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【984】卑屈スマイル給与体系の文芸方程式 [ビジネス]

 なんだか終末的な雰囲気になってきたな。注射薬剤に金属異物の混入ってのはあんまり聞いたことがない。
 保冷庫のプラグが抜ける事故と同じ原理で起こったハナシだとしたら【972】、製造から出荷・流通までの間にもそういう可能性があるということで理解はできるのだけれど、こっちの件は薬剤の製造工程の出来事ということだから、もうちょっと事情が深いのかも知れない。良心は良心なのかな。
 もっともらしくロット番号が公表されたテイにはなってるが、ロットの問題かこれ?

 因みに『金属異物の混入事故』が文字通りあったとして、製造ライン機器のネジが緩んで栓を被す前のボトルのひとつにコロン…ってのがあり得るケースとして素直に思いつく。食品だとたまにあるよな【421】
 まあ注射針を通過して体内にまで届いてない限り、そうそうムチャなことにはならんだろうが、ともあれその注射打っちゃってたらもう騒いでもしょうがないよ。まさに打つ手ナシ、お大事に。マジでグッドラック!

 とにかく『健康』というのは生きて過ごす時間の質を決める大事な管理対象であり、健康を損なうと身ひとつ自力で回復を完了する以外一切の安心リカバリー手段は、この世のどこにも無い。病気の治療の必要もないのに、そそのかされた程度で得体の知れない注射なんぞ、ゆめゆめ不用意に打たないことである。
 まず国民の健康状態を整備して、人間の集団の活動パワーとして最良の状態を実現することを目指す。次の展開を簡単かつスピーディに、安価な勝率高い総力戦として動かすための大前提である。
 今とにかく無条件に守るべきこの第一段階を、日本社会の運営層が執拗に崩しにかかっているところが、何とも不可解としか言いようが無いのだ。

 本来なら、のうのうと税金資本の給料もらいながら税収の使途について計画・実行の管理をする立場なのだから、できるだけ今般のコロナ騒ぎで喰らった一撃を軽く片付け、以前通りの社会経済稼働に戻して、手のかからない税収が復活する方で仕事するのが断然ラクチンのはずなのだが。
 おっと、いつもの横道だけれど、今回のは実効力あるマジな現実解の提案だ。

 税金資本で給料が出ている全職域において『ボーナス=賞与』を永久撤廃しよう。
 『税金資本のボーナス廃止』がキーワードで、日本全国一斉共有したい。

 もともと事業組織において業績が予想外に良かった場合に、その成果を皆に分配するのが『ボーナス』つまり『賞与』であり、つまり浮き沈みの『浮き』に対応した組織全体への御褒美である。もちろん『沈み』のどん底にあっては、『今月の給料、ちょっと待ってもらえないか』と組織全体の我慢に転じることもあり得る。
 国家社会から税金で給料を出すような業域には、基本このような浮き沈みのなりゆきは無い。まず『ボーナス=賞与』名目の金額が給与明細につくこと自体、経済原理に反しているのだ【476】
 実際、飲食店業界をはじめ怠慢でもないのに倒産が相次ぎ、総観的に日本国民の経済生活が苦しくなっているのだから、社会運営スタッフの業績としてはむしろ危機管理を失敗している。にも関わらず『税金資本だから給料が減らない人たち』みたいなナメたことになっているために、税金ボーナスが切迫感を削いでしまい真面目に実効対策の仕事に向き合えないのだ。明らかに仕組みの問題であり、ならば因果応報に則った仕組みにいま直そう。
 現状ママでは、今度は納税率が目に見えて落ち始めるだろう。生計を立てるために馬鹿馬鹿しく理不尽な納税義務を見捨てる国民が続出すれば、険悪な正統派本気モードでタテをつく納税者を相手に無限バトルとなる税務署職員たちが、苛酷なエンドレス残業でメンタル降伏するのは時間の問題である。

 今夏をもって『税金資本のボーナス廃止』、これを確かめてとりあえず話を戻そう。
 今さら超面倒な医療トラブルの集団発生も辞さないインチキ注射の国民総ヤブ施術にこだわる理由があるとすれば、この不景気の中クスリ屋が儲かるのと、せいぜいそれを都合する立場の役人および議員が利権を喰うあたりが関の山だと思う。
 高齢化が進む日本社会では、別にコロナなんかなくても医療機関にかかろうとする人間は十分増え過ぎており、医療最前線の現場としてはコロナなんて余計な面倒ゴトは、儲け話どころかむしろオーバーフローする日常業務への余計な注ぎ足しでしかない。
 つまり『コロナ死ぬ死ぬ』は、相当に限られた一部少数の仕業であると思われ、それにしてもこれだけ咎められずに周囲の全員があほ丸出しで尻馬に乗っているのは、一体どんな破滅的志向・集団自殺志向で気が狂った、しかし強大な絶対強制力が働いているのか、そこがイマイチ見えない。

 …ときにだ。その学術領域カテゴリーにいる方々には一部申し訳ない気も少しするが、言いがかりをつけて喧嘩をふっかけさせていただく。
 『経済学』ってさあ、何の役にも立ってないんじゃないの?

 別に経済学者vs技術者の戦争を仕掛けようというのではないんだけどさ。
 我々機械設計にあたっては運動方程式に従って部品にかかるGを算出するし、素材の強度限界を超えるような荷重がかかると確実に壊れるので、適宜実験による測定まで交えてそうならないよう材料力学で思考する。
 上司のベテラン技術者が何の体験談を語ろうが、社長が思い入れのあるこの方策でないとダメだと怒鳴ろうが、実務担当者が現実の現象を技術でとらえた成立ロジックは揺るがない。たかが人間ごときの都合や思惑とはまるで別の系の、何者にも逆らえない絶対因果律だからである。

 いっぽう経済学はどうだろうか。
 売込み中の経済学者が新刊リリースというと、大型書店ではいつも大々的にビジネス書コーナーに平積みが並び、経済関連のニュースでもやたらめったら見かけることが増えるんだけど、そこに『ひとことで言うとこう!』と日常生活の現場に直結するカネ操作についての新しい思考法が述べられていて、それを適用したら確かにうまく行きました…みたいなハナシを見たことも聞いたことも、一度も無い。

 言っちゃ悪いが、人の気持ちや世の中の動向など、数字に読み換えてもしょうがないし普通は読み換えられもしないような対象事物を仰々しくxyzみたいな変数に無理付けし、あとは数学法則を絡めて何だかよく解らない理屈を展開させたら、最後はまたそれを文学的に読み解いた作文で、なんだかなあの結論に仕立ててハイおしまい。
 特に近年のやつは、経済学って『人のギブ&テイク感覚』とか『満足感と競争意識』あたりに関わる一般論を、どれだけ難しそうに理屈付けて見せるかのヒマ潰し漫談じゃねえのかと毒づきたくもなるのが正直なところだ。『仕事は自分で見つけろ』ってことで、デキる人種が経済学者の職に向いてるのかねえ【971】

 経済学なるものが人類文明を研究し、集団社会をより良く、そこで暮らす人間たちにとってより幸せを感じられるものにしていく知的活動だとするならば、丸2年近くも無策で過ごしてきた今の日本の経済学者たちの存在価値って一体なんなのだろうか?税金資本で給料出てたりしないだろうな?
 何か数式でも論理式でも持ち出して、経済という人類文明の価値流通体系における普遍則で根拠づけて、『コロナ死ぬ死ぬ』の正否を断じる経済学者はいないのか。いまお宅らの一番手近な商売道具たる日本経済はやられ放題だろうが。
 語れる普遍則が何も無いというなら学問になっていないとしか言えないし、語るべきことはあるが言えませんなどと尻込みするなら経済学者なんかやめちまえ。そういうことだろう。
 『社会経済の健全作動』という目的事象に対して、アルコール飲料の店内流通が何時までなら良い悪い、何人会食までなら良い悪い、どこの都道府県なら良い悪いみたいな痴呆論争、私が経済学者なら当該学術域の威信をかけてその場に乗り込み、口から火を吐いて一面すべて焼き払ってやる。我が日本国が経済をまわせてないんだぞ!

