南を始め『責任は取る』と意思決定を明確にしつつ様々な社会稼働を懸命に操作した。社会組織のハンドリングにおいては、その特色毎に偏っていて構わないから、各々小型軽量にしてやることで臨機応変の機動性をさらに向上できる。

 『情報』の効率的活用という観点で、我々日本社会をどっちに向けましょうか。
 大阪都構想は明日が告示となる。将来展開に期待しつつ、引き続きグッドラック!
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