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【1011】親身な読心術で始めるメディカル言語学 [ビジネス]

 うひゃ~、やっぱ脱ステの回は閲覧数の反応が凄いや。皆さまお大事に。
 ええ、私はきっちり9年前にステロイド外用薬の使用をぴたりと断絶し、そのあと爪の先ほどもステロイドは使わず今日の成果まで到達した実例である。

 割と最近、確か夏頃のことだったか、どこかのテレビがステロイド離脱の成功事例を紹介したところ、タダゴトでない剣幕で薬剤業界に噛みつかれ『ステロイドは安全な薬です』『脱ステロイドは危険行為です』みたいな訂正フォローを出さされたとか出さされなかったとか、何とも不穏なネット記事を見かけた記憶がある。いや、やめてやめられた人はいてもおかしくないし実際いるだろうに、一体なんでそんな攻撃的な放送内容の否定にまでハナシが拡がるんだよ?
 確かに世間一般人として生きている人がステロイド依存体質に陥ってしまった場合、ただ自己判断に任せて断薬して無事に済むものではない。想定外の酷い目に遭って結局やむを得ずステロイド使用を再開する結末になる方が普通だと思う。だが、それにしても断薬して即死する訳でもないし、そこまでステロイド離脱を事前からタブー視前提に仕向けるのは、いかにも不自然としか言いようがない。

 ともあれ私は9年間断薬しており、あちこち残症状があるにしても、かつて自分がステロイド依存に陥っているとはつゆも思わず『健康だ』と勘違いしていた時代より、総合的に本来の健康状態を取り戻せている。これを標準の人生方針として、今後を生きて行くつもりだ。ここに間違いなく、その一例があるぜ。

 先に前回からの続きを少し走り切っておくと、要は『数々巻き起こる体調の変化に対して、日本語で表せる情報量が全く足りていない』という問題があり、究極的には日本語での伝達をすっとばして人間の感覚世界のアップロード・ダウンロードが実現しない限り、解決の決定打とはなり得ない。
 それどころか、むしろプアな日本語体系に引きずられる形で、個々人の体調の自覚が随分と粗くいい加減なところで投げ出されてしまっているのではないかと思うのだ。

 古今東西『他人の心が読めてしまうとどうなるか』というテーマを描いた創作ストーリーは枚挙に暇がないが、『視界に入った他人の心中が声になって聞こえてくる』という描写があるあるの定番パターンだというところに異論はなかろう。だが果たして、人間とは意識に乗っかってきた対象すべてに対して、いちいち日本語の文章を組んで独りごと風に常時つぶやいているものなのだろうか?
 そもそも自分が普段の生活で目前の現実に出遭い、時に喜怒哀楽の感情も伴いつつそれを受け止めるにあたって、逐一作文しているヒマなんかない。日本語の通信網に乗せて送り出す目的意識がない限り、美味いものは美味い、痛いものは痛いと感じたらそれでオシマイである。

 何か空間を伝播する特別なテレパシー回路が開いて他人の心が読めたとして、今その人の置かれた感覚世界を我が事としてコピー体験するまでが限界のはずであり、だとするとその時点でその人の思考のバックグラウンドとなる過去の人生体験の記録情報がさっぱり白紙なので、おんなじ作文ができるとも到底思えない。ならば相手の記憶領域にまで入り込んでいろいろ読み取り共感するにしても、あまりに時間がかかり過ぎる。
 しっかし、こんだけ相手のことにかまけてたら、自分のことはどうなるんだよ?