 いきなりに経済学を目の敵で悪者扱いにするつもりはないのだが、それにしても経済学の実用性って前々からどうも不透明に思えて仕方ない。なんとも現実味の無い舶来製の『言ってるだけ』が浮いては消えるイメージばかり強いのって、私が無知無能で不勉強で世間知らずなだけなのだろうか。
 将来経済学を背負って立つ若い新興勢力が、現行の日本社会を公然と指差して『この学術理論に基づき現状国政は誤りである。修正方針はこうで、具体的には財政の仕組みと数値をこう変える』と明言すれば、今の空気なら必ず社会現象を巻き起こせるはずなのだが。

 数学者や理学博士が『そもそも学問とは実用の役に立たないものだ』と断言し、一生を賭けて森羅万象・この世の支配律に立ち向かうのとは根本的に違う。敢えて挑発的な立場の表現を選ぶなら、経済学の空回り感は全然チャラいのだ。
 日本社会の経済現場は、学校なんか行かなくても解る、実用一点張りの至上法則を共通言語に今日も生きていく。まだまだ負けないように、乗り切って一緒に笑いましょうぜ。では今週もグッドラック!
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【983】自虐史観お見送りのワン・ショット [ビジネス]

 今年の夏のうち特に若い人たち向きに、もう少し走り切っておこう。
 この現状を見て感じて、よく解ると思う。
 こうして戦争は起こった。だから特攻隊が出撃して、原爆が落ちた。
 『コロナに克つ』だとよ。日本社会はまたいつでも簡単に戦争を始める。

 感染者の累計がもう130万人だっけ、日本人口の100人に1人以上だろ?
 実に2年近くにわたってこんだけの騒ぎが続いているんだから、この日本に暮らしている限り『死病の現実』を町内・御近所さんレベルのどこかで全員が直視しているはずで、しかも早いうちにその恐怖の光景に触れた方々は、その後の猛威が繰り広げた大惨事の結末まできっちり解って体感しているはずだ。

 ここでポイントは『社会組織の自我が、死病の流行を現実の出来事として恐れているか』というところにある。まずこの認識があって、全てはそれ前提で従うしかない。
 今さら説明は不要だろう。御覧の通り、現状の日本社会は死病が流行しているとも思っていなければ、怖いとも思っていない。だが。

 誰も本気で『やめろ』と言わない。『周囲のみんながやってるから』だ。
 みんなおかしいと思っていて、みんな滑稽だと知っていて、みんな嘘をついている自覚があって、死ぬほど馬鹿馬鹿しい。それでも自分自身が『ハダカの王様』の大行進を指さして指摘するのかというと、そこで無条件に急ブレーキがかかるのだ。あとはニヤニヤあたりを見回しながら『みんなやってるし、しょうがないですよ』『ワタシ一人のせいじゃない』と沿道の観衆に紛れていく。
 そしてお互い目配せして、日常の生活を放り出してマスク姿で『コロナ死ぬ死ぬ』
 みんな一緒なら生活が崩壊しようが人が死のうがお構いなし。それが日本社会だ。

 ちょっと前まで一枚上の理性派・知性派を決め込んで、左巻きの脳足りんどもが得意気に繰り返していた定番の言論スタイルがあるんだよな。今こそ訴えかけるには最高のタイミングのはずなんだが。
 日本は国家権力のミスリードにより戦争という集団発狂状態に陥り、
 愚かにも他国を侵略し、明らかな負け戦に国民の命を使い捨てた。
 かけがえのない、無実の、若く、希望に溢れる命が数多く失われた。
 あああ日本は愚かだ、戦争は愚かだ。

 あいつらどこ行ったっけ?まあいいやくっだらない、これトドメに二度と現れるな。

 少々不可解なのが、それにしてもここまで敗色濃厚になっているにも関わらず、なし崩しの方針転換を急いで『支配階級が下民にシカトされる』構図を避けにかからないとマズいはずなのに、ロクな対策がされていないことだ。もう『コロナ死ぬ死ぬ』はボリュームアップすればするほど、惰性としての印象ばかり強調されてしまうのは、やってるヤツらが一番身に染みているだろうに。
 いや、とにかく『国民全員に一律で施した公務処置』をでっち上げて、税金支出の実績を作ってしまいたいというのが至上目的なのは前々から判っている。まとまった数で税務ポストを増やして、高給の公務員定年延長制度を布く根拠となると、相応のまとまった税務仕事を発生させてしまわねばならないという理屈だ。
 ここで作戦失敗の見切りがつけられないタイプは少なからずいて良いのだが、ここまでそれしかいないというのも不自然なのである。『コロナ死ぬ死ぬ』無限アナウンスの震源地、どこの職域までを対象に、何の強味を握っているというのだろう?

 最初の頃お盛んだったウィルス拡散のインチキCFDアニメは想定ケースが尽きたか飽きたか新作が出ないし、5W1Hの変異種たちはデルタとラムダに置き換えたあと忘れられちゃったみたいだし、そういや瀕死の重症者がストレッチャーの上からどこぞの放送局の搬入路で余裕の自撮りをキメる動画クリップも、最近とんと見かけなくなった。
 こういうのってさ、本当に相応の現実がずっと継続していれば、別に誰かがいちいち気を配る必要もなく、直近アップデートの最新ネタが必然として上がり続けるもんなんだよな。容赦なく展開する現実に対して対応を強要される形で、絶えず『想定外』の新規性をもった情報が自然発生してくるものなのだ。

 だから言ったろう、私は嘘をついたら自分でついた嘘を忘れてしまうので、最初からそういう大変なタスクには手を出さないのだと【581】
 あーそうそう、もうひとつ深みにハマる前に解説しておくと、単なる私の無知だったら後で謝らせてもらうけれど、医療処置に対して『カクテル』なんて胡散臭い表現は、常識的な感覚だと使わないと思うぜ。たぶん注射で複数の薬剤を混ぜただけだろうとは思うが、それなら『複合』とかせいぜい『カップリング』までだろうな。

 特にまだ問題事象のメカニズム解析が完了していない段階では、『コレを突込んだらこんな反応がありました』というイチ対イチのINPUT-OUTPUT因果を一手一手区切るというのは、対処の基本かつ必須要件ともいうべきものだ。とりあえず効くアイテムが効いてくれりゃ御の字…という量産製品の市場不具合スクランブル初期対応【822】でもない限り、複数の手を綯い交ぜに突込むような無駄は普通やらない。その後に結局、要因別の因果解析のやり直し作業を発生させるだけだからだ。
 『カクテル』なんて、恐らくは医療に勘の働かないどっかのクズ役人かクスリ屋のスカ営業が、ただ混ぜるだけでない高次の神通力の見せかけを狙って選んだ単語じゃないだろうかね。後から恥かくのもナンだし、真顔で取り合うコトバじゃないと思うよ。
 ええっと、マティーニはジンとベルモットでゆる~りとステア、マルガリータはテキーラと白キュラソーとレモンジュースでしゃかしゃかシェークするんだっけ?バーツールはひと揃え持ってたりするぞ。注射の薬剤はどう混ぜるとよく効くんだろうか。

 人間が意図的に動作する時、先に動作が始まって、その後に意識としての判断が下されているという順番でデータが取れてしまうハナシはした【608】
 社会組織も同じである。先に社会現象レベルの大衆動向があって、それを反映させる順番で社会通念が形作られてきたり、法整備が進んだりするのだ。
 まずこの順番はいつなんどきも変わらないから、必ず社会組織の自我の向かう方向に沿って、スローガンで語りかけるなり理屈を解いて法案を出すなりしないと、結局は全て破綻して水泡に帰す。歴史を刻むにあたり時間の無駄にしかならないのである。

 とりあえず騒ぎの方はもう自分の生活とカンケーないものとしてほかるとして、周囲を見回して『みんな、まだそうしていない』と躊躇するのも日本人なら、『みんな、動き出した』と行動を起こすのも日本人だ。あれだけタイヘンだったパリでさえ随分と自由になっている様子だが、さあ今日も暑いなか役にも立たないマスクして、みんなで通常通り人混みに繰り出す意味不明に精出すとしましょうか。
 『起死回生』や『大逆転』や『大番狂わせ』の起きやすい社会背景なんだから、こんな時こそ力尽きずにもうひと頑張り、どうか御幸運を!
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【982】超ラッキー空間の永年統治システム史 [ビジネス]

 えらく暑い日が続いて、夏らしい夏でまあいいかと思っていたら、今度は突然の長雨である。大きな被害が出るのが毎年の通例のようになってしまっているが、まずは被災地の皆さまお大事に。
 まだ8月なので全国的に雲が取れたら酷暑猛暑が戻ってくると思われ、被災各地のその後の処理作業のきついことには想像に余りある。良いコト面白いコト、日本人みんなで探して元気を出しましょう。

 直近の数年だけで複数回、豪雨被害に見舞われて農作地を流された方の話を聞く機会があったのだけれど、そこで『繰り返し水害に遭う土地で農業を続ける理由』について語られた内容が印象深かった。

 結論から行くと、そんな土地ゆえに肥沃なのであり、ここはこういう土地なのだと。
 みんな学校で習うでしょう、河川が上流から肥えた土を運んでくるのだと。

 彼等は、農作に適した『その地の豊かさ』とは、この日本列島においてどんなものなのか身をもって、代々続く地域の生活をもって深く理解しており、そこで生きていける、収穫を上げながら食っていけると判断し腹を括って、自らの人生の時間を過ごす場として選び採っているのだ。ともすると『自然の脅威にさらされ平穏な生活があっという間に失われた』みたいな表現で終わらされがちな大洪水も、それを納得した上で、現実的に勘定に入れて、地元の人々は農業を営んでいる。
 日本人の生活は、日本列島が巻き起こす森羅万象に逆らわず溶け合い、共に時を重ねるこの島国の一部分なのである。いや、以前から何だか他人事のように、まあ理屈としてはそういう理解は正しいんだろうなと解っていたつもりだが、やっぱりそこで根を張って生きて暮らしている御本人が語る自然な言葉には、圧倒的な力強さ逞しさを感じた。甘ったれの思い付きで理不尽を呪う訳でもなし、ここに部外者が介入する余地はキホンあり得ない。失礼だろう。

 もしかすると、大昔のこのあたりの日本人たちは、何人か失おうが、洪水を『災害』として認識していなかったのかも知れない。かつて木曽川の輪中について取り上げた時、集落の特定のエリアは『ここは何年かに一度は水を被る前提で土地利用する』という慣例が確立されている話はした【866】
 人間が生活圏を拡げてそこに住むのは勝手だが、日本列島の自然にまつわる物理法則には誰も逆らえない。人間が人間なりにチカラ及ぶ限りの都合を通して日本列島に住んでいて、そこに日本列島の自然の物理的展開がたまたま干渉し、人間の暮らしに損害や支障が出たと意識された場合に『災害』と呼ばれるだけの話である【719】

