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【1187】モノクロの懐かしトラウマ再生企画 [ビジネス]

 台風6号による大雨で、長崎の原爆の日の式典が屋内開催となったそうな。
 次の台風7号が関東に接近してきそうな予報も出ているが、コイツもかなりの迷走っぷりなので目が離せない。あれこれ気を揉んだものの盆休みへの影響が結局大したことなかった…で落ち着くと良いのだが。
 花火大会や野外フェスなんかを運営してる人たちは気が気じゃないだろう。

 確かに私が子供あるいは学生だった時代、夏休み期間中に台風で大型イベントが中止になるケースは、ひと声感覚としてもっと稀だったように思う。災難を喰らったとして夕立に降られてずぶ濡れだとか、あとはたまに落雷による事故が報じられていた程度かなあ。今や夏の台風はフツーだもんな。
 小学生時代の記憶で、ウチがまだ白黒テレビだった気がするので1970年代の前半ということになるのだが、NHKが毎週土曜日のお昼に『台風と近畿』という番組をやっていた。せいぜい10分か15分くらいの短い番組でいつも観ていたのだが、ネットにあまり情報が無くて寂しい。
 当時の小学校の土曜時間割は午前中の4限までで給食はナシ、確か12時ちょうどか12時20分あたりで授業が終わるや否やすぐに帰宅していた。仲のいい友達とだらだら寄り道や回り道もして、それで毎週間に合って観れていたから『台風と近畿』はたぶん12時40分とか45分のスタートだったのでは。

 視聴者に台風への備えを促す目的の番組だった訳だが、当時のテレビは、特にNHKは、こういう記録映像番組は、国民への業務連絡・事務通達として機能する飾り気ない情報コンテンツという常識的概念があったため、華やかさもなければフレンドリーでもない淡々冷徹とした造りが印象的だ。
 今でもソラで歌えるオープニングのテーマ音楽は、なるほど暗く激しく荒れ狂う雨風が迫ってくるかのような、何とも不快な緊迫感を呼び起こすもので、あれはあれで台風への注意喚起のひとつの手段として十分効くんじゃないかと回想する。
 正確なところは失念してしまったのだが『風の被害が大きかった例』『洪水が酷かった例』『紀伊水道を通ってきた例』『迷走した例』などなど毎回着目点を設定し、『いついつの台風何号がこれでした』『室戸台風、第二室戸台風がこれにあたります』みたいなナレーションとともに日本列島に、うにゅうううううっ…と通過経路の矢印が伸びて図示される。
 これに続けて暴風雨や被災状況の記録映像がついてくるのだが、何しろBGMも無いままに淡々と語られるナレーションと、実にアナログ式に手作業アニメで矢印が伸びていく様子が『見る者に恐怖感を呼び起こすヒューマンな真剣さ』の効果を出しており、子供心にこの怪談でもないビミョーな怖いもの見たさで楽しみに(?)視聴していたものである。そうだな、突然割って入る緊急地震速報や空襲警報の画面と音声とか、PL対応で製品回収を案内する深夜CMとか、アレ系の心象だったのだ。

 あのテーマ音楽をまた聴きたい、あの映像をまた観たいと思って検索するのだが、今のところヒットしたことがない。どんな大金持ちのお宅にもビデオデッキどころかテープレコーダーさえ無かった時代だからなあ…

 いま時々思うのは『台風と近畿』を再放送できないかということである。
 あれを観たら、意外と災害の注意喚起時に流される最新流儀の防災気象情報などに対する視聴者の感度が上がるのではないだろうか。
 怖いんだもん。でも何となく観たいんだもん。
 それで観たら観たで、少なくともそのぶんの知識は身に付くから、いざその時に国民が避難行動を起動する確率として落ちる方向には行かないはずだ。試してみる価値はあると思うのだが。

 もちろん『台風銀座』『台風シーズン』のような常識が普通に通用していた時代に、それを前提にした内容が組まれていたりもするのだろうが、視聴者の情報力もアップしている今どき、手間もコストも省いて余計な解説も付けずに、初回放送日をテロップで出しっぱにするだけで十分ではないかと思う。
 短時間の番組だしスキマ時間で十分、朝ドラみたく一日に何回か流すにしても大規模なスケジュール改変は必要ない。素朴なアナログ技術で組まれた必要最低限の質素なドキュメンタリー内容ゆえ、素直な興味を持って大勢の視聴者が集まってくるかも知れない。何度繰り返し流してもあんまり嫌がられなさそうにも思う。

 避難指示や避難勧告のメディア配信に対して、フェイクの疑いなど全く無いと判っているのに、住民が避難行動になかなか腰を上げない問題は昔からよく語られる。
 よく『自分だけは大丈夫だと思っている』『何だかんだで無事に済むと思っている』などのヒトの心理特性だとも言われていて、私もそれを否定するつもりはない。けれど『大丈夫だと思う』『無事だと思う』と書き落とす日本語よりは、もっと情報生命体の原理的に『怖い、危ない』の逃避衝動のスイッチが入らないからだと私は考えている。
 『それ一本に絞った簡素な真剣さ』の空気は、生物のROM制御領域として『怖さと同質の鬼気迫る緊張感』を起動するんじゃないかなあ。
 正常性バイアスなどと名付けて結論付けてみても、実際にそれを制御できなければどうしようもない。むしろ現象メカニズムを完全に解明できなくとも、何か制御に効きそうな操作を模索する視点での実用トライアルが必要なのだと思う。

 その瞬間マスメディアで流す映像や音声の情報コンテンツを少々派手にしたりしつこく頻出させたりしても、その一連の事実を理解する情報処理までは叶いつつ肝心の緊張感ROMが起動せず、ヒトは本能的に『怖い、逃げたい』とは思わない・感じない・反射衝動が起こらない。
 これでいわゆる『空振り』つまり現実の危険が来襲しなかったケースが繰り返されると、思考や理解でとらえられるが故に、派手系アピールの繰り返しには現実性が希薄だという経験的事実の方が、オオカミ少年式に学習されてしまう。逆効果なんだよ。
 ならば何とな~く薄ら寒くなるような関連情報を日常に流行させ、普段から『怖さ入力』の習慣として被災記録の知識を仕込んでみようという作戦だ。
 もし良好な状態で『台風と近畿』のフィルムが残っていたとすると手間もコストもそれほど掛からないだろうから、反応イマイチなら『失敗』判断で引込めて元に戻し、また次を考えれば良いとしてやってみる。いかがでしょうか。

 …と如何にも日本社会の防災をマジメに考察するかのような文章を書きおろしたのだが、私個人の最大の願望は『台風と近畿』をもう一度観たい、あのテーマ音楽を聴きたい、あのソフトなトラウマ快楽を味わいたい、そっちだと白状しておく。てへ。
 予測精度を向上させ、その情報伝達のスピードアップを追求し、視聴者への入力頻度をとにかく上げる。これはこれで正攻法だとは思うが、情報生命体としてのヒトの恐怖感・逃避動機のROM作動プログラムに命中させる視点のアイディアが、ブレークスルーになるんじゃないかなあ。

 今年はあちこち出掛けたい人がたくさんいると思われるが、残念にも悪天候に行き会わせたからといって強引な判断をして、せっかくの休暇に損害を出してしまっては本当に面白くない。
 来年も再来年も夏は来る。無理せず楽しむことを考えよう。のんびりグッドラック!
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