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【975】学ばぬオオカミ少年の学習課題は津波てんでんこ [ビジネス]

 今も東京で『ハダカの王様』を上演中だが【962】、これが過ぎたら『また』『まだ』この延長線上でやる気なのが、自爆テロ非国民犯罪者政権の腹づもりだろう。
 とにかく税金資本のデタラメ浪費を積み上げるだけ積み上げて、早く『もっと重く、もっと複雑で、もっと手のかかる税制』に反映させることが急務になっているから、手段を選ばず『日本国民のためにやむなく多額の税金を先行支出した』という事実を稼ぎたくてしょうがないのだ。

 公費の支出費目が持つ縛りの基準には詳しくないのだが、御覧の通り『注射』ではもう大したことない限界がどんどん見えて来ている。グダグダ減衰は時間の問題だ。
 『注射打たないと死ぬ死ぬ』って勢いだったはずなのに、日本国民の大半が実行動でそれを拒否し、結局そのまんま五輪開催期間が到来してしまった。五輪に絡んでは、たかがこの数日で軽く3桁人数の感染者が出ていると聞いたが、それだけ大人数が感染したなら、単純な確率問題として重症例あるいは致死例もゼロでは済まない。
 特に重症者や死亡者が海外からの来訪者だったりすると、黙殺し切れるものでもないだろう。それこそ五輪憲章に関わる国際問題に発展するのは確実と予想される。

 みんな大好き『イノチを守る』『人命第一』『選手ファースト』を掲げた安心安全の大会運営だというのなら、他はともかく医療業界の代表者が国際的な場で全メディア横断の緊急声明を出し、問答無用で即刻停止の実力行使が必要な事態である。
 だがこの一大事に、黒縁ミイラも立て看板ノーベル賞も噛ませ犬前提で外野からのぶつぶつグチ止まりだったり雲隠れだったり、つまりこれが現状の日本第一線の専門家とやらの正体ってことさ。よく見ておこうぜ。

 先に結論。
 東京ではバンバン新規感染者を発生させながら、いけしゃあしゃあと『ハダカの王様』を続けても、どうってことないのである。公認だ。
 これが動かぬ現実であり、これを国民各自が意思決定の根拠にすればよろしい。

 主に政治家など税金資本でこの御時世にしてボーナス名目の一時金まで手に入れるような人種が、このコロナ騒ぎをどう都合よく利用するかの目的がまずあって、どんな情報を流せば目論見通り『コロナ死ぬ死ぬ』に社会組織が調子を合わせる集団行動に収まるのか、そっちが本題になっている。このコロナ禍とやらは、かつての天然痘やペストなど医学的史実としての病原体流行ではなく、それをきっかけにした人間の邪心由来の経済被害事例として、後に社会学の研究対象になることと思われる。
 特にこの日本列島では、騒ぐも騒がれて傷むも『言ってるだけのごっこ遊びは承知の上、でもみんなやってるから逆らえない逆らわない』という日本人気質の主体性の無さが全てだ。別にコロナなんかでなくとも似たようなネタがあれば同じことになってたろうし、ネタさえあれば集団でまた同じ過ちを繰り返す。
 こんなものに、みんなのためにみんなで拠出した大事な税金を注ぎ込むのは、政治でも何でもない。

 1億2千万人日本社会に限らず組織というのは性善説も性悪説も通用せず、生命体の本能として組織の自我の赴くままに振舞う。日本人の組織は日本人組織の自我のままに。

 まずただの生物イチ個体としての人間がいて、いわゆる『個人差』と呼ばれる変動要素でバラつきながらも、十分な共通性の領域で共感し共鳴し合いながら、一緒にやりくりして暮らす生活形態に価値を感じてまとまっている。これが組織をひとつに繋ぎとめている仲間意識の姿だ。
 基本それだけのハナシであり、共感して共鳴して一緒にやりくりしようと思う気持ちが消滅した途端、至近距離にいる人間同士でも社会組織としての機能は失われ、アカの他人として個別行動となる。
 つまり、みんなが共感も共鳴もしないものを人と人の間に持ち込もうとした時点で、まず一切の理屈や難しゴトを抜きにして、政治という組織運営の概念に該当しないのである。