 ここで横道に昭和の思い出話を紹介しておこう。
 高度経済成長期の日本人は、日本列島をとりまく自然に対して随分と敬意を見失い傲慢になっており、今のこの時代から見れば危険な不見識としてのメチャクチャな科学技術万能主義・経済成長信奉みたいなことにはなっていたと思う。

 確か学研の『かがく』だったか、夢の土地開発として見開きで解説されていたのが『間宮海峡ダム』である。ロシア東岸と樺太の西岸は非常に近接しており、その間を割る間宮海峡は河川のように狭く浅い。
 ここにダムを建設して間宮海峡を塞いでしまえば、北のオホーツク海側から南下してくる寒流のリマン海流を堰き止めることができる。すると、間宮海峡以南はほぼ全てが南からの対馬海流の暖流域となるため、北海道西部から大陸の沿海州から広範囲の土地が、凍てつく冬の寒さから解放され緑いっぱいの暖かな気候の農地となり、ほおらテレビを通して北米の光景としてしか見たことのない大規模農業も可能となる、まさに『夢の計画』ですよ~
 …とまあ、やめといた方が良いのが今なら小学生でも0.1秒で判るような大それた構想であった。もともと日本海が沈下して形成された浅く底が平らな海だということもあり、潮の流れが速かったにしても、土木工事としては恐らく当時のうちからその気になればできてしまったのではないかと思われる。
 大陸側も樺太側もソ連の領土だったし、もし実現していたら周辺広範囲の自然環境は多大な影響を受けていたはずであり、どのくらい現実性をもって語られていたのか知らないが、とにかくやめといて良かったよ。日本の八郎潟や諫早湾の大失敗とは比べ物にならないくらいの、人類史上に残る愚行かつ負の遺産になっていたことだろう。

 さて日本列島に話を戻して、石油も金もダイヤモンドも出ないけど、きれいな水があって草木がいっぱい生えてて寒流と暖流が交錯する広い海に囲まれて、改めて本当に人間の暮らしやすい世界一豊かな島なのだ。我々日本人は最後の最後、どうしようもない人生の展開の天地や東西南北を決めるレベルの運命の基盤として、日本列島で巻き起こる自然現象に従って生きていくしかない。
 やられて失った悲しみや悔しさの感情を消化して納得し、してやったりの成果が上がった時には喜び祝って、起きてしまう諸事には各々落ち着け方を決めて、そうやって日本社会は時を重ねてきた。その決め事は、日本語なる文化の情報体系が組まれる以前から、我々日本人の心に時代を越えて共有されてきたものであり、たかが法律なんかよりも遥かに強大な影響力で1億2千万人組織のDNAを動かす。
 そんな日本史の時間軸上に延々とわたる日本人組織の自我としての『日本の心』を、日本人ひとりひとりの呼吸する空間で疑いない事実として目に触れるよう、現人神となってこの現実世界に具現化する役割でその座におられるのが、我等が天皇陛下と皇室の方々である。
 日本は法治国家だが、この平和で豊かな島国への土着性をもって一本化された、民族レベルの組織の自我がその上位を包括している点において、世界に他例を見ない生来同調性の極めて安定した社会組織であることを忘れてはならない。この特質を疎かに扱うようなことがあってはならない。

 今も日本全国では無数の祈祷や祭事が行われているが、これは科学技術が確立する以前の時代、人の力が及ばない大自然に対して『ああだったらいいな』『こうなって欲しい』『こんなお願い通りませんか』みたいなダメ元の集団願望の共有を、仰々しい演出のもと執り行う儀式の名残だと見るのは間違いである。
 UFOを呼ぶために輪になって手をつなぐとか、オカルト超常現象を一方的に信じ込むような、非科学的な空振り確信犯の形式的デモンストレーションで、集落が年恰好で見立てただけの組織表を定着し直していたのではない。昔の人が総じてそんなヒマな夢想家である理由は無い。
 日本列島の森羅万象に畏敬の念を一同共有し、そこにいる日本人全員をもってそれに沿って生きることを受け入れ、そこで巻き起こる現実に納得して対応するため、皆で現状認識や対応意識の方向を一致させてひとつの組織力を形成するための、思いっきり現実的なマネジメント徹底策としての機能性会合だったはずなのである。

 この島ではいろいろ起こる。真水や海山の生態系は潤沢だが地震も風水害もある。
 それは時に痛いし悲しいことももたらすが、あってはならないことでもなければ、なくすべきことでもない。あることなんだし、あって然るべきことなのである。
 みんなで頑張って乗り切って、今度いいことがあったらみんなで笑おう。
 そうやって日本人は、この島で日本社会を切り盛りして、ずっと暮らしてきた。

 まだ夏休みが残っているから、若い人たちはその視点で地元や各地の伝統行事を調べてみると良い。どんなテーマめがけたどんな舞台で、誰々がどんな役割分担で、どういう動作をすることで何を表現しているのか。日本人とはどんな特性に偏った人間で、そいつらがこの時空間の中どんな工夫をして、どんな現実解を導き出して、長きにわたって自分たちの心を一本に揃えて協力し合ってきたのか。
 それは技術の飛び道具がない時代、各々の地の自然と、身ひとつ自分らで、組織の構成員に『社会運営理念』の周知徹底を布くためのガチンコ実効手段だった。

 現代社会生活の日常現場として、必要不可避ぶんの人命尊重や健康管理や損失補填を保証する公共事業はあって構わないと思う。だが日本社会が自然に今の平和に収まっている壮大な理由に考え及ばず、『情報化された決め事で現代の法治国家を制御する』みたいな薄っぺらい思考体系で未熟な小細工を捏ねくり回すうちは、日本社会の自我に響かず聞く耳を持ってもらえず、結局は大衆の波間に溺れて消えていくのみだ。

 日本列島に暮らす1億2千万人組織の一員を自覚する日本人のあなたは、隣の誰それさんや職場の怖い人ではなく、日本国組織の自我が向くまま自然に行動選択するのが正解である。では今週もグッドラック!
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【981】世界地図色分けペイントの品質管理 [ビジネス]

 ちょうど現在進行中の映像がいろいろ確認できるので、アフガニスタン情勢から。
 この中東あたりも安定した国家組織がなかなか成立しない地域であり、ずーっといつも内乱状態っぽいし始終国境紛争も絶えないイメージが、漠然とあるんだよな。

 東欧からロシアからアラビアからアフリカから、地続きの四方八方から他種多様の民族が流れ込むから、『総じてコレ』という方向性がぼんやりでさえ一本にまとまらない。それどころか乾燥地帯なので水や食料が奪い合いとなり、命を賭けた生存本能が向かうのは、殺意と殺意の正面衝突の世界だ。
 ここに原油という地下資源が出て、最新の兵器も出回るのだから、平穏な収まりなんぞつくはずもない。武装した野良人間が小集団単位で揉め続ける『紛争の地』は、こうして時を重ねてきた。
 だいたいにでも世界地図の色分けの通りに各国なりの国家組織の統治が行き渡っていて、一部のならず者が単発的にそれらを乱すため内乱や紛争が起こる…なんてのは呑気な性善説のお花畑幻想もいいところなのだ。

 資本主義経済が世界丸ごとうまく回っていた=その時空間で思いつく法則や規律に則ってまずまず齟齬なく満足いく現実作動に落ち着いていたうちは、資本主義経済は世の道理にうまく即した優秀な文明であり、『資本主義でうまくやれている国が豊かに栄える』という素直な因果応報が成り立っていた。例えば世界中から国家組織に帰属するメリットを認めて優秀な生産性人種が集まったアメリカ合衆国は、世界一の経済活動を可能にする世界一のカネ持ち国家として、国際社会のリーダー格に位置していたワケだ。

 資本主義経済が本当のところ原理レベルでいずれ行き詰るモノなのかどうかはまだ判らないけれど、少なくとも当面のところ資本主義社会が同時多発的に失速してきている。幸福な人間の経済生活が多数あって、その間を永続的なカネ流れが自然に繋いで、社会全体に物流と人の満足を行き渡らせる循環器系としての経済のイメージが、人々の心に見えなくなってしまっている。
 今や北米はひと昔前の栄華を失い、再興を確信できる有効対策も見つけられていない。対外貿易には制限をかけて国内産業を擁護するとともに、支出をケチる財務緊縮で身を固め、それで多少は改善しそうかなりゆきを確かめるまでで精一杯という有様だ。

