SSブログ

【1094】秋の夜長のピタゴラ協奏曲 [ビジネス]

 英エリザベス女王の国葬まではあんまり荒れたハナシはしないでおこう。

 もう少し『自我』と『主観』と『意識』について考えてみる。
 そこで展開する現実としての『現象』がx-y平面上の出来事だとして、『我思う故に我あり』でz軸の『自我』がポンと立ち、この瞬間任意の上空からx-y平面上にアニメのように繰り広げられる現実を俯瞰する『主観』の概念が成立する【1086】
 ちょうど刻一刻とx-y平面上に形を変える水たまりがあって、z軸上の目の高さからそれを観察して水たまりをよけながら歩くと考えよう。これが『現実』を『主観』で捉えて、瞬間瞬間を場当たり対応の連続として生き抜いていく、反射動作のモデルだ。

 この作業実績が記録され『記憶』ファイルが蓄積されるようになると、次に水たまりの出現しそうな場所を最初からよけて足を踏み出すとか、間違えてハマってもすぐ抜けられそうな方向に次の一歩を出すとか、『記憶』に残っている情報を引張り出して行動判断の前提条件にした上で、現在進行中の『主観』の測定結果に対して、予測を交えつつGO/NO GO判定を繰り返しながら器用に歩けるようになる。  
 これが形成された『記憶』を基盤に、『意識』をもって瞬間瞬間を効率的な行動選択でこなす、思考判断のモデルだ。ただこれは、本人にとっての、自分の立場を描いたモデルであることに注意しよう。

 他人から見れば、全てはこの世で起きている『現象』なのだから、つまり上記は丸ごとx-y平面上の物理的変化に過ぎない。その他人さんからすれば、ナニガシかの測定手段を駆使してそこに起こっている『自我』『主観』『意識』の事実が、測定値の推移として観測できるはずなのである。
 つまり私が今こんな考えを巡らせているという事実は、どこか神経細胞のナンタラ軸索で微電流が走ってウンタラ酵素の化学式に従って電子が授受され、その電位変化により記憶を司るコレコレ細胞素子みたいなやつの初期白紙状態がぴこんと動いて書き込み完了状態に切り換わる…とか、要は『私が考える』という事象も結局のところ、一連のピタゴラ作動として客観的に把握できるはずなのだ。

 逆に、もし何から何まで一切の物理的変化が起こっていないのなら、そこには自我の存在に基づく主観が五感を働かせることもなく、意識が思考を巡らすことも起こっていない。そうでないと困る。

 『御臨終です』と医者がチェックポイントの判定を下しただけで、本人の人格は『うわあああ、やめてくれ。自分はまだ主観も意識もあるのに!』みたいなことになっているかも知れず、でも誰にも生死を見分けられずにそのまま火葬場行きである。コワい。
 いっぽう心臓が止まった人にAEDで蘇生措置をやるのなんかは、物理的再起動の概念として解りやすいのではないだろうか。オモテからガツンと電気的な外力を加えてやれば、一定確率で『自我・主観・記憶という物理現象』が再開できることがあるワケだ。
 劇的な通電により何のデバイスにどういう入力操作が働くのか詳しく解明されていないだけのことで、本人が生きて動いて考えてしゃべる=物理化学のややこしいピタゴラ作動こそが存命の必要十分条件であり、そのメカ構造が腐敗などにより再構築できないような変質の仕方をする前に、とにかく条件が揃えば再起動する時はすると。急げ!
 机を叩いてドミノがまた倒れだしたり、スロープの玉がまた転がり出せば勝ちだ。

