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【1250】古代遺跡の祈祷を囲むスマホ原人たちの明日 [ビジネス]

 晴天の宮古島沿岸で自衛隊ヘリコプターが墜落して、搭乗していた自衛隊員10人全員が死亡した事故からまだ1年経ってないが、逆にまるでシビア環境の兆しすらない好条件下の単独事故なのに、1年近くも経った今ごろになって、ようやく『原因は何だかわかりませ~ん』みたいな不真面目な迷宮入り狙いの布石が聞こえ始めた。

 以前にも述べたが、確かに犠牲者本人たち10人も『まともな理由も無いのにヘリも乗員も出せません!』と自分のクチで断らず、いい大人が『だって指示されたんだもん、仕事なんだも~ん』を言い訳に、のこのこ自分らもあやかる利権商売の下見に出て行ったのだから、厳しい言い方だがバチが当たって当然であり、そのバチの当たりどころが悪かったまでのことである。
 ならばそれならそれで、これまた厳しい言葉だが、死ぬなら他人様の手を煩わせないところ、迷惑にならないところで勝手に死ぬべきだろう。

 『死者が出た』という事実は、関係者の誰にとっても間違いなく重大事象である。
 人の『死』についてはここでも繰り返し扱ってきたが、遺族をはじめ関係者はメンタルにもそれ以外にも、どうにもならない人生の深手を負うことが避けられず、だからこそ人の『死』については言及するにしても特別感はあって然るべきだ。
 だから『クチにする・文章にする=情報に組んで発信する』のには慎重であるべきなのだが、これを逆手に取る悪知恵で、ふたコトめには『死んだ人がいるのに』『命に関わることなのに』『外野がナニにこだわる権利があるの』のおセンチ系正義を無条件発動して、事実解明の処置を切り上げようと細工する不届き者が必ず出てくる。

 こういうのこそ、人命を、死亡事故を、きちんと後世の知恵に残さず自分都合で揉み消そうとする『平和社会の敵』『人類文明の敵』だ。
 1億2千万人日本社会は、国務ポストの人選を間違えた自分たちの油断と無関心を反省し、いま国力を賭けて現象の分析と原因の特定を突き詰めて、もう二度と同じことを繰り返さないための実効対策を確定し実行する責務を負う。
 まず『わかりません』は事実解明の結論文ではないし、これを結論扱いして会話するからには『はずみで10人ほど殺しちゃったけどさ、なかったことにしようや』の示し合わせが前提になってるってことだ。

 社会のあちこちで、人が死なないよう厳格を尽くして安全管理がなされている。
 等しく『仲間の死は絶対に避けるべき』とする人間の社会性の顕れであろう。
 事故が起きるたび、いや事故が起きる恐れありと一瞬でも目に留まるたび、その現象の原因となったのは何か、その現象の発生を可能性の段階から根絶するため具体的にどうするのか、調べ抜いて考え抜いて『人が死ぬ』『人が死ぬかも知れない』だった現行仕様を、ビフォーアフターで『絶対に死なない』対策仕様に変える。変えて後戻りさせない。これが安全管理の仕事だ。

 『穴に落ちて死なないように穴を埋めてしまえ』だとか、リスク現象を物理的に単純阻止できるケースは良いとして、穴が埋められない場合は人間が『落ちない行動選択』をせねばならない。穴をまたいで最短距離で越えることは可能だが、冷静かつ慎重であっても、顔に飛んできた虫を払おうとして足元の制御精度がぐらつけば人は穴に落ちる。ではこれをどう防ぐ…?
 実際に穴に落ちたことがなくとも、教育を受けて必ず穴の位置を手前で確認し、踏み外さない経路とタイミングを選んで通る能力を身に付けた者、これが安全管理資格の取得者だ。
 だから相手を選ばず、その可能性を見出した瞬間に襟首ひっつかんで引き戻し、怒鳴りつけた上でぶん殴って構わない訳だし、それをやってその場にいる人間を誰ひとり絶対に穴に落とさない責任がある。絶対にだ。

 普通なら失敗しようのない穏やかな晴天の宮古島沿岸で、乗員10人全員が助からなかった単独墜落事故を起こしておいて『わかりません』で済むか、それこそ10人死んでも解明しろ、このどクズ!
 世界初・新機構の開発実験でもあるまいし、むしろ莫大な実地運用の実績ある量産型双発ヘリなんだから『何だか知らないけどエンジン出力がへたりました』などといい加減な内輪ゴトの日本語でカタが付くと思ったら大間違いだ。同型機に関わるあらゆる現場の人々の顰蹙を買う、世界航空運輸の恥でしかない醜態である。

 この件について、一応にでも『技術屋』と呼ばれる人種が、メーカーからも運用現場からも学術領域からも参画しているはずだが、少なくとも『わかりません』ではない回答を持っていることと思う。
 ちょっと久し振りの話題だが、前作NHK朝ドラ『らんまん』の佑一郎くんが、マンちゃんと縁側で団欒していて、自分のことを『この先は生涯ただのエンジニア』と語っていた【1202】
 技術が好きで、技術で組み上がる機械や建築や土木も、物理や化学や数学その他もろもろも、とにかく進化し続ける人類の知恵が大好きで、人並み以上に勉強してそのジャンルの専門家を名乗るようになったのであれば、現状このシチュエーションで『自分なりに正解を確信する技術解説』を、単独孤立してでも社会に向けて発信するのが『技術屋=エンジニア』の仕事だ。それを理解し、どう反応するかは社会が決める。

 『真相がここまで解っていて、想定される可能性はこれ。だからこう対策すべき』
 冷静な心得があって語れるなら、こんな技術仕事が迷い出た元凶の人的原因もだ。

 それができないならさっさと『技術屋』の看板おろして『有識者』の名札でも付けてもらって、どこぞのエラいヒト・コワいヒトの言いなり公共言論の乞食商売で食い繋げばよかろう。
 そして二度と数式や物理法則や工業製品、工具その他の付帯事象にも一切触れるな。世のため人のため真面目に頑張っている技術屋、エンジニアの迷惑だ。人類文明の進化発展の足手纏いである。

 南国の青空のもと、職場の量産普及型輸送ヘリコプター1機まともに飛ばせない。
 飛ばせず落としたら落としたで、10人もいて一人も生きて帰って処置できない。
 残骸を引き揚げたら引き揚げたで、なんで落ちたか判りません。

 そりゃあジェット旅客機は試作にも届かないし、ロケットは爆発して当たり前だ。
 こんな無能の群れに先進文明の機械を作るのも使うのも土台無理なハナシである。
 ひとんちの打ち上げ花火に空襲警報で空振りカラ騒ぎするあたりが実力の限界だよ。

 それでも空襲警報は明朝体フォントとサイレン音の成果物コンテンツが実在する。
 『次期戦闘機』とやらは、もうクチだけ以前のカラッポ散財空論が確定だろう。

 その昔の前世紀、日本の工業製品は圧倒的な高性能・高品質で世界を席巻した。
 過去の栄光に浸った記憶を消せない老人どもは、もう随分と前から若い人たちの記憶に技術大国ニッポンのイメージが『白紙の初期状態として何もない』という事実を認知できていない。全てすがる過去の残像も無い、ただの空虚な口先論争だ。

 外部の時空から持ち込んだ文明の利器はどうにか見知っているものの、それを正しく使えもしなければ、もちろん作れもしない。今日の日本列島は、退化したサル山式チカラ任せの群衆が右往左往するだけの、近代文明以前の社会構造に逆戻りしている。
 高速大容量の通信手段を手にした原始社会が、再び文明を積み上げ始めるのはいつのことだろう?