 かつて裕福だった国際社会のリーダーは、その世界一の軍事力を差し向けて、弱肉強食で支配権闘争に明け暮れる野良人間のバトルフィールドに抑えを効かせていた。『世界の警察』というやつだ。  
 そうしないと温厚人種が片っ端から屈強の武闘派に私利私欲のまま強制使役させられる運命を辿ることになり、先進人類文明が過ちとして嫌う『人権蹂躙』の状態に陥ってしまうからだ。
 もちろん品行方正な普遍的正義としての国際的人権保障だけではなくて、原油マネーの有利な運用を始めとするさまざまな実利があったからこそのことではあるが、とにかく地元の野良人間たちにとっては軍事力で窮屈なお行儀を強いてくる邪魔な余所者ということになる。
 例えば911テロで北米が突然に標的にされ世界貿易センタービルなどが被害を受け、何だかよく判らん中東の暴力団とか赤軍みたいなのが加害者とされて、断定されたんだかされてないんだかもよく見えず、その後も国家間対立というよりは、民間地下勢力のカルト組織をしらみつぶしに炙り出して退治していくかのようなスタイルで揉め事が尾を引いたのは、ぶっちゃけこういう背景事情のせいである。
 911のような目立つ事件でもない限りは目立たないまま当事者間にのみ戦闘が続く日常となっており、それは北米にとって軍事力維持の宿命でもある兵器の実地運用の貴重な機会ともなっていた。日本に住む我々には、劣化ウラン弾の存在や使用の事実などにまつわる報道や論争が断片的に耳に飛び込んでくる程度でしかなかったのだが【187】

 ともあれ、そんな北米抑止力の環境下でどうにかこうにかアフガニスタンの国家構造が維持できていたのだが、その北米の財力が怪しくなり、このほど軍事力を引き揚げてしまったのである。確かに自国経済がうまく行ってもいないのに、国際社会の体面を優先して、地球の反対側の文明後進国に高額経費の軍事力派遣を続けていては、今度は自国内で運営スタッフ層に向け不満が暴発するだろう。
 ある意味この資本主義の全世界的失速が、目立つ優等生ポストゆえ自腹で背負い込んでいたゴロツキ相手のお目付け役を、経済大国・北米が公然とお断りする好機にもなってしまった訳で、他力本願の治安力を失ったアフガニスタンの国土では、せっかくマシな理性派が集まって運営できていた国家社会組織も、野良人間の暴力に食い荒らされて陥落するのが時間の問題であった。

 野良人間が野良人間なりに振舞うその流儀がアフガニスタンの地を支配する流れとなり『政府が崩壊した』というのは、規律に沿って国家の諸機能をスタッフ層が動かし、国民がいろいろな社会的機能に身を預けて暮らす関係の解消である。
 『アフガニスタン国民』は、自分自身の預貯金どころか社会で流通するカネの価値概念から御破算となり、無一文となり、法律も警察も裁判も消え去った後のやりたい放題やられ放題のバトルフィールドに突然放り出されたことになる。政府の国家管理業務の一環として、役所の組織力でウラ社会の邪魔をしてきた立場となる大統領は、もちろん取る物もとりあえず国外脱出して身を隠すしかないだろう。
 自分が生き残り、自分に合わない流儀については、象徴的に惨殺し、周囲の連中が命惜しさに逆らってこないような恐怖心を深く刻み込む。自己保存のパワーバランス原理のひとつなんだからしょうがない。
 そりゃ『アフガニスタン国民』たちは野良人間の手にかかる前に、飛行機にしがみついてでも逃げ出したいだろう。その無軌道な生命力が次の満足を求めて自分に向いた時、何が起こるかなんて考えたくもない。

 例えばだが、ブラジルあたりでコロナ禍を理由に人的交流の強制停止なんかかけたら、ウラ社会が日常の商売に余計な邪魔をされて面倒がったというドライな理由により、大統領の暗殺事件が起こる可能性は十分あると思う【850】

 76年前の終戦直後の日本国内もちょうど国家の仕組みが事実上壊滅したのだが、生き残りを賭けた内乱で自己崩壊するかどうかより先に、連合国からの進駐軍=GHQが日本国内に拠点を置いて、まとまりの拠り所を見失った日本人の群衆を統治した。
 まあ島国だったので誰も逃げ出すに逃げ出せなかったというのもあるんだろうが、そのまま同一人物たちが、戦中までの日本社会の組織表における位置関係をいったん御破算にして、ニコニコ仲良しとは言わないまでも力を合わせ『ひとつの日本国』として再起動したのである。そして果てしない内乱に苦しみ続けることもなく、高度経済成長を存分に謳歌した。その真っただ中に、私は生まれ落ちた。

 終戦直後に話を戻すと、この時点で日本社会の有価物は散々に戦争被害で失われ、日本経済も事実上それを定義する辻褄がガッタガタに壊れていた。
 だから都会の富裕層が、田舎の百姓たちに頭を下げて高価な家財を食糧と交換してもらうという社会的地位の逆転現象も起きたのである。そう、極端なハナシ通貨管理システムが完全消滅すれば、カネなんかただの紙切れと金属片に過ぎない。だからウチの遠い親戚が持っていた戦時国債も全て紙クズになったワケだし【597】
 一方そんな時代だからこそ、GHQキャンプの一夜のジャズ演奏でもらう投げ銭が、おのれの人間性を見失うほどの額にも化けたのだ【672】

 同時に、やはり再構築される新たな日本国の国家像・国家構造に異を唱える者もあちこちに出現し、終戦後20年以上を経過した昭和40年代でさえ、あさま山荘事件の元となったような独立内政志向の小集団が幾つもいたし、三菱重工ビル爆破事件のような社会脅威となる国内テロも起きていた。
 それでも破滅的な内戦までは起こさず実体ある『日本国家社会』としてやってこれたのが、日本列島に暮らす我々1億2千万人日本人の集団特性なのである。この地球上で、たまたま日本列島という豊かな島嶼が、人間という生物を長らく育んでもたらした結果としての、実に有難く誇らしい奇跡なのだ。

 だからこれを何より大切にし、無理なく同調しながら栄える方向に持ち込むべきだと言っている。
 現状、日本社会の運営スタッフ層が日本人生来の同調性・親和性につけこんで、『コロナ死ぬ死ぬ』無限商売の不真面目な後押しをやり続けて許されるものと身のほど知らずにナメ切ってしまっており、1億2千万人組織の自我と根競べしているつもり・できているつもりでいるのが非常に心配だ。バチにあたって、何もかも失くして、世界標準としての野良人間の無法バトルロワイヤルの島にまで堕ちるつもりなのだろうか【404】

 逃げ遅れて組織の自我を本気で怒らせた恐怖におののきながら透明の演劇に明け暮れるより、早くイチ抜けして元の生活に戻って溶け込む方が断然に健全で賢くて幸せだ。この夏も日本列島に暮らす日本人でいられる恩恵を確かめて、どうか御幸運を!
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【980】再発防止できない76年目の臣民落第生 [ビジネス]

 今年も終戦記念日を迎えた。
 実は我々世代で既に頭の中の現実離れが大概のことにはなっているのだが、国家間紛争としての戦争の現実とは一体どういうものなのか、左巻きヒステリーが鳴りを潜めているこの機会に、特に若い人向けにちょっと考えておきたい。

 端的に『我が国が他国と戦争をする』という事態になったら、国民たる自分自身もどうにかして戦わねばならない。少なくとも敵国の武装人員と直面してしまったら、お互い殺し合う理由を持ってしまっているがゆえ、とにかく戦うしかない。
 戦うより先に逃げたくなるのは間違いないだろうが、敵に背を向け逃走していて次々と自国民が真横で背後から撃たれる現実を目の当たりにしたら、まあ向き直って何か違う行動に転じるのが人間というものだろう。
 自分や家族や知人・友人が戦地でそんな目に遭う。当然かなりの確率で死んだり負傷したりもして、その折には五体満足で平和な暮らしには二度と戻って来れない。ここまでは、別に勉強なんかしなくたって誰だって解るし、戦争をする・しないの二択ならば全員が『しない』を選ぶと即答するのが普通だ。

 では何故76年前に原爆まで落ちるような戦争が現実に起こったのだろうか?
 今この瞬間、現代社会に暮らしながら『いくらお国のためがどうこう言っても、戦地で命を危険に晒して恐怖や苦痛の日々に押し込められるなんて、絶対に受け入れられない』と思うその気持ちは、当時も何ら違わないはずだ。

 大東亜戦争の始まりは昭和12(1937)年の日華事変だから軽く80年以上前のことであり、テレビ・ラジオはもちろんインターネットも無く、せいぜい新聞が、活字なる正式の情報媒体のテイをもって庶民の目に触れてくる公共情報であった。あとは街頭ラジオとか制服着た役人の口頭通達あたりが、日本社会に呼びかける情報操作の全てだったのではないだろうか。
 今にしてみればその貧弱な訴求力の言う通りに従う形で、本当に多くの日本国民が出征し、物資供出に協力し、武器を製造し、まさに国家一丸となって、国家活動としての戦争を命懸けでやっていたことになる。

 特高警察の話は以前したけれど【919】、これは日本国の運営方針を戦争モードに向けていた当時の国家スタッフ層が、その貧弱な発信力・訴求力に絶対強制的なパワーを持たせるため、見せしめのショーアップまで絡めて、従わない仲間を手酷く傷めつけて逆らえなくしたものだ。こんな手段まで持ち出して、仲間の多数が気乗りしない=社会組織の自我がなかなかその気になれない国政方針を、そそのかして、あの手この手で仕向けて強行していたということなんだろうな。
 とにかく運営スタッフが『戦争をするぞ』と発信した情報に対して、日本国組織の自我が反応して、国家総力としての戦争モードが成立した。