 …とまあ、どんどん夢のない殺伐とした考察にハマり込んでいくので、ここらで切り上げておくことにするが、言語というのは大変便利なコミュニケーション・ツールなのだけれど、人間がある対象を意識にとらえたとして、その気を起こして言語化して初めて、社会の人間関係の間に情報として流通するものだということを忘れてはならない。

 少なくとも現時点において、医療現場の問診に使われる日本語はあまりにも語彙が貧弱すぎて、当事者から医者に伝達される情報量が足りていないと思われる問題が一点。
 そしてもうひとつ、日本語社会はその貧弱すぎる語彙ありきで取り合う・取り合わないの反応が決まる、つまり日本語社会の組織の自我にとって、『体調を扱う問題意識』の意識世界の拡がりの果てが、本来の必要レベルよりも随分と貧弱なところで終わっているという問題がある。
 『社会組織の自我』と『そこに暮らす個々人の自我』はフラクタル構造の関係にあるから【9】、今度は気付かぬうち社会風潮に、目に見えない拘束を知らぬ間にかまされる形で、日本語人種の個々人が貧弱な感覚世界と思考力でしか体調管理できなくなっているのではないだろうか。

 心臓疾患なんか、大半の人が胸元を抑えて痛い苦しいの感覚だと思い込んでいるはずだが、実は違うのだ。
 今年早々の検査時点でまだ『右脚ブロック』=右心室の脈動不全が認められていたこの身をもって体験するに、胸よりむしろ背中側の心臓位置だとか、横隔膜つまり胃腸の入ってる空間の左寄り天井だとか、時に左の肩甲骨の裏側を通して肩や鎖骨方面だとかに、現状ではテキスティングで表現する手段の無い『へんてこな感覚』が顕れやすい気がしている。
 いわゆる『放散痛』=真の原因部位よりも周辺の神経で感じられる痛みのことだが、恐らくこれらのことを言っており、しかも心臓からの放散経路はいくつもあるということなのだろう。私はかつて心筋梗塞で友人を一人失っているが【110】【702】、彼なんかもしそこらで目に触れる情報が、もっと詳しく語りかけて、もっと早期に喚起されて、自分の心臓に注意を向けられていたなら、助かったのかも知れない。

 ステロイド離脱の初期は満身創痍となり、この世を生きる時間が凄絶な苦痛一色で埋め尽くされるのだけれど、9年目ともなると『痛い』『痒い』『だるい』あたりのあからさまに不快な異常検知の自覚を伴わないケースが断然に多くなる。
 頭脳労働にしても肉体運動にしても不調があるのを客観的根拠で認識できるものの、主観的感覚で認識する原因として痛くも痒くもないのだ。そして何も考えていなかった頃の過去の自分を振り返って、既にあちこち不調になっていたのに『痛くないから、痒くないから、動いて動けるから健康だ』と思い込んでいた、知らぬが仏の大失態に気付くのである。
 …とここまでの分量を書いて、げげ。
 こっ、これは横道から余談が延びて、やっているうちに元々何の話をするつもりだったか忘れてしまい戻ってこれなくなるパターンになっちゃうかも知れない。既に相当ヤバい雰囲気かも。
 …面白い話題なら、どうせそのうち思い出すだろうと深く悩まないことにするか。

 エイヤと志高く思い立ったはいいが、日本語人種の社会空間で実感を持って共有されない表現を、目を吊り上げて量産してもモノにならず消えて行くだけだろう。最初は『日本古来の表現』ぐらいまで総動員して、そして勢い余ってウソや誇大表現にならないよう厳重に気を付けながら、医療現場の問診を、できる範囲で詳しくしつこく緻密に取るという試みが現実的なセンでしょうかね。

 社会の中で、現状回っている日常業務を崩さずこのコンセプトを試しにかかれる人が何人かいて、徐々に医療目的での改善効果を狙った新・日本語体系が形になってきてくれればメはあると思うのだが。そして業界組織の自我がその気になったら、その標準的用法を整理して、必要に応じてルール構築にかかれば良い。
 医療関係者を始め、興味ある方に御検討いただければ幸いである。

 組織の自我の備忘録に日本語文章を使いたければ『正直に心が向かう目的に、自然な言葉を充てていく』、この順番である。
 本当に元気で健康でいたいなら、毅然とした言葉と行動を。ではグッドラック!
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