 あなたのスマホ画面が日々知的進化していますように。では週明けもグッドラック!
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【1249】黙々と足場を積むムッツリ地味系の高所眺望ビュー [ビジネス]

 あらあ~残念、和歌山県串本から民間企業のロケット打ち上げ、脆くも失敗した。
 先っぽに乗せてたモンが乗せてたモンだし、JAXAが失敗したワケじゃないなんてのは言い訳にならない。ニッポン国力としての宇宙航空技術の現状がコレってことだ。
 半島の花火の方がよっぽど信頼性高かったりして。我がニッポンは、半島の花火で騒ぐ空襲警報ですら、ガセと区別をつけられない程のいい加減さで終わっている。

 次期戦闘機の輸出をどうするかだと?次期戦闘機って何だよ?
 『また』でたらめなママゴト決定権が責任者の特定も誤魔化して『誰が言うでもなく』行使されたことになるような『閣議決定』とやらの適用条件がどうたらこうたら、もう国際的な技術開発競争に取り組む、成人社会人としての真面目さが絶望的に足りていない。
 いまリージョナルジェット(地域間運用の民間機)さえ飛ばせない技術後進国ニッポンなのに、技術開発とまるで違う次元に巣食う無能どもが口走る話題ではないのだ。
 これだけ派手な失敗をみんなで共有したんだから、日本国民1億2千万人はいよいよ自分らの国家の実力と外見を、ちゃんと無色透明の平面鏡に映して直視しにかかっても良いのではないだろうか。着飾る必要は無いが、襟を正す必要は大いにある。

 いまこの場で御自身に問い質していただきたいのだ。あなたは心の底から真剣に日本製のロケットが打ちあがって、将来の大気圏外への運輸事業を国力のひとつとして確立する結末を得たい、そんな日本で将来を暮らしたいとお考えだろうか。
 それとも大きめの花火をお祭り騒ぎでみんなで見て楽しんで、レジャー気分でニッポン宇宙航空技術を褒めて遊んでめでたしめでたし、そこまでだろうか。

 長らく機を探っていた、ついでの話題をひとつ押し込んでおこう。
 ちょっと比較対象としては重たすぎる感もあるのだが、北米が多大な国力を投じた原爆の開発は、世論の強烈な批判に追い上げられる立ち位置にあった。
 ありていに言えば、高い税金を召し上げておいて『新型爆弾の開発には到らず立ち消え終了でした』で結論付けることは許されなかったのである。
 もちろん当時の北米国民の生活事情と世論動向をこの私が直接知るはずもないのだが、御存知の通り北米は自由意思と自己責任の国だ。国民ひとりひとりは契約意識をもって国家社会の一員として帰属している。
 『戦争』という国民の生命に関わる国家運営方針を選択しておいて、実際ヒトもカネも緊急を謳って召し上げておいて『いいモノできませんでした、ゴメンナサイ』で済むはずがなかったのである。

 つまり原爆の開発事業が現実に動いたその瞬間から、成果の刈り取りが必然だった。
 最近はインターネットによる情報の普及もあって随分と有名な話になっているが、広島に投下されたウラン235の『リトルボーイ』と、長崎に投下されたプルトニウム239の『ファットマン』は、核分裂に伴う放射エネルギーを破壊力とする点でこそ同じ『原子爆弾』だが、ブツとしては素材も設計も異なるものである。
 原爆投下が広島だけで済まなかった理由が、当時の日本国の粘り強い徹底抗戦にあったのか、二種類のデータ取得が費用対効果としてどうしても必要だったからなのか、私は知らない。ただ交戦状態にあり、北米にも多大なる被害を負わせていた日本国が、原爆投下の実行対象となったことに特段の不思議は感じない。

 北米は、国民の安全と利益を守る国家事業としての原爆を『成功させた』のだ。
 戦時中である限りやはり決してラクでもない米国民の暮らしから拠出させた、貴重な税金の投入成果の物証として。
 『国民の個人パワーを集約して組織力=国力に昇華する』という課題に対して、大和魂メンバーシップで戦うニッポンは、税金徴収vs社会保障ギブ・アンド・テイクの取引ジョブで戦う北米を上回れなかったのかも知れない。

 さてハナシを一転、NHK朝ドラ『ブギウギ』が終盤駆け込みエピソードの勢いで愛娘・愛子の誘拐騒動になっているが、脅迫文の投函紙面が全面印刷ってのは一体どうしたことだろうか?

 加害者がターゲットに脅迫文面を送り付けるにあたり、その筆跡からジブン個人を特定されないよう、あちこちの印刷物から活字を切り貼りして書面を作成する…という手法は、古くからよく知られている。つまりあっちからこっちから文字単位の切り抜きが一枚の紙に切り貼りされていないとおかしいはずなのだが、劇中では貼り込んで完成させたその文面を、改めて感光コピーして一面一枚の文書に仕立てたかのような造りになっている。昭和20年代ならコンビニもなければコイン稼働の乾式コピー機も存在しないし、そもそも一面一枚にする理由も無い。
 昭和世代の視聴者なら瞬発でツッコミを入れていたことだろう。こんなところに時代考証のほころびが出るほど便利な時代になったものだよ、興味深いなあ。

 因みに、娘に対する鈴子の溺愛っぷりは、私が育った昭和40年代においても一般社会から非難され見下され、疎外されるものである。どういう訳か劇中で愛子は真人間に育っているが、実際はもっともっと世間の常識観念から親子どもども爪弾きに遭い、愛子は塞ぎ込むかグレるかして学級から落伍してしまい、どっちに転んだにしても財力目当て以外の人間関係は築けないのではないかと思う。
 今般の誘拐騒ぎにしても、周囲からは『成金がとち狂った一方的な甘やかし過保護をやらかした末のバカ騒ぎ』としか評価されないはずで、だからこそ愛子が子供の立場として、手の届かない筋違いの親の擁護に際限なく反発し続ける構図にしかならないはずなのだ。昭和の子供社会で『オマエんちはカネ持ちだからな~』がけなしコトバになっていた所以の、まさに直球ストライクをいっている【636】
 昭和40年代なら、まず過干渉は大人になり切れず肝の据わらない未熟な親の定番パターンだと卑下されていて、さらにそれが金銭的な裕福ゆえのこととなると、当時どこん家も『総中流社会』どころか現状の経済状態に激しく不満な火の車が平均値だったから、そりゃ妬っかみも混じってトゲトゲしい敵意にも通じる反感を買うのが普通であり、あの頃はそれが日本社会の空気を仕切る『良識』だったのである。

 そんな世風にあって、決して人好きするタイプでもなく、現に人付き合いもヘタクソで、目立たないながらも『ジブンの世界』で質素な個人的成果を積み上げるタイプは一定数いた。賑やか華やかな印象よりも、眩しく優秀な社会評価よりも、マイペースの一発を抜群の安定感で内向きに成功させる底力のある、静かで地味~なヤツ。
 ある意味、勝った負けたやウケたウケないに浮足立たず、生存競争のバトルフィールドで持続可能な効率的ライフスタイルを貫いているヤツだと言えるのかも知れない。

 冒頭の話題に戻るが、ビジュアル的にも明らかだった昨日のロケット打ち上げ失敗は、我がニッポンの国力の実態をよく反映していた。
 次回の成功を夢見るのなら、今回いけなかった問題点をまず明確にする必要があり、当然その全てに確実に対策を打つ必要がある。
 何よりも判る範囲で構わないので1億2千万人が他人事にせず、かけたコストと工数が正確に成果につながるかどうか、各々イチ国民として真剣に関心を向けることである。

 国際競争力のある宇宙物流ビジネスは、今の日本国にどのくらい必要なのだろうか。それは採算性に優れた儲け商売で、安定したいい稼ぎになるのだろうか。
 この大気圏外物流を運営するのも、直近の将来が不安視される国内トラック物流を運営するのも、おんなじ日本円である。その采配を世界経済市場に見られて、評価されて、日本円の価値が決まる。

 今一度、昨日の派手な打ち上げ花火の映像をリプレイして考えましょうか。
 あれに空襲警報は要らなかったのか?その答に始まる思考と判断に、グッドラック!
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【1248】ふと気づく古びた夢中な自画像のホンネ [ビジネス]

 アニソンの話をしていたら、漫画アニメ文化の巨匠・鳥山明さんの訃報が流れた。
 まだ68歳か…御本人もお仕事を続ける予定だったというし、ちょっと早すぎるなあ。
 そう思っていたら、今度はちびまる子ちゃんのTARAKOさんが63歳で急逝。え~?