 ナウ現時点、スマホからインターネットからいろいろ揃うこの現代でも、中南米やアフリカなどは情報になびかない野良人間が数多く生きている。その地域にとりあえず生きている人間全数のうち、国家という仕組みに身を預けて生きてもまあいいかと思うようなマシな連中が、地図上のそのエリアで一応管理や対外交流の対象になるような国家活動を、やれる部分やっているだけというのが実態…みたいなのは案外と多い。
 中南米なんかは麻薬の社会文化が根深く染み付いてしまっているため、現代式の洗練された国家像の組織構築を目指そうとしても、正直とても手が出せない『ただの散在する人間ども』なのだ。新進気鋭の若い政治家が人気を集め鳴り物入りで登場するも、誘拐され惨殺された上にこれ見よがしの無残きわまる姿で死体遺棄されてしまう事件は今もって後を絶たない。
 恐らくは警察もあとが怖くてマトモには追跡していないだろう。何とか法治国家を謳って相応の諸機能を維持するも、あちこちでウラ社会から絡まれ脅されて掠め取られて、社会規律や財務採算に則った社会運営が成り立たないのだ。仕組みが回らない以上はIN/OUTの因果もなく制御もできない。
 だから国民の力を結集して国家経済の基礎が築けないのであり、そんな貧困社会からの不法入国者を阻止し切れずに今日も北米は悩み続けるのである。

 仮にこんな社会環境で、いくら国力増強のためとはいえ国家中枢層が特高警察気取りの強権暴力行為にでも出ようものなら、圧倒的に数に勝る一般庶民組織の自我に一瞬で食い殺されてオシマイだろう。
 のうのうと日本列島の内地で役人として暮らす特高警察には、反目することもなく軍刀や銃を手に、戦地の方に向かってくれた当時の日本人がいたから、日本国の戦争モードが成立したのだと言える。

 ここで素朴な人間の集団としてどっちのパターンが自然に起こりやすいかというと、圧倒的に前者、つまり強制力を決め込んで自分らに拳を振り上げてきた勘違い野郎を袋叩きにして消す方ではないだろうか。そこらに埋めて付近一帯のみんなでクチを閉ざせばアシもつかない。
 そうならないためには、まず自分たちを擁する『ありがたい日本国組織の実感』があり、『お国のため』が全員の意識の共通基盤になっている必要があるのだ。誰も逆らえない特高警察は、実は『お国のため』を徹底管理する役目を担っている特高警察だとされているからこそ誰も逆らわない。日本社会組織の自我が『自分らの組織ってそういうもんだ』と思うその大前提の概念が、その存在を許しているだけなのである。

 これが何とも貧弱な情報力にも関わらず一応にでも結構な支配力で日本社会を方向付けていた、大本営発表の国家マネジメント機能の正体だと思う。精神地盤ときっかけが揃って・噛み合って組織の自我がその気を起こすかどうかの問題であり、また一旦その気になった組織の自我は誰にも止められない。だから戦争になった。
 『組織の民』が暮らす日本列島に、植民地支配を狙う欧米列強が対峙して来たのだから、歴史上のあそこでの戦争勃発は避けられなかったのではないかと思う。

 だから、元々『組織の民』が成す類まれなる同調性の組織特性に恵まれ、敗戦により一度は日本国の組織力が連合軍への無条件降伏という形でシンボリックに崩壊しながらも、戦後に経済発展を基軸に新たな組織力を構築し直しながら、ウラ社会との二重構造にもならず今の平和があるこの日本国は、本当に幸せな国なのだ。
 人間には性向のばらつきがあり、もちろん組織統率なんか知ったこっちゃねえと警察力を蹂躙する者はいつどこにでも一定数はいたりするはずなのだが、とにかく日本国民をごそっと総ざらえすると、そんないさかいを起こすことなく収まってくれる集団なのである。これは日本列島なる特定の環境で、人間のDNAが何度も世代交代を紡いでようやく醸成される奇跡の民族キャラクターなのだという事実に気付いておこう。

 もし政治家なる人種が、社会組織の操縦めいた動機で何か日本社会に働きかけようとするのなら、『コロナ死ぬ死ぬ』には利権商売の無限連鎖を目当てにした情報操作しかみんなには見えていないのが現状の問題なのだから、そこに手を打たない限りはこの堂々巡りから永久に抜け出せないと悟るべきである。 
 すべからく議員も役人も自治体首長も、バカのひとつ覚えで『コロナ死ぬ死ぬ』の単純なボリュームアップしかやっていないのだから、だらだらと変わり映えなく何ひとつ改善しないのも当たり前だ。
 本当に新型コロナ・ウィルスの危機が日本国社会を脅かしているのなら、その正確な国民的認識と適切な対応体勢を周知徹底するため、『コロナ死ぬ死ぬ』合唱も、妙な注射の流され同調も、マスクの無差別着用習慣も、むしろ強制的に禁止して、まずリスク事象=死病実例の顕在化と国民個々人の体感検知を急ぐ方向に切り換えねばならない。
 ここにあたかも法的拘束力=たかがアタマで考える決め事の議論の余地でもあるかのような論調で、『日本は法治国家なんだから、こう決め事を決めたら日本人はこう動くはず』みたいなレベルの提案を放つのは、あまりにもトンチンカンな的はずれであり、そんな空論はむしろ日本国組織の反感しか刈り取っていないことを自覚すべきだ。

 これだけ情報が溢れるグローバル社会に生きて、なぜ日本列島に育まれたこの果てしない幸運の民族特性が理解できないのかが解らない。我々1億2千万人日本社会は、大東亜戦争の史実を通して日本国組織の特性・強み弱みを改めて学習し認識し、次に目指すべき日本社会の方針を見据えたら、それを目掛けて今すぐに行動を起こすべきだ。

 主に飲食店業界などタイヘンな思いをしている方々、76年前の日本人と今の御自分とどっちがタイヘンだと思われますか?命を賭けた日本人たちは、のちの日本国の栄華発展を強く願い、堅く信じていた。そして行動した。
 マスクや注射なんか捨てて、早く元気を取り戻して動き出そう。みんな御幸運を!
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【979】バチあたりな使い捨てタイムマシンの焼却場 [ビジネス]

 この時節ゆえ、やはり広島と長崎のハナシをしておきましょうか。
 そう、昭和20(1945)年8月6日ウラン原爆が広島に、8月9日プルトニウム原爆が長崎に投下された。
 北米が日本に原爆を投下した理由には複数かつ諸説が語られているが、この3日差の2件を異なる2種類で実行していることから、その現実的な破壊力を実験確認する目的は確実にあったんだろうな。戦争であったがゆえ実現した人類の貴重な知見である。

 それまで質量保存則が、森羅万象この世のすべてを司る至上の物理法則のひとつとして根幹に据えられていた。『ある』モノは『ある』、細分化や化学変化で触われなくなろうが目視できなくなろうが『ある』のであって、消えてなくなったりはしない。『ない』なら『ない』のであり、そこに何かが突然出現し『ある』ことにはならない。
 『質量』なる物理量がその絶対性の定量概念であり、具体的には天秤をもって、もう一方の皿に乗せた分銅いくつの質量と釣り合うのかで判明する。そう、あの原始的な測器で知る数値がガチでそれだ。だから精密天秤という凄い測定器がある。
 『質量』は煮ても焼いても増減することはない。御存知これが質量保存則である。

 私ごときのアタマでは、そもそも何故その絶対普遍性に疑問を持ち更なる解明を志すような思考展開に到ったのかが想像もつかないのだが、ともかく『質量はエネルギーに変わり得る』つまり『存在は熱に換わる』とアインシュタイン先生が思いついて、それが実証されたのが原子爆弾ということになっている【311】【353】
 76年前にもうこんな理論が確立され、実用化技術にまで到達していたというのは実に驚くべき史実だ。

 高校時代に物理と数学の両方を教えてくれていた先生がいて、当時『光子の裁判』という推理小説があってそれを読んでいる最中だとかで、雑談がてら我々に紹介してくれたのを思い出す。
 詳細は忘れた…というか最初から聞いてないはずだが、要は殺人事件だか何だかで、光子(みつこ)さんなる人物が、自身の実体をエネルギー波に変換してドアの隙間を通過し、その先で再び実体ある人間の姿に戻って…とか何とか、そんな内容だったと思う。
 面白いのかどうなのか未だによく判らず、とにかく私は自分で読まないまま今日まで来たのだけれど、つまり『質量とエネルギーが可換である』とは、相当語弊がありそうだがこういうことっぽいとハナシ半分に御理解いただきたい。しかしそんな穏やかなエネルギーで済むのだろうか。

 例えばタイムマシンで別の時代の空間に飛び込もうとすると、ちょうど自分が収まる立体形状のところをまずきっちり真空にしてからでないと、元々そこにあった物体を椅子取り競争状態で押しのけることになってしまう。元いた物質と飛び込んでいく自分と二重に存在する訳にも行かないのだが、有難いことにどちらか一方が質量体をやめてエネルギーに変わることにして、その世界の空中に散っていくという成立解があるっちゃある…のかな。

 どうやって勝率100%を確保するのか難しいところだが、首尾よく自分が勝ち残ったとしても打ち負かした質量が原爆の原理レベルでエネルギーになる訳だから、出先の時空間でいきなり出遭うそのシチュエーションをどうさばくかが大問題である。
 もっとも今では『モノが存在する』という事象に対して、『モノに質量を与える素粒子』が独立して別にあって、わざわざにそれが絡んで、ようやく『質量を持ったモノが存在する』という概念が完成するということになっていたと思う。うむう、だとすると、まだ何とかできる逃げ道は探せそうか。
 ともあれ、こういうワケ解らんことを考えるにも大体どのくらい凄いレベルのエネルギーなのか、原爆が残した事実についていろいろ知っておいて損は無い。尊い引き換えには毎年深い感謝を改めよう。

