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【873】御伽噺で語り継ぐ絶頂至福の独裁帝国 [ビジネス]

 今年も8月6日の広島原爆記念日を迎えたが、やはり今年はコロナ感染症の話題を。

 吉村大阪府知事によれば、市販もされているある種のうがい薬に新型コロナの陰性化効果があるかも知れないとのこと。本人から先回りで自己申告があったけれど、ホ、ホントかよ…?
 ウィルスという非生物・ただの遺伝子レベルの情報メディア相手に殺菌効果の薬品という、単純な理屈としては行き違えるはずの位置関係なのだが、まあ試して危険な副作用が心配されるものでもなし、一般社会に情報を投じて感染確認数への反応の出方を見るという手はアリだと思う。
 そう、日本社会が阻止すべきは『医療体制の不足による不当な重症・死亡』なのだ。

 もう新たな感染そのものを絶対阻止しようなどと考えても無駄だし、少なくともこの日本では、幸運にも感染して打つ手なしでただただ重い症状に苦しみ、命まで落とすなどという心配はしなくて良い。もちろん感染拡大に伴って、確率問題として重症化例・死亡例は出てくるはずだが、それは地球上を生きる人類として必然のなりゆきであり、何かが行き届かなかった手落ちとしてネガティブにカウントすべきものではない。

 そしてもうひとつ、我々は国民生活を維持するための社会のシステム稼働を破綻させてはならないのだ。こっちは待ったなしというか大量出血の真っ最中であり、失血死を食い止めねばならない。
 現時点でこのウィルス疾病は、まだ『どうせみんな感染するんだし、感染してもどうってことないモノ』として構えを解くまでには到っておらず、社会のどこかで感染拡大が進んだとなると事実確認と対策が必要な段階にある。人命が失われるほどの凶悪性はほぼ解消しているものの、感染現象が発生した現地とその直接関係者の行動範囲では社会的な活動を緊急停止せざるを得ない。
 飲食店ならまず営業停止せねばならないし、個人間の会合でも当事者を一旦は拘束して調査することになる。その間、そこで動いていた経済活動も情報処理も凍結し、時間だけが過ぎてしまう。

 だから店員さんにしても集会場の職員さんにしても、感染ハブのセンター役になってしまわないよう、職場主導で検査を受け陰性であることを確認したりもするということだろう。これはこれでその時点での未感染を確認する意味は間違いなくあるのだけれど、その検査直後に感染してしまう可能性についてはどうしようもないワケで、正直そこまでやったら後は運任せに甘んじるしかないのだ。つまり。

 体内の新型コロナ・ウィルスを減少させる実効力が僅かでもあるならもちろんのこと、『検査して陰性』の結果事実が稼げるなら、それも『十分な無症状者の社会参画GO判定』とプラス勘定することにして、とにかく『問題なく動ける連中には社会を稼働させる』という考え方はひとつの正攻法である。
 これだけ情報も出回っていることだし、本当にヤバい雰囲気で体調悪化しているヤツがいたなら、速やかに医療機関の網にかかってくるはずと割り切って良いんではないかなあ。

 さて前置きが長くなったが、前回の続きである。敢えて挑発的に切り出そう。
 言っちゃ悪いけどさ、日本社会の文系の勉強って社会の役に立ってなくね?

 文系というからにはまずベタに文学部を例に採ると、そりゃ世の中のありとあらゆる文章表現について研究してくれるのは良いとして、無論そこには人それぞれ同一単語に抱く語感のばらつきや、同一意思表示に使う言い回しの好き嫌いみたいな調査対象はいっぱい出てくるんだろうさ。そういうのを公共言論に求められる機能性や、文芸で競われる芸術的訴求力みたいな『コミュニケーションの目的』に関連付けて整理し、日本語の用法体系を完成させようとする学術意識が見えないのは何故だ?

 特に法学部ともなると、人間社会がどんな管理コンセプトを狙ってどんな条文を書き落とし、その結果の実社会においてその条文が巻き起こした現実はどうだったのかが片っ端から列挙され、個々の事例について経緯が詳細まで分析され、『日本人の社会学的特性に照らして、日本語の法律条文はどう文字情報として具現化されるべきか』が追究され、現時点の正解がある程度でも方法論化されていて然るべきだ。
 シロート眼にもあからさまな『犯罪性文系工作』など最初から冗談にも出てこない『日本語コミュニケーション倫理観の常識』が、日本社会の知性として保証される。そのための文系学術域だと思うのだが。
 前回言及した、社会運営で人間が通過する『情報機能3フェーズの観点』について

1.真実から日本語情報への、表現過程での変換
 『日本社会の過半数が真実と認識している現実に対して、政府やマスコミの日本語情報は適切な表現と判定されるのか』、例えば直近の経済事情をもって
 『消費税率を下げるのは適切でない、一度下げると再引き上げが極めて困難だからだ』と解説するのは妥当なのか。

2.日本語情報から現実行動への、解釈過程での変換
 『日本社会の法律条文に書き記された日本語情報に対して、立法・行政・司法の具体作業は適切な現実行動と判定されるのか』、例えば国民の健康で文化的な最低限の生活を維持するため
 『税金資本のコロナ疎開を手段にして経済困窮者を救おうとする』ような操作を強行するのは妥当なのか。

3.日本語情報から日本語情報への、伝達過程での変換
 『日本社会に向け発信された日本語情報に対して、それを傍受した政府やマスコミの情報付加および追加発信は、自然で無理のない論理フローに基づく伝達なのか』、例えば今般のうがい薬に関する一連の論説に対して
 『吉村大阪府知事の説明が一転』『うがい薬の売り切れ続出を受けて迷走』などと報じるのは妥当なのか。

 これら各々の問題を前に、いま日本中の文系エキスパート層にいる奴等は、社会組織における自らの責務を放棄しているのではないか。日本語でメシ喰ってるクセに、日本語の悪用・濫用を不真面目にとぼけて放置しているのではないか。

 実は『表現すべき事象vs日本語文章の表記』の一致性・一義性を扱う『論理数学』あるいは『数理論理学』と呼ばれる学域が存在する。いろいろな対象事物に対して、それを語る言語規則をメカニカル的正確に機能させるための文明を、人間は、日本人は、ちゃんと開発して研究しているのだ。
 このソリッドな基礎概念に対して、文芸では個性的な奥行きある情報要素を含ませるために、さまざまな日本語の芸術的技法でアレンジを工夫している…という理解の仕方が成り立つと思う。
 日本社会で政治だ社会学だというと知らず知らず『文系』のレッテルがくっついてしまい、先入観で理系アタマの是々非々論議と別扱いする空気ができてしまっていることが、文系ニッポン国家運営が荒れ放題になっている一大要因なのかも知れない。

 龍宮城という安楽の架空情報に身を預けているうち、浦島太郎は衰えた老人になっていた。浜で虐められていた亀を助けたのは確かに善行だが、恵まれた安楽をその見返りに読み換え勘定する油断があったのではないだろうか。
 人間の都合などとは無関係に容赦なく展開する現実を忘れ、架空情報の口裏に調子を合わしてばかりいると、何もできず無駄にトシだけ喰って終わるという、案外コワい教訓だったりして。
 そう、嘘は時間の無駄、おかしいコトは指摘して修正しないと。ではグッドラック!
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