 そう言いつつ、この私だってもうガチもガチで『明日は我が身』の年恰好だ。
 持病ゼロの将来人生を賭けて、いま片付けられる面倒を全て片付けるつもりでステロイド離脱に取り組み12年目を迎えたが、この成果はもうこの世のどんな有価物件とも引き換えない。阻害要因になるようなモノは一切の躊躇なく排除する。

 明日また東日本大震災の日付3月11日を迎える訳だが、日本列島にいる限りはどこに住んでも震災のリスクから逃れることはできないから、明日からかも知れない被災環境下で面倒なく日常の体調を維持するためには、食って寝るだけの手放しパーフェクトの健康体でいなくてはならない。目標達成まであとちょっと…なのかな、まあいいや。

 さて少なくとも現時点で地震は予測不可能な訳だが、それでも実際の発生をとらえた時の緊急地震速報の迅速なことには感心する。
 悠長に感心していられるくらいの揺れで済むほど遠方であっても、緊急地震速報が着信すると、いま脚立に上がろうとしていたところを中止してやり過ごしたりはするから、いざペンキ缶を提げてハシゴに登ろうとする工事現場や、淹れ過ぎたお茶を擦り切れ一杯に注ごうとする居間のテーブルなどで、それなりにささやかな減災効果を上げているのではないかと思う。

 ところで、つい昨年だか一昨年だか、バカみたいに連チャンで鳴らしてた空襲警報は今どうなったんだっけ?【1099】
 『半島の北からアブナイ花火が飛んでくる』ってのが触れ込みだったと思うんだが、あれだけの頻度で繰り返していた宇宙航空技術域の国家事業を急にやめちゃって放ったらかしというのは、いかにも不自然としか言いようが無い。っちゅうか、そんなことあり得ない。
 人工衛星であろうが軍用ミサイルであろうが、実験して結果を得ている以上は、具体的な完成品で大成功をアピールするか、大事故を起こして継続を断念するか、何か国際ステージにおける国家発展級の節目がついているはずなのだ。
 今どきどんなに秘匿しても、このレベルの情報なら直接見え聞こえするか、推測なら推測で、四方八方から信頼性高い裏付けがバッチリ取れて語られるのは間違いない。だがそれが無い。

 つまりあの当時、半島から本当に花火が上がっていたのなら、今に続くその後もちょくちょくは上がってるんだろうし、今がすっかりの御無沙汰だというのなら、当時のうちから大した花火のブツは上がってないのに、空振りカラ騒ぎの空襲警報を繰り返していたことになる。

 現実の結果として『空振り』に終わった空襲警報は、ただの一方的に安眠を妨害されたりもした当該地域の住民に評判が良いはずもなく、かたや当該でもない日本国じゅうはシラけるばかり、こりゃ世論の風当たりが強くなる前にやめといた方が賢いな…で済む程度のもんだったから、打ち上げ花火の真実がどうであれ、今はすっかり静かになっている。そういうことだ。
 こうして時間を置いてコトの顛末を俯瞰するとよく判る。『忘れた頃に…』で忘れるくらいなんだから、騒いだひと頃が過ぎた後、ホントに何にもなかったってことだよ。

 『花火がアブナイので国民は隠れましょう』が真意ではなく、他に目当てにするものがあって、わざとらに危機感を煽るようにおどろおどろしく仕立て上げて、朝ドラの時間帯まで狙ったという構図が明らかではないか。
 調子こいてそんなことをしていて好天の宮古島でヘリコプター落として自衛隊員10人殺したんだから、一応にでも人目を気にする感覚があれば、もう迂闊にあの陳腐な空襲警報は流せなくなっているはずである。

 正月の能登半島地震では、現場の被災者の切実な救援要請を偽ったニセ情報が多発したという。また動画や音声までAIを使った再現度の高い『なりすまし』が取り沙汰されるようにもなった。
 良いことだとはゆめゆめ思わないが、社会の高度情報化に伴って完成度の高い『情報』が狙ってゼロから組めてしまうし、どこにでも解き放って流通させることができてしまうのだから仕方ない。見分けて摘発する方策も無ければ、NG判定して禁止するプログラムも成立しない。
 情報は『受発信者の知覚や記憶に発生する共通の現象あるいは状態』なのであり、ブツでないからには誰もがどうにでも組めるし、紙面でも電気でも通信回路に乗る限り、どんなものでも『情報』として伝わって作用する。

 たまに『情報の質を守る組織が必要だ』などと、今どきカラッポ正論にもならない日本語を恥ずかしげもなく放つ非・情報人種を見かけるが、こんなのの詳しい話を聞くのはまっぴら御免である。
 誰にでも、どうにでもなる『情報』は、それゆえに誰かが管理することなど原理的にできない。時間の無駄だ。
 そして大事なのは、自由意思で行動を選択する人間は『ジブン好みの情報を通信対象に採択し交信する』のであって、『正しい情報を通信対象にしないと死ぬから、正しい情報を求める』のではないということである。

 そう、今日も手にするスマホのその画面は、まさにあなたが人生の時間を費やす目的意識そのものという事実に気付いておこう。
 将来いまの瞬間を振り返ったとき、御自身で納得できるものが映っていますか?
 幸せいっぱいのその上質な画像に、グッドラック!
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【1247】前衛芸術ビデオクリップの深夜展覧会 [ビジネス]

 もうちょっと近代エンタメ音楽文化の回顧を続ける。
 前回『買い物ブギ』をはじめ昭和歌謡はメッセージ性のある日本語の歌詞が付いていたと述べたが、どうにもそのパターンに当てはまらない例がひとつ引掛かっている。
 私がまだ小学生だった1970年代に一世を風靡した、ピンクレディーだ。

 当時の私は音楽嫌いの理科工作少年だったこともあり、歌えるほど知っている曲は一曲も無いのだけれど、それでも『UFO』の支離滅裂な歌詞を耳にした時の不可解な困惑は記憶に残っている。
 ブツとしてのUFOは登場しないし、心情を訴えかける対象であるはずの宇宙人への言及も皆無。そのくせ『飲みたくなったらお酒』だとか妙な思い付きの決意をいきなり宣言し、どうにかこうにか『地球のオトコに飽きた』だとか何とか、酔っぱらったキャバクラ嬢との会話みたいなセリフで宇宙にハナシを向けかけるが、結局地球から一歩も出て行かずに終了。良いか悪いか、面白いかどうかの判断も下せない。なんじゃこりゃ?

 理屈っぽく協調性に欠けるガキだった私は、あの昭和の空気の中であの歌詞を思い付くような思考回路にはさらさら興味を持てず、休憩時間の教室でマネをする級友たちを冷めた横目でやり過ごしていたものである。
 テレビが子供の学習能力を退化させるとして目のカタキにされ、世の子供たちが『テレビは見るな、本を読め』と口酸っぱく言われていた当時、テレビの『物事の意味をきちんと考えない、堕落した精神文化』の象徴として、なるほど『UFO』は親世代の大人どもにしばしばやり玉に挙げられていたのを憶えている。

 当初わざわざメッセージ性を含んだ歌詞に助けを借りていたエンタメ音楽の商品性だったが、個人宅にしても街ナカにしても音響機器の普及が進むにつれ、音楽が『ワケのわからん何か高尚な、謎のコンテンツ』でなくなってきていたのだろう。
 音楽が珍しいモノでなくなるにつれ『覚えやすくて真似しやすく、くだけた場で遊びのネタに使いやすいこと』という目的が重要視され始めたのではないだろうか。

 この方向性が、1996(平成7)年にはPUFFY(パフィー)の『アジアの純真』にまで行き着くのだから大したものである。そのハチャメチャっぷりは、いわゆるKAWAII系の単語に通し番号を振って、乱数表任せにつないで作文したのではないかと思うほど、歌詞の意図するところが日本語の実体を成さない。
 このころ出張で来ていた米人エンジニアの一人がPUFFYをお気に入りだったのだが、まず歌詞に対訳をつけてやれなかったし、ドカチン直訳式に英単語を対応させるにしても、何故こんな採択ワードを文法規則の語順で並べたのか解説できない。
 スマン、日本人の誰にも意味ワカランし、真意の暗示も無いと思う。意味ワカランまま疑問も覚えずに好きで聴いて、カラオケで歌って、それで日本人はみんな楽しめてるんだよ。それで商業的に成功しているんだからOKってことなんじゃないのかねえ…あたりが限界であった。

 昔も今も『歌詞の意味が解らないと楽しめない』と断じる洋楽好きはいないはずで、つまり歌詞の言語メッセージ内容は、複数ある楽曲のエンタメ機能要件の一項目でしかないことが判る。
 いっぽう私の個人的な事例だと断るとして、メロディーが大好きな洋楽オリジナル曲なのに、陳腐きわまりない日本語歌詞がつけられたカバーバージョンを、どうしても心穏やかに楽しむことができないでいたりもする。ときに歌詞は、そのくらいの影響力も及ぼし得るのだ。

 もう20年以上も前になるが、知人のツテである曲の演奏を依頼され、聞いたままの曲名を頼りに帰り道の中古屋で当該曲の収録CDを買ってみたのである。そしたら『知ってる曲に知らない歌詞』で、途端にのけぞって耳から押し込まれる拒絶反応にギブアップしてしまい、とても最後まで聞けなかった。
 この出遭い頭のアクシデントが最初で最後となり、この私が一度購入したCDを中古屋で売却した、これまでの生涯で唯一の事例となっている。
 いや、正しい商品計画でカバーされ作詞されていたはずで、現に多くのユーザーに受け入れられたからこそ演奏を要望されたりもしたのだろうし、ワタクシの側にこの極端な結末の原因があるはずなのだが。

 まあ誰もが好きな音楽を好きなように楽しめば良いだけのハナシであり、いちいち個人の思い入れや趣味をシチ面倒くさく理屈づけてもしょうがないのだが、こんなとき実感として『精神世界にひとつ閉じたイチ個体としての自我なんか無いのかも知れない』と思ったりする。