 さて、せっかくの盆休みのこういう話題をくだらない方向には振りたくないのだが、古電球が長崎の式典に遅刻したのだそうだ。
 いや、立場からして古電球が自分で時計を見ながら着席の瞬間を決めている訳がないので、正しくは『内部関係者に遅刻させられた』とすべきだろう。着席の瞬間を決めているのは側近の役人どもだから、要はこいつらの結託により『古電球は見せしめに処刑された』ということだ。

 役人組織にしてみれば、自分らが上級国民の身分を得て下民を見下し強権的にこき使いながらラクしてトクする目的があり、その階級社会の構築を国家規約に書き落とさせるルール整備の担当にあたるのが与党の国会議員どもである。
 『将来の社会科の教科書に載る改憲マン』を夢見て自動運転で踊り狂ってくれた世襲のガキに比べれば、職務ポストのネームバリュー以外に特段の執着心の原動力がない古電球は、よっぽど押しが弱く仕事のできないクズ担当ってことで、要は役人組織から『いい加減、他にすげ換えろ』と脅しがかかったということなんだろうな。
 日本社会が気にしておくべき現実として、重要な式典の進行を公務として行うにあたり、こんな嫌がらせデモンストレーションの破壊工作が実現してしまうということは、式典に関わる役人どもがそれを役所仕事として組織的にやっているという事実である。

 内部の示し合わせで決まる組織の自我には、誰も逆らえないと述べた。
 どこに何の品行方正な決まりが確定していようが、世間一般がどんな公明正大な通念で動いていようが、その組織の中では無力だ。その組織の自我で全てが動く。
 本来なら国家の重要な意思決定の総責任者として、丁重かつ正確に式典参加してもらわなければならないはずの内閣総理大臣も、『ただの使えない無能』とされれば、役人組織の分業により公衆の面前で貶められ晒されるということである。
 国家社会の中にあって、役人組織がこれほど狂暴・凶悪な性格をもって強権を主張してしまう理由は何なのだろうか?

 全員で成す1億2千万人母集団に本気で睨まれ嫌われたら、どんな部分集合もそこでは生きて暮らせない。国民に共感を訴えて票を集め当選してくる議員が作る政党組織は、国民に嫌われる訳にはいかないので、元々は凶悪化すると社会的生命を失う運命にある…という歯止めが掛かっている。
 これに対して、一定の試験をパスすれば社会的生命が永久保証されてしまう公務員が成す役所は決定的に事情が違う。人さまの好意・厚意に訴えかけずに人の世の居場所が確保できてしまう社会構造の欠陥部位、ここに日本社会の運営がここまで停滞しこじれる一大要因があるのだと思う。修正が必要だ。

 おっとっとイカン、今の時期は『それでも戦争の心配のない今日の平和な日本国を喜び、その過程にいてくれた仲間たちに心から感謝する』と決めていたはずなのに。
 当時のモノホンの現実として、いきなり日常の街の上空で核分裂反応が起きて、何もかもが焼き尽くされた。完膚なきまでに叩きのめされた広島と長崎の人間の活動は、その理不尽な不毛の焼け野原を起点として今日の景色を再構築したのである。これもまた現実だ。
 いま日本国は、戦争にも見舞われず戦闘や空爆で死傷した人々もいないのに、何故こんなことになっているのだろうか。その歴史を風化させず考え直すための催しで、何故こんな恩知らずで恥の無い幼稚な不手際が公務にからんで起こってしまうのだろうか。

 表に出てマスクなんか投げ捨てて、今の日本社会の現実の空気を直接いっぱいに吸い込んで考えれば解るかも知れない。日本国は原因があって傷んでいるのだが、その原因たる敵はどこにいるのだろうか。
 しないでいい後悔は先に切り捨てるのが効率的だ。では御先祖様ともども御幸運を!
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【978】緊張解く夏、日本の夏 [ビジネス]

 あれ?五輪てもう終わりなんだっけ。まだパラがあるとは言え、こんなもん?
 状況が状況だけに冷静に会期を感じられるんだけど、これって盛大な国際規模の大会だからと精一杯の超豪華条件付きで準備枠500億円MAXだろ、どう考えても【384】

 まあチマタはお盆休みで人出も戻りつつあるし、イイ感じではないだろうか。
 まずはこの休みが明ける頃、次いで暑さがひと段落してくる頃、『まだマスクなんかやってんのアンタ?』ぐらいにはなっていると良いんだけどな。
 あながちただの遠い想像でもなく、社会組織内の共鳴は拡がるときには一気に拡がるから、1ヶ月後あたりにこれが現実になっている可能性は普通にある。できる人から順番に、真夏のマスク我慢大会なんかやめる決心を固めていくのがよろしい。ナニがどう役立ってるのか説明もつけられないモノを、散々な面倒を負担しながら毎日自腹で付き合ってくれる『いい人』が多すぎるから、それに付け込んでインチキ商売やるようなポンコツ会社も出てきてしまうのである。でも騙される『いい人』が悪いよ【856】【880】

 で、このほど前々からタイミングを逃していて、実に1年半以上にもわたってだらだら続いているこの非日常モードがいよいよ次のフェーズに転がり去ってしまう前に一度やっておきたかったトピックを消化しておこう。いわゆる『オンライン会議』『リモート会合』のハナシだ。

 かつてなら職場の大部屋に数人ないしひと声数十人が一堂に会して、対面コミュニケーションで相互に思惑を伝え合い、その集団の場でお互い共有する認識や思考というものをひとつまとめ上げて、そこにいた連中で頷き合ってまた個々の持ち場に戻っていく…という業態で『会議』なるものが行われていた。
 これがパソコンのディスプレイ上に出席者の面々がずらり並ぶ通信画面と、複数名の同時重複クロストークが可能な音声通話に代わったワケだ。

 そりゃあもう、何日も前からカレンダー上で狙いを定めてスケジュールを合わせ込み、身支度整えて現地に出かける手間や交通費の散財からも解放され、便利で効率的ではある。お陰で公共交通機関が大きく客を減らしてしまい、少なくとも一定数は二度と返って来ない客層があることを確信して、旅客移動に関わるビジネスモデルが根底から結構な大変革を余儀なくされる時代となっている。
 採算割れしたのだろう、乗りたい路線のダイヤがすっかすかに間引きされていたりして、そうなるとやたら早朝に出発して途中で長い乗り換え待ちが必要になったりもして、皮肉にも昔に比べて実移動にかかる時間効率がどえらく落ちていたりする。
 ダメ押しには、ちょっと時間つぶしに何か買おうにも、すっかり商売にならなくなったと見えて駅のコンビニ売店が撤退してしまっていたり。接続待ち客の増加による売り上げ増より、そもそもの路線利用客の減少の方が効いちまったってことなんだろうな。

 もちろん『会議』名目で人が集まるとはいえ、その場に計画された情報インタラクションとして対面コミュニケーションで済ませられるやりとり以外に、雑談だったり会食だったり、書類や現金や物品の手渡しだったり、いろんなモノ・コト系の進展がヒト対ヒトの接触機会にはあったりもして、そういう多機能性の『会議』は最終的にかつての開催形式に戻っていくことと思われる。
 反面、特段に込み入った質疑応答も発生しない講演など、予定された情報流通の計画的処理みたいな企画はオンライン開催形式が定着すると予想されるのだが、今回話題にしたいのはこのオンライン定着ゾーンの行方についてである。

 端的に、常識的な通信回線容量が備わっている限り、この地球上のどこであっても、ほとんど一律の料金体系でオンライン会合の一員に加わることが可能な時代だ。そのオンライン会合の開催通知の掲示もまた、セキュリティ管理に厳しい特別なサイトででもないのなら、不特定多数の大勢の人々の目に24時間いつでも留まる。
 つまり気を付けておかないと『こんなオンライン会合やるよー!』と開催通知を出したら、まあ常識的に面白そうな内容が読み取れた瞬間、どこの誰からでも参加申請が飛び込んで来得るはずなのだ。
 別にインターネット空間全域を相手に有名タレントの辻説法…みたいな一般通用性まで考える必要は無く、何かの愛好家同士の連絡網だとか、有志で組んだ業界コミュニティ通信だとか、今どき誰でもふたつみっつは首を突込んでいる、その程度のよくある情報交換スペースでの感覚を思い出していただきたい。

 私の印象として、総じて、それまでよく知る者同士の馴れ合いルールのような不文律で運用されていた仲良し会合が、オンライン化と共に、オンライン化効果により、一気にそのローカル規律を心得ない余所者の外部侵入者に踏み込まれて困っちゃいました…というトラブル形態は、見たことがないのである。