 私が饅頭を食うと、咀嚼され胃袋に落ちて消化が始まる。2回に1回は腹の中でそこらに放置したのと同じ末路を辿るとか、そういう不確定性はあり得ない。
 私が机の角に手をぶつけると、私は痛みを感じる。3回に1回は柔らかくてあったかいと感じるとか、5回に1回は他の別人が痛みを感じるとかいう不確定性はあり得ない。
 これらのあらゆる移動速度・通信速度は完全ソリッドにガッチガチ物理的な制約を受けており、だとすると『伝達物質が送信部位から受信部位に移動する』あるいは『生化学変化の化学式が、左辺から右辺へ進行する』などの工程にかかる所要時間は絶対に負からない。
 『微電流が流れて、通信線の両端各々で電荷が増減する』あたりが最速の現象ではなかろうか。脳波みたいに電磁波原理の生体活動の測定手法があるからには、ここまで実際にあるっちゃあるんだろうな。

 何にせよ、膨大な件数の高次連鎖反応が絡んでいて壮大に複雑なものなのだとしても、それはただ物凄く凝っているだけであって、つまるところピタゴラ現象の組み合わせである。裏返せば、どんだけ複雑なピタゴラ装置でも、同じピタゴラ装置に同じ入力をすれば、同じ作動をするはずだ。
 生物が親の生体構造を複製して子孫を残す限りは、キホンこの相似性をもってその種は繁殖する。ということは、キホン同一入力で発現するピタゴラ作動は一律相似形、みんな同じである。

 『主観』なる外界測定とその反射的反応においては、みんな冷たいものに触るとひやっとするし、泣かせの場面を見せられると感涙にむせぶし、心こもった施しには友好的な安心感と恩義の気持ちが湧く。五感の直接検知も高次の心理的感動も、共有する一律一般性は崩れない。
 数十億年の生命の歴史を経てきた人間とは『そんなもの』なのである。ちょうど、あらゆる物体が万有引力の法則通りに引き合うように、時速100キロで1時間進むと1時間後に100キロ先に移動しているように。

 整理すると『自我』『主観』『意識』は非常に複雑で解明を尽くすには困難な事象だが、どうせのどうせはピタゴラ作動に過ぎないのであり、その生化学構造と作動原理の限界は決定的である。そして個体差はあるがキホン一律一般性のものだ。
 今日コンピューターの情報処理は、まだ幾つかの限られたピタゴラ単位アイテムしか実現していないが、所詮はピタゴラなんだから開発者が頑張れば頑張るほど高度進化してくるはずだし、コンピューターに宿る人工知能は次々と人間より高速で正確な『意識』を持つようになってくるだろう。

 皮肉なことに、人間どもが社会組織で『価値アリ』と見込んで実現したがるような目的事象があったとして、人工知能に達成方策を検討させたら『人間が手を出さないコト、人間が消えるコトだ。人間は正解を正解と判定しておきながら、不安定に行動選択を取り違えるからだ』という回答で凌駕されるケースが容易に想定される。
 人工知能の急発達を見越して、その開発や利用に関わる倫理構築とルール制定が必要だとする言論はよく見かけるし、そういうことを言いたい気持ちは解らんでもない。だが、まず正解を正解と認めて意味不明の自爆で失敗しないような『倫理的に優秀な人間』をきちんと選定するところから始めないと、丸々無駄な雑談を永久に繰り返すなりゆきにしかならないことを肝に銘じておくべきだろう。

 素直に正解に従えない『意識』は生物にとって両刃の剣であり、昆虫のみならず地球上で長らく自然に暮らしてきた『情報的に軽量簡素』な生命体は、大脳つまり『記憶』を放棄し『意識』を放棄し、実はその進化の道筋の方が、遥かに効率的に寿命を過ごせているのではないだろうか。人間みたく狂うぐらいなら余分にでかい大脳なんか要らない、その方が幸せに繫栄できるということなのかも知れない。

 虫の声でも聴きながら考えてみますか。
 彼等は寿命期間をまっすぐ素朴に生き抜いて、次世代繁栄や環境保全のSDGsを叶えている。彼等が奏でるのは、その実現のために最適な音声情報なのだ。
 今日あなたが交わした言語情報とどっちが有効ですか?耳を澄ましてグッドラック!
nice!(8)  コメント(0) 

nice! 8

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。