 大好きなメロディーはしっかり聴覚で好印象に受け容れている反面、歌詞は律儀に国語の演算処理を介して激しく神経を逆撫でし、とても我慢できない。
 この二律背反の心理反応は、完全に別モノの情報処理体系が二本、全く相容れず別々に走っている。二本まとめて統括するジブン=『自我』『主観』なる総合枠が、呉越同舟の受け皿になって一人として完結する必要なんかないと思うのだ。
 言ってしまえば、私というハードウェアひとつに、肯定派と否定派の二人ぶんの情報処理が、タスクエリアを分けて並走しているのではないだろうか。

 小難しいばかりで正直あんまりハッピーな体験談でもないので、わざわざ話題にすることもなかったのだが、いずれ生体情報処理の構造や原理について考察するにあたり引き合いに出せるよう、ひと通り紹介しておく機会を探していた。そのくらい私の人生の記憶に刺さるメンタル史実だったということである。
 気の乗らない苦役タスクを負担なく片付ける手法のヒントに役立てたりとか、何か使い勝手はないものだろうか。いつか良いコト思いつきますように。

 最後に、いつ出すか困っていたネタをもうひとつ消化しておこう。アニソンである。
 私の体調がまだ先の見えないズッタズタで、いつ寝ていつ起きるかも地獄のなりゆき、血だらけ傷だらけの死闘を繰り広げていた頃、眠ろうにも眠れない絶望の深夜に仕方なくテレビの電源を入れた。
 そこに命中したのがTVアニメ『悪の華』のエンディング曲だ。衝撃であった。

 動画サイトで当時のTV放映版ママが見れるのかどうかは知らないが、ほぼほぼ雰囲気は御理解いただけると思う。一見して判る画家オディロン・ルドンとの関連性は各自で御確認いただくとして、さらには子供向けでないことも承知おくとして、この映像と音声をアニメ番組の『終わりの歌』の枠に充てるかフツー?

 改めて検索してみて、コレのカラオケがあるという事実にまた驚いた。凄すぎる。
 採点ランキングで何点いくか挑戦してみては?ではアナタの歌唱力にグッドラック!
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【1246】エンタメ音絵巻の口八丁敷居おとし [ビジネス]

 おお、当たり前だがうるう年2月29日の次は3月3日の雛祭りの巡りになったか。
 過去にも述べているが『きょ~おは楽しいひなまつり~♪』と歌うそのメロディー、歌詞で直球『楽しい』と断言しておきながら、哀愁漂うマイナーコードつまり短調の響きだったりする【612】【1215】

 まあ『悲哀』というよりは、粛々感というか『ドタバタせず沈着に過ごす心理状態』を音感で再現したもの…という理解で当たってるんだろうな。とにかく昭和以前の日本人の特徴的なメンタリティと思われ、昭和40年代の高度経済成長期にあっても、歌謡曲や演歌などの大衆向け娯楽音楽に、大なり小なりこの湿り気のある木造系の音作りが広く根強く定着していた。
 子供向けのアニソンもこの日本精神文化の作法に則り、いま思えば本格的というにも実にしっかり分厚いパート構成を従えて、子門真人(若い人たち、しもん・まさと と読みます)やささきいさおが熱唱していたものである。

 たかが私ごときの知る範疇なのだけれど、TVアニメ『未来警察ウラシマン』のオープニング曲『ミッドナイト・サブマリン』が、そんな古来伝統的な日本の音感文化から完全に脱却した節目の一曲だと思うのだ。
 ハイティーン年齢ぐらいからどんどん悪魔と逸脱の騒音系洋楽文化に身も心も落としていった私は、実はリアルタイムどころか今に到るまでこの作品を一度も観たことがなく、随分と最近になって人聞きでこの曲を知った。アニソン、ここまで来てたのか。
 1983年というから昭和58年の初回放映だそうで、イントロから北米西海岸の突き抜けるような青空を連想させるLAポップ曲調、都会的にカラッとドライで垢抜けており、微塵の湿り陰りも感じさせない。みなしごハッチよ、さようなら。

 この時代に透明度の高い爽快感ポップで既に突出していた山下達郎の『ライド・オン・タイム』が1980(昭和55)年、湘南ビーチサウンドの代表曲TUBEの『シーズン・イン・ザ・サン』が1986(昭和61)年のリリースだというから、このあたりで日本社会の音楽文化の主流が大きく和風から洋風に移行したのだろう。
 洋楽作法に移行するにしても、私みたいに悪魔に魂を売らなかった善良なティーンエイジャーたちが、のちにTVアニメ領域のサブカル文化から『子供向け、幼稚』のレッテルを引きはがして『クール』に換えていったのかも知れない。ただの同調・埋没でもない人畜無害たちの底力は案外と侮れないのである【955】

 さて私のハナシなんぞどうでもいいとして、NHK朝ドラ『ブギウギ』で『買い物ブギ』のフルコーラスが放映された。大阪の下町で育った私だが、それと判ってフルコーラスを聴くのは恐らく初めてである。
 有名な曲なので、大人がちょっと引き合いに出すなど子供の頃から日常的な馴染みがあるにはあって、その影響が子供社会にも浸透していたのであろう【1022】
 それにしても、つよぽん先生式『スリー、ツー、スリー・ツー・ワン・ゼロ!』のカウントは聞き憶えが無いなあ。GHQキャンプ組の重鎮がたでも、あったとして『…ハイ、いち・にの・さん!』までである。まあいいや。

 教科書に載るような、勉強としての格調高き音楽ジャンルと対極に位置する大衆歌謡。いま思えば、それでも間違いなく伝わる正しい日本語で、明確なメッセージを託した歌詞が添えられていたものだ。
 まだまだ『生計を立てるに役にも立たない音楽なんか、わたしゃ解りません』の大衆が相手のエンタメ市場なのだから、必然的にその市場に響く商品を提供するとなると、コトバの意味のままに理解しやすい歌詞の情報力が求められたのだろう。
 そっち方面の才能もなく日夜労働に明け暮れる庶民としての日本人たちに『遊んでカネになる浮草商売』とやっかまれ、娯楽と言いつつ羨望と軽蔑の両方が交錯する厳しいビジネス領域だったことと思われる。

 まだエンタメ音楽理解力の受容間口が狭すぎたので、そこを落語や漫才に通じる日本語のコミュニケーション話術でサポートして、社会全体に売り込んでいた時代なんだろうなと私は解釈している。
 芸術…というと大袈裟すぎるのかな、心の内を楽器の音色に乗せて伝える『音楽』を、生業として真剣に追求しようとするプロたちにとって、当時のショービジネスが『好きなことをやってカネになる』という表現で片付けられるほど楽しくラクチンな生き方だったとはとても思えない。

 『買い物ブギ』もメロディーなしの落語・漫才にして十分通用しそうな歌詞なのだが、こういうステージは果たしてどのくらい発信側の納得と満足に支えられていたものか、一度確かめてみたい気がする。
 …と言うのも、もちろん完璧な演奏と歌唱あって成り立つパフォーマンスなのだが、発信して受信されて響いて伝わるその内容が、あながち関係者全員の志に素直に噛み合うものだった訳でもなさそうなのだ。
 御存知の方も多かろうが『8時だよ!全員集合』で有名なドリフターズは元々ハワイアン・ミュージックの実力派で、イミフのドタバタ愚行を繰り返す芸人集団ではない。
 せっかく持ち合わせた演奏技能ではなかなか売り物にならず苦労した反面、いいオトナが恥を忘れたようなおふざけがただならぬ稼ぎになったという現実に、当のメンバーたちはやり切れない葛藤を抱えていたという記事も読んだことがある。

 私も子供心にあんなものを面白いと思える心理がまるで理解できなかったし、真似しようなどとは爪の先ほども思わなかったが、そんな私でさえ『ああ、だいたいこんな感じの番組でした』と解説できてしまうのだから、現代では願っても叶わない社会浸透レベルである。娯楽コンテンツを買い上げる日本社会の、当時の情報特性が反映された結果の一大社会現象だったのだよ、きっと。

 恐らくはこんな流れを受けて、ロックとお笑いを意図的にミックスした『コミックバンド』という形態が、プロアマ問わず目立っていた。世間に普及し始めていた洋楽向けの電子楽器を手に入れて、悪ふざけでも何でもいいから騒いでウケを狙いたいバカな若造どもが、失敗なく観客を反応させるには一定の解決策になっていたのだと思う。
 欧米ロックのカッコ良さに浸かり込んでいた自意識過剰ど下手糞アマチュアの私にとっては、正直のところ大嫌いな様式だったのだが、稼ぎを上げてプロ志向を貫くため夢の自画像を封じて頑張っていた連中も多かったはずである。