 むしろ、コロナ騒ぎなんぞが始まる以前に、移動時間と交通費かけてわざわざ出向いて来て、何がどこまで掛け替えのない対面コミュニケーションなのかしみじみと意識することもなく、『ここでのお付き合いはこんなもんだ』みたいに半ば習慣として気楽に集まっていた面々が、そのまま小ぢんまりとオンラインに持ち越された感が強い。
 いや、そのささやかな輪を母数として、オンライン化が引き算勘定で働いてしまい『以前より参加する価値が感じられなくなった』と、足が遠のく…じゃないな、回線接続が疎遠になってしまうケースの方が印象に強いような気がする。
 これ、例えばちょっとしたカルチャーセンターの自己啓発あるいは趣味教室で『コロナ対応によりやむなくオンライン化したところ、時間や交通費が浮いてラクになるはずなのに生徒が減ってしまった』という業績不振に陥る可能性を感じるし、カルチャーセンターならまだしも、複数拠点間を日常的に行き来していた営業職が業務モチベーションを落とすようなことにでもなったら被害は甚大ではないだろうか。

 実は1件だけオンライン化により理屈通り集客力が高まり、規模拡大に繋がったとも見受ける講演企画を知っていて、同じ『会議』『会合』でもこの違いの決定的要因となっているファクターは何なのか、今も考察中である。うまく方法論式に整理できて、オンライン化によるメリットが期待できる会合を的確に見分け、効果的に工数と交通費を削減するような判定法が見つけられると良いのだが。

 何より公共交通機関は、設備や人員を含めてもの凄い規模の組織を維持できないと、倒産するか・税金資本を名目に日本社会の不良債権化するかの道しかなく、どっちにしても当該地域の人々の普段からの暮らしやすさを大きく損なう。そして大勢に必要とされながらも、再活性化が果てしなく重たく難しい。
 現時点の漠然とした直感だが、いまオンライン化されている会合の相当数が結局は緊急避難的であり、いずれは人の実移動がかなり戻ってくるのではないかと思っている。早く交通インフラを疲弊状態から解放してあげないと、結局苦労するのは日本社会に暮らす我々なのだ。だから。

 この夏は、みんなで普通に暮らそうと言っている。
 現実以外にもっとよっぽど大事なコトがあるらしい『まだやっていたい』連中のことは、もういいんじゃないだろうか。日本社会の側から何を話しかけても、どうせ日本語は通じない。時間の無駄だ。
 こういうのはみんなで協力して終わらせないと、自動的には終わらないだろう。みんな現実の日本列島に暮らす、1億2千万人組織の日本人でしょ?
 仲間意識も言葉も響かない通じない、日本国組織の外から『他の意識体系』の思惑で永久に絡んでくる連中を相手にするお人好しには一段落つけないと、後が大変ですぞ。ではごゆっくり、グッドラック!
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【977】ささやかな自己主張のイチ抜け布石 [ビジネス]

 さすがに夏だけあって、しっかりと暑い。これで良いのだ。
 幸いにも今のところ摘発を喰らったことはないが、『うわ~あっつい暑い!』の昼下がりにこそっと缶ビールを空ける社会の片隅の日陰、この季節ならではの幸福を感じる大好きな瞬間である。

 街のあちこちでアルミ缶を拾い集めている人の姿は、今や場所を選ばずオールシーズン珍しくなくなった。廃メタルの中でも引き取り価格の高いアルミ缶は生活費を稼ぐのに効率が良いのだという。こっちが缶を空っぽにするタイミングで見かけた時には『お兄さん、アルミ缶いる?』と声を掛けると、喜んで受け取ってくれる。
 ついこないだ、そんなアルミ缶収集のお兄さんを見て驚いた。せいぜい数日前まで蝶ネクタイでもしてシェーカー振ってたような、いかにもさっぱりした風体が作業着に身を包んだ20代なのである。
 その経緯は説明不要、数日前まで都会の雑居ビルの一角でバーテンでもやっていて、それが突然に店を閉められ生活が立ち行かなくなったから…で確実に95点ぐらいは当たっているだろう。まだ住処を追われていないので、風呂に入って髭も剃れてるんだな。

 いま飲食店を締め出された呑兵衛たちが街角に放置した路上酒盛りの跡を目にすることが増えたけれど、ビールや酎ハイの空き缶だけでなく、洋酒や焼酎などフルサイズのガラス瓶が結構な分量で混じっているのには驚く。ナンタラ宣言だのウンタラ措置だのをやっていなければ、みんな普通に一人何千円か払い、お店に利益をもたらしながら飲んでいたものだ。そこでは空調がまわって電気代が支払われ、カラオケなんかの付帯的な娯楽も大いに回転していたことだろう。

 今さら『まだ続けるのか?』とは言わない。
 日本国民が、普通に帰省して、開いてるお店で普通に夏を過ごせば良かろう。
 まずマスクなんか取りなさいよ、この暑いのに。

 つくづく最近いるのかいないのか判らんのだけれど、何だか古電球が『コロナ死ぬ死ぬ』は自宅でやることにしようと方針転換の声明を出したそうな。おやまあ、もし本当ならそれって悪くないんじゃないか?

 そもそもから『日本人は新型コロナに感染しても大ゴトになりにくい』という事実が確認されているのだから、まず大ゴトにならないうちは自宅で過ごした方が、本人の生活利便としても圧倒的にラクだ。結局は殆どがそれで済んでしまう。
 ふと苦痛を感じてあっという間に救援も呼べず倒れて、救急車の到着も待たずにコト切れてしまい、そこのおうちは死病の館で御近所一帯は大パニック…なんて展開も、もう考える時期はとっくの昔に終わった。

 随分前から思っているのだが、少々旅行と飲み会やめた程度の社会操作しかできてないまま、もう1年半以上も経っているという状況で、『新規感染者』って実質どういうことなのだろうか?
 例えば1億2千万人のうち1億人が既に新型コロナを体験済だとして、残り2千万人の未感染者を大事にコロナ隔離特別管理区域に取り置きしておいて、それを母数にした『新規感染者』ってことなら名目通りのガチ新規にはなるんだろうけど、そういう測定値じゃないよな絶対。二度目かかっちゃいましたとかいうのも、ちょくちょくいたんじゃなかったっけ?

 もう国民全員ひと回り以上は軽々行ってるはずってことで、それでも『コロナ死ぬ死ぬ』を言いたいがために、最初は『5W1H』みたいな新型の形式名称が乱発され、それだとあちこちで誤用されナニ型がどれだけ危ないんだとか設定が混乱してしまい、世論吹聴を統一できず『コロナ死ぬ死ぬ』キャンペーンが成立しなくなってきた。コロナは高額経費の公共事業として強制的な対応が必要な『死病』でなくてはならないのに。
 だから『アルファ』『ベータ』『ガンマ』とみっつぐらいは既に進んでたことにしておいて、じゃあ『デルタ』だってことにしてカナ書き一本化を図ったと。恐らくはこんなところじゃないのかねえ。

 現時点で何ともない人は、このまま様子を見ているだけで断然勝率が高い。
 もちろん発症する確率も、重症化する確率も完全にゼロだとは言わない。
 おやと気付いてから初動を始めて十分間に合うから、気は付けておこう。それだけ。

 あなたの職場も大学も、おかしな注射の会場設営まではお上の無言の強制に逆らえずやっちまっていたとして、あなたがた御本人には雇用や単位と絶対に引き換えない旨をしっかり通知しているだろうか?まかり間違ってもそんな誤解をされないよう、徹底して手を尽くす姿勢が見えているだろうか?
 こんな時に自分が信じて帰属している組織体が、どのくらい自分ちの構成員を大事にしているかの真実が見えたりする。だからこそ、別におセンチ系のココロのキズナ型の仲間意識ではなく、フェアな労働力と待遇の交換条件のもと事業が順調にまわるよう、サイエンスとメンタルの両方から気を遣うのが優秀なマネージャーだ。

 まあいいや、『コロナ死ぬ死ぬ』を自宅療養に方針転換するのは悪くないというハナシに戻ろう。
 要は、日本国民が妙な注射も打たず、ナンタラ宣言・ウンタラ措置にも従わなくなり、医療崩壊とやらも他人事にして関心を失くし、もちろん本人はそのまま発症もせず元気に、元通りの稼働に戻っていく流れがついてきたということなのである。
 そろそろみんな遊びに出て来てるし、呑み屋も順番に店を開けるようになるだろう。それが自然だし、それでいい。

 もう今の若い人たちは随分と目にすることも減ったと思うが、久し振りに昭和ダメオヤジの生態を解説しておこう【345】
 まあ自分がエラいつもりだけで迷惑な自分勝手を押し通そうとする無能人種なワケだが、当然それなりにコトが行き詰ってにっちもさっちも行かなくなるケースというのは一定確率で発生する。そして自分の非を認めて謝る態度も見せなければ、誤魔化しながらでも現実的な修正案に持ち込む知恵も無い。どんどん八方塞がりになって事態が硬直するのだが、そんな時ダメオヤジはどうするのか?