 同じ人間として、されて・見ていて心地良いコトと心地悪いコト、許して見過ごせるコトと見過ごせないコト、その他もろもろが文明社会の人間関係の中で基準化され、『みんなが納得して収まって暮らす空間の申し合わせ事項』として、社会規律なる形で共同運用される。本能の訴えを整理して簡単な判断ロジックに変換し、使いやすくして個人差なく毎日みんなで従うのだ。
 よって規律というのは、積極的に各自が合わせ込みに行くことで成立するものなのだが、裏返せばわざわざ組んだもの故これは突ついて崩せば崩れるのであり、しかも崩れるにあたってはエントロピー増大の方向としてあれよあれよと進行し、元に戻そうにも戻らない。紅茶の中で角砂糖が崩れていき、もう煮込もうが冷やそうが、甘くない紅茶と乾いた角砂糖ひとつにはならないという、アレである【930】

 ここまで理解して、今みんなが共感も共鳴もできない行動様式を、ムリヤリ社会規範のカタチだけ装って執拗に強要するとどうなるのか考えてみる。判りやすくするために、二択形式で対比させよう。

 1.仲間意識の勝ち。社会規範になり得ない行動様式の強制力は無視される。
 2.強制力の勝ち。仲間でなくなった者同士が日本列島の器に閉じ込められる。

 可能性としては両方あるのだけれど、例えば2.にしちゃったから、明日から日本国憲法で保障されている基本的人権なんか知ったこっちゃない、自分の身は自分で守るがこっちだって相手かまわず好き放題やらしてもらう、税金なんか払わないが公共サービスの世話にも一切ならないのでよろしく…みたいなことは現実として無理だ。
 つまり最後の最後はノーチョイスで1.となることが決まっており、だから国民生活の当事者たちと仲間でいる必要がある立場なら、『コロナ死ぬ死ぬ』情報工作には一丸となって明確に反目し無視しないと自滅する。現状を支えている社会構造が成立しなくなり、規律なきぐじゃぐじゃ敵同士の群衆に陥るしかない。
 まず長らく『コロナ死ぬ死ぬ』に反目できずにいた訳からきちんと説明して、共感と共鳴を取り戻すべきだと述べたのがこれである【945】【946】【962】

 ナンタラ宣言もウンタラ措置も既に日本国民は誰も真に受けなくなっているのが明らかなのだから、地域社会の責任者は、いっそあらゆる現場負荷をまず下げるため『蜂の巣にされてでも、何も起きてないとして何もしない』のがガチの現実解だと思う。
 医療機関の稼働率限界の逼迫が問題だというなら、悪いが現場から対応病床の総数を端からひとつずつ公開映像で数えていって、重症者病床のカウントに入って血を吐いて苦しむ患者の寝姿ごと順番に映すなりして、フェイク余地なしの見世物として、まさに『視聴者たる国民と目前の現実を共有』していかないとダメだろう。
 『コロナ死ぬ死ぬ』が真実だというテイで行くのなら、それがどんな真実か見てやろうという好奇心こそナウみんなで『共有』しており、それを見た判断もみんなで共鳴できるからである。どんな映像をどう流すかにもよるが、それで真剣に響いた時には多少なりとも動きが出るんじゃないすかね。

 そもそも人ひとりの心を持たない社会組織の自我には、非人情も残酷もない。イヤなコト窮屈なコトを強いられ不満を溜め込んだ組織生命体は、その原因を知って納得し気が収まるまで、人数ぶん掛けの数量効果でもって根に持ち続ける。本当に恐ろしく、だからナメると命取りなのだし、絶対に逆らえない。
 自分が共同保管の食糧を盗んだ犯人でないことを証明するため、その場で我が子の腹を裂いてみんなに見せたという、村落コミュニティ組織への誠実さの承認願なんかも起こったりするワケだ【719】

 さすがに1億2千万人からいると初動に時間がかかったなあとは思うのだが、もう日本社会の自我の腹は決まったと見受ける。『ハダカの王様』も『コロナ死ぬ死ぬ』もすっぱり見限って、まず食って寝て、明日から順次その時間と活力を日本経済の再起動に振り向けていく。これが日本国組織の自我が腰を上げる自然な方向性だろう。

 普通に日本人である幸せを自覚している皆さまは、日本列島の自我にタテついて呑まれたりしませんよう。物理的な破壊力の心配が無いこんな機会にこそ『災害から逃げずにみすみす自ら被災してしまう人間の心理メカニズム』を観察しておくと良い【642】
 いつか『逃げる判断』を迫られたとき必ず役に立つはず、では御幸運を!
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