 思い入れのあるファンには怒られてしまいそうだが、割と最近では『聖飢魔Ⅱ』(子供たち、せいきまつ と読むのだ)が近い事例だと聞いたことがある。
 技巧派の路線で十分通用する精鋭揃いなのだが、日本市場では商業的に成立が厳しいからと、わざわざにあのいでたちに身を包んで『悪魔が来たりてヘビメタる』というキャッチコピーでデビューしたらしい。
 おっと今どき、このフレーズは映画にもなった昭和の有名ホラー推理小説『悪魔が来たりて笛を吹く』のパロディーだと解説しといた方が間違いないんだろうな。
 正統派の欧米ヘビーメタル愛好家からは『ヘビメタの冒涜だ!』と非難する声も上がったという。まあ暴力的な大音量の中にも仰々しい様式美を重視するファン層ですからね。茶化すんじゃねえと。

 1989年プリンセス・プリンセスの『ダイヤモンド』がヒットする頃には、もうエレキ楽器を手にした女子高生のライブを親御さんが見に行くところまで社会変革は進んだのだが、経済急成長する戦後ニッポンの悲壮な重労働の抑圧感から、音楽に向ける情操がすっかり解き放たれたのがこの頃だったのかも知れない。
 これ以降やたら無機質に洗練された曲調で、温度のない電子楽器の音色が増えてくるのだけれど、かつての泥臭い生活レベルの感情の抑揚が毒抜きと共に失われてしまった感もあり、一抹の寂しさが拭い切れないのも事実である。

 『ブギウギ』も終盤だが思い巡らすところ多く楽しい。では週明けもグッドラック!
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【1245】遠く彼方の単純明快と揺らぐ足元の深層崩壊 [ビジネス]

 そうか、今年はうるう年なので今日は2月29日なのだよ。

 地球の公転一周にかかる天文学的1年の長さは365.2422日なので、太陽暦のカレンダー通りの一年365日だと、ホントいうと公転一周し切らず0.2422日ぶん足りないところまでしか行かないのだ…と子供のころ勉強した。
 これが4年たてば未達ぶんの蓄積が0.9688日つまりほぼ1日となるので、4年に一回うるう年を設けてカレンダーに2月29日を加えましょうと。
 すると今度は4年毎に0.0312日ぶんカレンダーが進み過ぎる計算になる。従って100年に一度はうるう年の巡りになっても2月29日の設定は見送ることにしましょう…で間違ってないはずだ。24回蓄積した過剰ぶん0.7488日を1日さっぴく処置で解消する。
 これまた0.2512日がさっぴき過ぎになるので、400年に一度は100年巡りであっても見送らずちゃんとうるう年にするってことで、今のところ天文学的サイクルに対する太陽暦カレンダーの端数処理が計算式として決まっているのはここまでだと思う。

 改めてよく考えると意外なのは最初に出てきた365.2422日であり、端数はほぼ四半日なのだから6時間近くもカレンダーの刻みと齟齬が発生しているという事実である。
 元旦の日の出にでも、夜明け直前の他の星々の位置を記録しておき、その年の大晦日の同時刻に、おんなじ日の出ではあるが、星座の位置がなるほど6時間ほど遅れているなあ…みたいな確認をわざわざにしないから気にならないだけのことだ。
 一年365日のうちに約6時間つまり360分ほどずれるということは、毎日1分近く星空の進みが遅れていっているのだけれど、日常生活には特段の不都合もないので皆あんまり気にしていない。

 ここまで書いて『もしかして』と思ってちょっと検索したら、やはり今どき六分儀の作り方があちこちネットで紹介され、いくらでも見放題になっている。電気も食わないし場所も取らないし、好きな人は自作して、御自身の日常生活で公転周期の端数を実感するトリビア方策など探してみてはいかがだろうか。
 私は無学にして四分儀や八分儀との違いを解説することができないのだが、どれでも構わないので工作が簡単そうなやつからでも試してみると良い勉強になると思う。

 計測装置を自作しようとすると、関心の対象について科学的ロジカルな現象モデルがまず確定している必要があって、そこに確信のある計測原理を適用して目盛の読み値を得るのだから、欲しいと思う対象現象と測定行為の世界モデルが共に破綻なく頭の中に構築され、組み合わさっていなければ叶わない。
 とりあえず工作を頑張ってそこそこ計測器っぽいモノができたとして、その自作測定器の指し示す値を頼りに、あなたは決めた方角にぴったり10キロあるいは20キロと移動することが可能だろうか。スマホのGPS機能で簡単に答え合わせができるのだから便利な時代になったものである。

 大航海時代に外洋に乗り出した帆船は、その程度の航路保証に信頼を置いて命を預けざるを得ず、読み誤りがなくとも周囲に何ひとつ見えない海原ばかり何日も何週間も続いたろうし、水も食料も決して潤沢ではない航海だったはずだから、かなりの高確率で乗員組織の統率崩壊による遭難事故が起きていたものと察せられる。
 首尾よく海を渡って帰って来れれば船いっぱいの積荷ぶんの商取引が可能だが、その儲け話は死と背中合わせの大勝負だったに違いない。
 こんなシビアな条件下でとにかく生存確率を上げたくて、悪天候に強く食料備蓄にも余裕のある大型船が望まれ、逆境にも勘が鋭く冷静で適切な操船を誤らない腕利き水夫集団が求められたのだが、当時の経済社会の限界として、ただのカネ持ちに集まる程度の経済力では資本調達が間に合わない。

 そこで通貨を介して誰でも売買できる『株』と、その取引の場となる『株式市場』が発明され、不特定多数の経済力を集中させられるようになり、その基本原理は現代にまで受け継がれている。株式会社をはじめ経済組織なるものが、人間個人では到底不可能な社会力を実現したのと同時に、その人間個人の誰からも離れて浮いた『組織の自我』なる意思決定系の情報処理が発現した、人類文明の象徴的な変化点である【589】

 つい先日、日経平均株価がバブル期以来の最高値を更新したそうな。
 もっとも現状市場動向の長期的な平衡点としてすっかり定着している円安によるところが大きく、要は、実はそこまで大したことない平均株価なのに、それを価値の低い円で買おうとするんだから大枚はたかないと買えません、その大枚の額が過去に例を見ないレベルにまで行っちゃった…と、そういう種明かしだ。
 どこも『最高値』だけで終わらせず『円安の影響』までセットで論じていたのは、当然の事実報道とはいえ一応ほっとしている。いま国政の前時代式ままごとチカラ関係がこれだけ同時多発的に崩れてきて、もうどん底景気をとぼけてニッポン絶好調の大合唱で御機嫌を取る相手もいなくなっているということなら正しい展開なのだが。

 株価が素直に上がらないのにそれなりの理由があるのはもちろんで、これだけ劣化して何が主力産業なのかもはっきりしない日本経済において、まだその切迫性に真面目に向き合えない円経済の運営層の実力を見抜かれているのである。この現状になお体質改善の兆しが見えないのだから、確かに総じて明け透けのハズレ株ということになる。
 今まともな成人社会人なら日本国ごときに改善努力なんぞ期待しないのが自然な判断だろうが、一方で米大統領選の影響は少なからず効くだろうから、近々の番狂わせを当て込んで格安の日本株をがめておくという購買動機は十分活発にあって不思議は無い。
 すると格安日本株のがめ合いになり、株価が上がり、その株価を紙屑のような日本円で値付けしたら『バブル越えの過去最高値』になっちゃいましたという顛末なんだよな。情けないハナシである。

 …で、私自身は結構トランプ君の返り咲きがあり得るというか、むしろ期待しているのだ。史上もっとも存在感のない=大統領ポストの機能に穴を空けたバイデン爺には、かつての反トランプ派も含めて全米が不満を感じていることだろう。バイデン政権で北米がどうなったのかを訊かれても、答える文章を咄嗟に思い付けないもんな。
 御存知の通りトランプ君はとにかく『我がまま、北米のまま』が彼なりの理屈で明確であり、モメようが先に言うことを言ってしまって結果としての現実が対応してドタバタする順番のため、ジョブ単位でわかりやすいのだ。
 そして北米も近代経済システムの原理に由来する本質的な問題を抱えていて、しかもそれがじわじわ進行中だから、程度の差こそあれ、決して『日本を重要な経済パートナーとして特別視して優遇する』ようなおめでたい方向性の政策は採ってこない。
 トランプ君なら高らかに自国擁護を明言しつつ仕掛けてくるだろうから、国際経済は大きな振幅で反応する。日本国内のシケて腐ったぐずんぐずんよりよっぽどコミュニケーション係数が高くて、見ていて理解して学習しやすい。