 …どうもしない。
 完全に石のように沈黙し、僅かでも自分と同じメンタリティで自分に逃げ道を許してくれそうな年恰好の人間が、『自分の顔を立てて』すがりつくきっかけを投じてくれるのを待つ。それまでは、月が地球に落ちてきても、何も言わない何もしないで世界が終わるテイで周囲とのコミュニケーションを鉄壁で閉ざし続ける。
 『頑として、自分の言い分は変えない』…この主張こそ全てだ。宇宙が崩壊してでも言い張って貫き通せば『勝ち』、というかせめて『負けなかった』という事実を自分に言い聞かせることができて、それこそがジブン小宇宙の箱庭帝国の支配権を守り抜いて自己満足できる、最後の砦なのである【517】

 …と、言うことは。
 『政府の意向により』患者の療養過程を医療機関というオオヤケ管理のもとから外して、『下民の勝手が通用する自宅に移す』とする意思表明が何を意味するかはお判りだろう。
 もう大衆の潮流には抗えないと観念し、今のうちに上から目線を決め込んで、支配階級からの指示命令系のカタチを維持しての情報発信を装った。そういうことだろう。
 今そうしておかないと下民のやりたい放題に寄り切られて『負ける』からであり、故に絶対にこの自宅療養方針は撤回しないはずだ。

 面白いのは、こうして政府がとっととケツまくって態度を翻したのに対して、国会議員どもが悲痛なまでに撤回を要求する構図になっている事実だ。『コロナ死ぬ死ぬ』にまつわる利権商売への執着は、役人よりも議員の方に顕著だということになるのだが、はてさて。
 ともあれ日本国組織の自我を前に、無駄な抵抗が無力を自覚して撤退にかかり始めたのだし、この夏は日本社会の稼働を普通に戻す節目にしましょうぜ。暑さの事故にはどうか気を付けて、では楽しい夏をグッドラック!
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【976】コスパMAXの感染症脳科学療法 [ビジネス]

 やれやれ『やっぱり』宣言しちまったか。しょうがない、つくづく学習しないねえ。
 まあ日本国組織として向かうべき方向には結局向かうから構わないんだけどさ。

 とにかく『コロナ死ぬ死ぬ』で騒ぐ手が尽きてきて、今ごろになって地域隔離の強制封鎖、いわゆる『ロックダウン』という政治家マイブーム痴語になっているアレだが、こんなものまで蒸し返そうとするバカが出て来るのには呆れる。
 まあ自衛隊を出動させ都会の人混みめがけて銃の乱射でもしないと、それっぽいデモンストレーション効果は期待できないと思うけど。これ以上考えるのも時間の無駄なので、この件はこれでオシマイ。

 致死性感染症の現実について、ちょっと整理しておこう。
 昨春、日本本土への新型コロナ・ウィルス上陸ポイントとして、日本じゅうの注目を集めたのが横浜港のクルーズ船だった。
 あの時はまだ感染プロセスも発症経過も対処法も不明だったため、まずコロナ肺炎の発症をもって本人の感染が発覚する。手探りで思いつく限りの治療を施されながらも悪化し苦しむ患者がそこにいるのだが、実は時間を遡って本人はそれ以前のどこかでウィルスに物理的接点をもって感染しているのであり、その経路を辿れば他にもウィルス保有者は必ずいる。まずそれを特定せねばならなかった。
 実際そのロジックで、まず乗員乗客を船室に閉じ込めて移動させないようにし、その時点で船内での人と人との接触を追跡調査したのだし、それでも調査が間に合わなかったり調査の網に掛かり切らなかったウィルス感染は当然あったと見え、新たな感染発症者が一人また一人と散発する展開が避けられなかった。

 あれこそ『人の動きと接触を一斉停止させて様子を見る』という事であり、たかが3千数百人スケールで、あれだけ周囲から限られ全てを視野に入れられる空間でさえ、ウィルス感染現象に完全なストップモーションをかけ静止させることはできなかったのである。
 事後に外野視点で抜け漏れだらけを指摘されていた船内救急医療の現場写真だが、普通の旅客船内で調達できるありもん人材・ありもん物資では、メいっぱい頑張ってあれが現実の限界ということなのだ。

 ここで恒例の横道にそれる。我々世代が小学校時代の高度経済成長期、まだ『幽霊船』は結構な一般性をもって流通するオカルトのイチ常識アイテムであった。『UFO』『心霊写真』あたりと割と同じ感覚で、漫画本やテレビに『ああ、アレね』と昔々のおとぎ話でもなく説明不要で身近に登場していたのである。

 外洋を航海している船が濃霧あるいは荒天に遭遇し、遭難リスクの緊張感ただよう危険な局面の真最中、突如視界に幽霊船がその姿を現すのだ。
 大抵は古い帆船であり、朽ちてあちこち折損したマストにボロ雑巾のような帆の断片が無数に垂れ下がっており、こちらが汽笛を鳴らしても、並走して至近距離で呼びかけても人の気配は無く、そのまま霧や嵐の中へ消えていく…とまあ、これが定番の登場パターンなんだよな。

 実は外洋航行船というのは、広大な海原に乗員乗客のコミュニティが孤立しており、飲料水や食料なども積載量ぶんしかないという、非常にシビアかつリスキーな環境で運用される社会組織なのだ。閉所ストレスや目的地到達までの不安で、暴動が起こるのが一番怖いのだという【664】
 大海原に乗り出した先で、船内で伝染病が出たりするともちろん一瞬で蔓延する。例えば欧米や日中韓などの中・高緯度から出発し、赤道付近の低緯度を通過中に熱帯性の風土病が鳥や虫などにより持ち込まれるリスクは普通にある。これがいわゆる死病だった場合、孤立無援で重症者や遺体の処置をしつつ航海を続けるしかない。
 人類文明として医療技術がまずまず追い付いていても、外洋航行船ではそれが自由に使える現実の手段として存在しない訳で、乗員乗客が絶滅してしまえばその結末は『幽霊船』となるのは想像に難くない。現代式の機械文明が普及していたはずの高度経済成長期に、まだポピュラーな怪談ネタとして幽霊船が盛んに語られていたのは、当時にして感染性病原体の船内流行というリスクがまだまだ身近だったからではないだろうか。
 …ハイ、横道終了。

 ともあれ『社会空間を封鎖して外界との接触を絶つ』という操作を行う理由は、その空間が十分コンパクトで、感染症の完全撲滅を成し遂げるにあたり現実解が成立する見込みがあるからだ。かのクルーズ船も、乗員乗客の直近の処置だけ決めて全員降ろしたら、沖に曳航して火を放ち燃やし切った後に沈めてしまう…という選択肢もあながち無かった訳ではないのではないかと思う。
 犠牲者の遺体は桟橋に特設した火葬場で現地焼却し、罹患者に上陸は叶わず、もっと医療対応機能の整った病院船にでも乗り換えさせたら、そこから当面の次の対応を考えるしかない。
 致死性の病原体感染症というのは、どこでどう感染したのか・するのか目視確認のしようが無いため、流行した空間と社会組織を丸ごと切り取って、その中だけで駆除・撲滅を完璧に尽くすというコンセプトだ。裏返せば、その徹底がガチ100%保証できないならば最終的に徒労と化すのは時間の問題だから、隔離操作などやる意味は無い。

 では質問。
 『緊急事態宣言』とやらを、どっかの誰かが言いました。強気で『発令』だってさ。
 これって、日本社会のウィルス感染事情に何の実効作用があるのだろうか?
 アルコール飲料を販売しちゃいけなくて、屋外で青空のもと飲んでもダメ。なんで?
 『風が吹けば桶屋が儲かる』じゃないけど、因果が不透明すぎて理解できんよ。

 1年ちょっと前、確かに死に到る可能性を考えねばならないような感染性病原体が流行したクルーズ船の処置と、殆ど命の心配をする必要も無くなった今、世界的に見ても致死率の低い日本人1億2千万人が行き交う38万平方キロメートルの日本列島の処置を、もう少し現実問題としてマジメに対比させ考えるべきである。

 ウィルスは生命体でなく、ただの生体情報だという考え方は以前紹介した【228】
 『情報の記載内容』がその本質であり、例えば記録媒体としては光学ディスクであろうがUSBメモリーであろうが、はたまた回線を通して直接プログラム文字列の姿で受信トレイに落ちて来る電子メールのテキストであろうが、そいつが巻き起こす病理特性に違いは無い。情報の記載内容にやられてパソコンが狂う。
 一方この日本社会の空間で、呼吸と共に吸い込んだり人や物との接触を介して物理的に体内に入り込んでくる今般のウィルスもDNA記載内容がその本質であり、症状の原因である。
 逆に何かビョーキの症状となる異常作動を引き起こすような、原因入力の内容さえ備わっているのであれば、目や耳からナンタラ宣言・ウンタラ措置などと日本語入力してきて人間の思考機能に憑りつく『コロナ死ぬ死ぬ』も、感染性病原体の本質としてはウィルスと等価だ。
 耐性の無い未感染者に次々と乗り移り、憑りつかれた人間は正常作動を狂わされて、現実を顧みない見るも無残なビョーキ言動に陥る。イヤミで揶揄しているつもりはなく真剣な医学・心理学ネタとして御理解いただきたい。

 健康を損なった時、うろたえて的外れな修正操作に凝り出すと、副作用の複合連鎖という底無し沼が待っている。即死するのでもなければまず余計な小細工は全てやめて、よく食ってよく寝て、思い切りフッツ~うにチカラを抜くところから自然回復の第一歩が始まる。というか、回復過程のゴールまでそれだ。
 敢えてどっちとは言わんが今般の感染症、症状の長引く重症者がまだ多くて、なかなか治り切らない日本人組織だが、おかしなクスリなんぞ必要ない。健康は、喰らうも作り込むも維持するも本人たった一人の問題、よって『津波てんでんこ』で治そうと思ったアナタから、ココロ持ちひとつの身ひとつで治していける。

 そして健康な日本人が過半数に達した時、日本国組織は元通りの稼働を取り戻す。皆さまお大事に、では御幸運を!
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