 前半の毎日1分ズレのハナシなんかもそうだが、毎日自分なり=情報源や受信経緯が確信的に把握できている観測記録を残していくと、測定精度はしょぼくても観測にまつわる事実認識が強力なため、最初気付けなかった対象物の特性や作動原理が見えてくる。

 逆説的で申し訳ないが、今の日本国内は何もかも支離滅裂で空中分解が進行中なので、これから興味を向けようとする試みの対象としては、あんまりオススメできない。
 わざと意思疎通を避けようとするコミュニケーション不全の空間では、受発信される情報は意味を持たないし、その後の現実にもロクな効果を及ぼさない。時間の無駄だ。

 測定に値するマトモな通信を観測しよう。その未来の学習効果にグッドラック!
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【1244】情報屋ルッキズムの必勝人事評価 [ビジネス]

 NHK土曜夜ドラマ『お別れホスピタル』が最終回を終了、これも面白かったなあ。
 確か番宣で、いわゆる終末医療系の施設で現場取材に注力した作品とのことだったので、例によって録画を駆使してまで全4回をパーフェクト視聴した。

 昭和の時代、人生の打ち切り宣告や残り時間の身の周りの現場について話題にするのはタブーとされており、本人に告知せず懸命に気遣い続ける周囲の人々の葛藤や、何かの拍子に自身の寿命を知った本人が残り時間に目標設定し努力する…あたりがメインテーマになるのが定番だったと思う。結局のところタブーを作法通りに避けて、終末医療はメインテーマを語るにあたっての背景にしておくという位置付けである。
 もちろんそれはそれで充実したストーリー展開になっていたはずだが、反面いざ我が身にその境遇が降りかかった時、ほとんど実用知識として使えない。これが昨今は随分と、限定された人生の残り時間のリアルな日常を、堂々とテーマに取り上げるエンタメ業界文化にシフトしてきたように見受ける。
 日本社会の『健康』や『医療』や『生死』にまつわる意識が、ついつい個人的な不快や心労に繋がるケースが懸念されるゆえ公共の場で避けるべきとしていた情報領域を、もっと現実相応に共有して役立てようとする方向に変わってきたのだろう。情報化社会組織が高齢化するにあたっては自然な傾向である。

 当事者の現実としては綺麗さっぱり完結し得ない『寿命の途切れ方』という題材を、その通り完結させずにどう放映枠に収めるかが難しいところと思われるが、現時点の当事者でもない私にとっては見やすくてしっかり楽しめた。
 病床の『情報体としての人間』が持ち合わせる人間関係ネットワークの中で、限られた時間内にどこまで情報量の濃密なコミュニケーションが尽くせるか、この関係者一同のチャレンジ模様と結果成否が解りやすく描かれており、良いドラマだったと思う。

 ところで、ここでは以前から『情報体としての人間』の情報特性は、一人にひとつの人格像として決まらないという考え方を提唱している。物理的にそこにいる人間ひとりをハードウェアとして、まるでコイツを作動させるための専用人格ディスクが相手違いで何枚もあるかの如く、びっくりするほど人間はその場その場で違った情報特性をもってコミュニケーション稼働するものなのだ【231】
 脳みそひとつの中に複数の人格システムファイルがあって、どれをブートするのか適宜に一択して稼働しているのか、それとも人格システムファイルはやっぱり固有なけなしのひとつしかなくて、コミュニケーション対象に応じて各々発現する特徴的な傾向がそう見えるだけなのか、今のところ判定する手段は無いのだけれど。

 …で、ハードウェアの側って情報特性に寄与するのだろうかと考え、思い出した。
 見かけることが最近少なくなっているのだけれど『クレッチマー三類型』というのを御存知だろうか。人間の身体的な特徴に呼応して、精神的な傾向も概ね特定されるというものだ。

 痩せ型は真面目で控えめ、目立たないタイプ。内向的で同調性が高い。
 肥満型はのんびり屋で温厚なタイプ。良くも悪くも融通が利きこだわらない。
 筋骨型は精力的で集中力があり、几帳面だが頑固。執着心が強くくどい。

 私は高校時代の『倫理・社会』の授業で、恐らくは思想や哲学に関わる知識のひとつとして、この『クレッチマー三類型』が語られる教育現場を経験している。
 でもこんなの倫社で教えることか?まず医学とかサイエンス領域のジャンルっぽいし、これだけ大勢いる人間をたった3通りに分類して、人格像のバックグラウンドたる精神動向の基本特性をレッテル貼りするのは無理がありすぎないか?
 自分の周囲でそこらに思い当たる面々をざっと記憶に照らして検証して、おおなるほど…と納得できないのは私だけではないだろう。正直のところ率直な第一印象は『ホントかよ?』って疑惑である。
 だいたい3通りしかないんだから、よっぽど極端な的外れの事例が出て来ない限りは『言われてみれば、そんな気もしないでもない』の適合レベルには結論づけられてしまって当然じゃないのか。

 まだABO式血液型の4分類の方が、引き合いに出して引掛からずに会話が弾むと思うぞ。その筋で真剣な研究を進めている方には申し訳なくも失礼だが、どお~も学説と呼ぶには腑に落ちる根拠に困るんだよな、コレ。
 もちろんサンプル集団があって身体測定とメンタル問診票なんかも用意して、それなりに調査結果の統計処理もやったんだろうけど、ぼやんと一様の星空プロット群を前にして、本人が思い込みありきで天の川を見出し相関線を引いちゃったとか、そんな想像をしてしまうのだ。スマン!

 首から下の感覚神経・制御神経の特性に、体型別に何らかの特徴的な傾向があっても不思議は無い。やはり体格に応じた神経網の幾何学的な形状があって、それ相応の部位別の神経経路長というものもありそうに思う。それはその通り。
 いっぽう遥かに外形で決まる幾何学的な差が出にくいと思われるのが首から上の側で、これだけ一律なのに人柄つまり人格像は百人百様・千変万化するのだから、首の上下を組み合わせてしまうと、結局は首から下のたった数パターンに代表させて分類するほどの大まかなグループ特色は顕れないんじゃないですかね。

 今どきこういう内容を検証するのは『コンプライアンス上、不適切』なんだろうな。
 私自身これまでの人生経験を振り返って、精査したくなるほどの的中感が全然無いので、まあいいやで終わらしてしまうのだけれど。

 文句言わず指示通りなびく組織にしたいから、断食推奨で痩せ型集団にする。
 柔軟な発想の新展開が欲しいので、メタボ体型を掻き集めて脅迫的に追い込む。
 短期決戦の起死回生プロジェクトは、ムキムキを選出して洗脳の説法研修から。

 うっそだあ~、誰かハタと手を打つ適合事例を教えてよ。御健康に、グッドラック!
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【1243】幸運相関図の我がまま総当たり戦必勝法 [ビジネス]

 NHK『あさイチ』不定期挿入ドラマ『幸運なひと』が最終回を終了、面白かった。
 『何かをしたい』と心が動く欲望=エゴが『生きるということ』ではないのか、と。
 エゴは我のまま、わがまま、自分の『本当』
 それをぶつけられる人はあまりいない。ぶつけられる人がいるのは幸運だと。

 以前ここで紹介した映画『マイ・ライフ』もそうだけれど、まだ未来の人生の余白があることを前提に日常を送っていて、ある日いきなりその遥か手前で打ち切りを宣告された時、人間は存命の残り時間に何をするかの厳しい選択を突き付けられる【1130】
 もちろん本人にとって十分な満足が期待できる人生計画であるはずはなく、逆らえない現実の残酷さ理不尽さに納得できないまま、実現可能な範囲まで消化してなりゆき決着で寿命を畳むしかない。

 『思い残すコト』が山とあるのはとても残念なことで、姉はいつだったか『余命2年と言われたか3年と言われたかの違いはとても大きくて、もし選べるならその差分1年でもきっちり欲しい』と言っていた。
 もちろん本人の病状を過去事例と照合しての推測値にしかなりようがなく、高精度で余命期間の確定のしようはないのだが、それでも姉にとっては、どっちも結局は足りないにしても、切実に延びるものなら延ばしたい1年という時間単位だったのだ。
 最期となる前々日にもメモ用紙に『ぜったいなおす』とガタガタの筆跡でメモを残していた姉は、本当に最後の最後まで諦めていなかったのだと思う。

 生きて果たしたい『思い残すコト』の数々が最後までバックオーダーに積まれている人生というのは、私にとって幸運な境遇に感じられる。人生の持ち時間が余っちまうのが先になったら、そのあとが退屈でしょうがない。

 ただ真剣に最後の最後まで諦めていないがゆえ、病状が進行するほどに病床の姿で自分を見舞われるのを嫌がったものだ。今は会いたくない、今ではないと。
 家族だとはいえ本人が望まないのに余計な手出しはできないし、とにかく本人が諦めていないのに私が妙に送り支度みたいなマネをすると、何もかもが良い方向に行かないのは目に見えている。
 だが現実的な確率問題として、このまま仲良くしてくださった方々と大切な会話も交わさずにいて、それが双方の後悔を引きずるような形に帰着する事態は、何があっても避けなければならない。どうしよう?

 『重病の療養中なのだから、現時点で見映えも心映えも優れないのは当たり前、そんなものは見舞いに来てくれる人たちも全員理解していて誰も否定視しない。むしろ馴染みの人たちにいま好きなことを好きなように好きなだけ話して、回復したらまた改めて元気な姿で会い直せばよい』
 この理屈に姉が素直に納得してくれたお陰で、すぐに私は関係筋に連絡を回して、ありとあらゆる見舞客を何度でも送迎し、どんなに短時間でもお連れする役割に専念することができた。
 いきなり初日の見舞いラッシュが混み過ぎて病院側からペース調整を指南されたほどで、それでも連日、入れ替わり立ち替わり許容枠いっぱいの見舞客が途絶えることはなかったのである。

 その二週間後の早朝、母が一緒にもぐりこんで寝ていた病床の布団の中で、姉は巡回の看護婦さんに呼吸が止まっているところを見つけていただくことになる。

 病床で弱った自分を人目に晒したくないと気後れするのは人間として自然なことだが、それを理由に先送りを繰り返していて、いざ二度と再会が叶わなくなるとやはり悔いが残るものだ。
 似た境遇で行き詰まって悩んでおられる方がいらしたら、私と同じ理屈で見舞い放題の企画を取り持ってみてはいかがだろうか。くれぐれも御無理は禁物、そして終活の空気と別次元で『直接会って話したいことを話す』ところがポイントだと思う。

 姉が築いていた人間関係は、周囲の方々が『あの人はコレコレこんな人だからこそ、自分の身の上のコトを共有したい』という動機で構築してくださったものである。
 姉という情報体の特性に好評価をくれて、わざわざに他でなく姉を選んでコミュニケーションしてくれて、それが行き違わず放置もされず双方で成功して続いていた…という幸せ交信の実績の記録だ。
 『最後の』という流れにはしたくないが現実には抗えない。ならば実態を見て一人ひとり思い思いの現状認識に任せるとして、せっかく姉が本人の幸運を取り置いていたコミュニケーション空間があるのだから、それを稼働できるうちにフル稼働させて、残せる限りの記憶を関係者全員に残そうとしたコンセプトであった。

 お互いが『諦め』や『落胆』の心境をシャットアウトして、本当に大事なコミュニケーションに専念するための現実解として、我ながら方向性も実行時期も悪くない判断だったと思う。
 そして何だかんだで昏睡にも落ちず『ぜったいなおす』と正確な日本語が使える状態で、ギリまで姉本人の人格としてコミュニケーションが叶ったのは幸運であった。
 おいでいただいたどなたと何の会話が交わされたのか私は知らないけれど、その場でお互いが伝えたいと思う内容を思うままに日本語にして、無駄も粉飾もない情報交換がなされたことと心得ている。

 しかし人間とは、ただ現存する事象や自分の意向を素朴・率直に伝えるだけにしても、このくらい追い込まれないとなかなか真面目に取り組まないものだ。人工知能AIとどっちが知的に効率よく情報空間で機能しているのだろうか。
 傍若無人のずけずけではない『我がまま』を言って言われて、真に受けて応えてまた返されて、意のままを実感するコミュニケーションに囲まれた時間で人生を過ごせること。これが情報的に『幸運なひと』の条件ではないかと思っている。

 あなたは幸運を掴みに行って、掴めているだろうか。後悔なきようグッドラック!
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【1242】結果にコミットする情報トレーニングジムの月額負担 [ビジネス]

 まだもう少し人間の、いや生物の体内情報処理について考えてみよう。

 脳の構造は『神経網が脂肪のカタマリの中に浮んでいる』とよく説明される。
 スズメの焼鳥のアタマ部分を嚙み潰すと、中の脳みそは、サイズがしょぼいので味わいの特定がなかなか難しいところではあるが、一応なるほど!の食感…のような気がしないでもない。

 そりゃやっぱり鶏肉や鴨肉なんかに比べると柔らか感もジューシー感も遥かに貧相で、ねぎまだの皮だのモモだの区別も一切なく、スズメの小鳥ちゃん一羽がまんまキホン串に刺さって平たく炙られた丸焼きである。さすがに足先だけは食えなくて、指が拡がっている少々上の脛の途中で切り落とされてるんだけどさ。あ、あとくちばしもか。
 手乗り文鳥と大して違わない体格なんだから、串の焼鳥というより半ば煎餅みたいなもんであり、夏の京都伏見あたりでビールのアテにするぶんには、たまの非日常を感じられるしそれなりに美味いしで面白い。
 因みにひとまわり大きく肉厚なウズラも横で売っているが、こちらは大きくて太いぶん骨の主張が強く、スズメほどオススメはしないとのこと。今もって私はウズラに手を出したことがない。

 脂肪といえば、生体の構成素材としては、蛋白質やカルシウム部材の固定構造部に対する『変動部』に相当し、身体構造のスキマ充填剤であると共に栄養分のストックとしても機能する。ぱっと思い付きで解説する限りはこんなところか。
 食い過ぎるとストック供給が嵩んで太るし、絶食の修行でずっと食わずにいると、内部留保のストックが持ち出し消費されて痩せる。血を通わせ成長させて構築する骨や筋肉とは区別して、体内にぶら下がって貯まる流動体の概念として『脂肪太り』『脂肪でぷるぷる』みたいなコトバがあるんだよな。実際おサカナや肉料理の脂身もそのイメージだし。

 この『流動性』が大きな機能要件だと思うのだ。
 かねてから私が推察する通りに、生物の『記憶』の情報もコンピューターと同じくデジタルデータ原理で記録されているのだとすると、その記憶素子はゼロイチ二進法の書き込みと消去で稼働することになる。
 そこでコンピューターの記憶ビットのように電気的にゼロかイチかを任意に切り換える物理的構造など、生体には不可能だと思うのだ。
 生物が何かを動かすならキホン筋肉が要る。筋肉でゼロイチ切換スイッチを動かすのだとすると、本体が動き回って三次元方向のGを喰らうと、スイッチ端子の位置決めにどうしてもエラーが発生しがちになる。
 G環境が静穏であっても、何千何万で済まない数のスイッチング動作を行わねばならず、合計すると相当な筋肉運動量を四六時中こなし続けることになるはずで、これでは作動信頼性が低すぎて種が滅んでしまうだろう。

 重さのあるスイッチ端子を筋肉でゼロからイチに動かすのではなく、生化学領域の化学電子式で書き表されるような、記憶ビットの電子ケミカル変化を使うしかないのではないか。だとすると、ゼロイチをスイッチ式に切り換えるのではなくて、チェックボックスを白紙『ゼロ』から書き込み『イチ』に変化させるしかない【628】【629】

 一度ケミカル変化させた物質を再び変化前に戻すような都合の良い生体機能を、私は思いつけない。そもそも行って来いが自由自在な可逆変化を原理にすると、これまた書き込み損ないが散発してストレージとして使い物にならず、やはり種が滅んでしまう。
 だから一度チェックを入れたが最後、消しゴム無用のワンタイム使い捨て式にするしかないはずなんだよ、生体記憶ビットは。
 毎日新しい現実に遭遇し、毎日新しい情報を書き込み、それだけでは行き詰まってしまうので、記憶ビットの書き込み状況を適宜にデフラグ整理し、不要になった記憶ビットを片っ端から捨てていく必要がある。

 ではガンガン調達し、気前よく使い捨てできる記憶ビットの素材とはナニか…?
 そう、流動性のある脂肪が適切な素材ということになる。

 世間一般で『脂肪』というと、肥満の原因だとか血管の劣化をはじめ健康状態を悪化させがちなワルモノの印象が常識的にまかり通っている。
 野生で暮らしていた頃の特性として、飢餓などに備えて生き残るために脂肪でエネルギー源の体内蓄積をするワケだが、現代文明社会は食料が豊富でそのリスク対応負荷が軽くなり過ぎており、早いハナシが普通に食っていたら脂肪が余りがちの溜りがちになるであろうことはすぐ判る。少なからずの現代社会人が脂肪過剰に悩む所以だ。

 だがもうひとつ、脳内でえらい勢いで書き込まれては記録ファイルとして保存され、刻一刻この世の現実に遭遇しては新規情報により更新されて、毎日の睡眠デフラグでどんどん用済みになり使い捨てられる記憶ビット。この素材が他ならぬ脂肪であり、だから脳みそは『脂肪のカタマリに浮かぶ神経網』という構造になるのだよ、きっと。

 ホント高負荷の頭脳労働をやると、自分の記憶管理にドタバタ騒乱が起こっている自覚もあるし、何よりめちゃくちゃ腹が減るのだ【201】【556】
 『もう書き込んじゃったから再使用不可』という理屈で次々と廃棄される記憶ビット脂肪は、のちに筋肉ムーブメントの熱源に転用され燃焼させられるのだろうか。それとも30億年生命の歴史はまだそこまで体内回収エコシステムを構築できておらず、いきなり翌朝うんこにしてサヨウナラだろうか。

 『脳は最もエネルギー消費の大きい臓器である』と言われるが、確かにまず化学電子式レベルの微小なケミカル変化のイチ単位ながら、膨大な記憶ビット数でそれをやるからには、そこに内燃機関としてのまとまった規模のエネルギー消費が発生する。
 この燃料消費ぶんに加えて、脂肪素材の記憶ビットたちが『書き込み済、再使用不可』の廃棄処分となってただ使い捨てられるのだとしたら、こちらは燃焼反応でエネルギーを取り出すところまでやらずに、もったいなく消費していることになる。
 このあたりが、内燃機関としての脳みそが別格にエネルギー源を浪費し、熱効率の悪いイメージに映る原因なのではないかと思っている。

 ともあれ、四六時中ナニガシか暗記ゴトを見つけては、何分で幾つまで行けるか試すような暮らしの習慣があれば、記憶ビット脂肪の日常消費ペースは促進されるはずだ。
 高脂血症とか脂肪肝とか、多少のそれなりにでも抑制効果が期待できるようなら、脳トレ生活スタイルを工夫してシェイプアップしてみてはいかがでしょうか。

 高度情報化社会は超速で脂肪消費タスクを積んでくる。遅れるな、グッドラック!
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【1241】活動写真なきカリスマ弁士のレジェンド話術 [ビジネス]

 前回に続き、人間の画像ファイル記憶って案外と少ないんじゃないかという話を。
 想い出の画像は、それを特定する要件としての言語や図式などのロジカル判定項目に書き換えられて取り置かれ、元のクッソ重い絵柄そのものはストレージ負荷を軽くするためさっさと廃棄されるのではないか。私はそう考えている。

 絵心の無い人に鳥の絵を描かせると、しばしば足を四本描いてしまう例が見られるのもこのためだろう。
 ふわふわぬくぬくの恒温動物で知能も比較的高く、人によくなつくし感情も交換しやすい。卵で生まれてくるが、お付き合いの相手としては犬猫・牛馬なんかと同列の『動物くん』である。
 鳥好きで普段からペットとして現ブツをいじりまわしているだとか、理科好きで生命の進化に伴う四肢の骨格構造に興味や知識が向くだとか、そういう動機でもなければ『動物とは四本足で歩くもの、前足2本と後足2本が揃うもの』という社会通念のロジカル情報が先に立ってしまう人は少なくないと見る。
 ぱっと見い鳥の羽根は形状も機能も足とは違い過ぎて、そっち方面に得意でもない人たちにとっては別モノになってしまい、最初に鳩サブレーの概形ぐらいまでは常識の一環として作画できたとしても、その下に延びる足が何本あるかの記憶が不明瞭だと、つい『動物だから4本』とする判断が働くのではないかと。
 だから四本足の鳥の絵を描く人は、必ず『あやふやな記憶を一般概念のロジック知識で補完する』という画法で描いているはずである。

 因みに犬猫・牛馬は童話などで鳥よりも頻繁に擬人化されたりするので『目鼻口の配置、四肢の構成は人間と一緒』という知識がより深く定着しているのだと思われる。
 鳥は、一般社会人がアタマで考えるにあたり、人間と体格構成を同一視するかどうかがビミョーだってことなんだよな。まあどんだけ絵がヘタクソでも四本足の鳥を描くなんて私の子供時代にはまずあり得なかったから、総じて鳥が現代人類社会の記憶から疎遠になっていて、漠然と『動物一般』に混同されてきている事実の顕れであろう。

 やはりというか生物種としてマイナーなブランドに行くほどこの傾向は顕著となる。ここにタコやタツノオトシゴの絵を描ける方はどのくらいおいでだろうか。
 タコであれば8本足の中央部にあるのが口であり、だから『頭足類』と呼ばれるのであって、人間がアタマ扱いしているところは内臓その他がいろいろ詰まった胴体である。
 もうここまでで、お馴染みの照る照る坊主状の漫画は人間の勝手な擬人化ロジックによる各部位の取り違えがあからさまなのだが、更にはひょっとこの口のように描かれがちな噴水口が定番通りに突き出しているにもかかわらず、両目を入れ縦線の鼻を描き、それで終わらず横一文字の口まで揃ってしまっている例を見かける。
 タツノオトシゴの失敗も同じパターンであり、頭部からちゃんと『口吻』が伸びるところまで正しいのに、そこにヨコ・ヨコ・タテ・ヨコで両目・鼻・口を入れてしまうのだ。…お、おいっ?

 そもそもの興味が不十分なのだろうが、とにかく現物を観察した上での判定ポイントの記憶情報が作画するに足りておらず、そこに本人が直感するところの『顔のパーツと配置』の一般概念が、絵柄のビジュアル要件でなくロジカル判定チェックリストとして割り込んでくるので、こんなことが起こるんだろうな。
 この目で見たお題の体験画像を、的確にお題専用のロジカル判定チェックリスト項目に落とせていないのである。

 ところで非常に精緻な描き込みで有名な日本画家・伊藤若冲【479】の作品には、まるで人間のように切れ長の目をした鳳凰や象が登場する。
 あれだけ画力の達者な人でも、架空の存在であったり、当時はそうそう見ることが叶わない海外の珍しい動物であったりすると、写実基準ではなく一般通念基準の判定ポイントを反映した描写になるという事例だろうな。
 誰にでも自然に受け容れられる、いちばん精度高い『目』の情報がそれなんだもん。
 絵のプロなんだから、そう描くさ。

 もうひとつ似たような話としては、遊就館で黒船来航の解説パネルにも引き合いに出されている肖像画『ペルリ像』の例が面白い。
 少なくとも作画者本人はペリー提督を直接見ていないはずで『目が青い』と伝承されたロジカル情報だけを頼りに頑張った結果、いわゆる白目の部分に青の差し色を入れる形になってしまった。どっちを向いても黒い目の日本人しかいない社会で『目』のイメージがまず固まっていて、でもこんなもんのどこがどう青いんだよ…?と絵描きの記憶と想像力を振り絞った結果がこうなったのである。

 カラー写真など重たい画像データが記録や通信に乗せられなかった時代、その情報を言語という簡素お手軽なロジカルデータに変換し、伝言や手書き文書で流通させたところ、元の情報量が大幅に削られてえらくあやふやな伝わり方をし、受信者側の創造力で埋め合わせた情報に化けて再現された。軽くて便利でたくさん積み置けるロジカル書面だが、こんな不確実性の宿命が抱き合わせなのだ。
 そして私は、社会のヒトとヒトとの情報伝達のみならず、ひとりの人間個人の内部通信でもこんな感じで、結構な粗い目のざるでロジカル化に引掛かった内容ぶんだけ抽出して演算・記録しているのではないかと思っている。

 まず人間のストレージに、画像ファイル・動画ファイルを保存することは可能だ。
 私自身を顧みて、確かに友人の運転する車の助手席で体験した交通事故の動画ファイルは、視野設定も画像も驚くほどしっかりと残っている。のちのちその動画を考察して、あのとき普段と違う網膜像の収集や処理が走っていたのではないか…などと思い巡らせられるのは、未加工ナマの動画が検索可能な状態で保存されているからだろう【54】
 だが相当な条件が揃わないと、この記録モードは発動しないのだと思う。

 むしろ普段から命懸けでもなくテキトーに関心を向ける程度の景色なんか、どんどん『ぱあっと華やかな』とか『何ともおどろおどろしい』とか『血の気も退くほどの』みたいな言語情報や、『青空』『見上げる摩天楼』『商店街』などの大まかな図式情報に変換され、その軽いファイルの方が圧倒的に優先して大事に保存される。
 動画一本、画像一枚をまんま記録するより、日常生活に効く情報内容を項目限定的に抽出して、ロジカル情報処理のチェックリストだけを次々と蓄積する方に生存競争の勝率を賭けた、生命進化の現実解のひとつってことなんだろうな。

 身軽であること、シンプルにこなすこと、これらは毎日たくさんの現実に出遭って、その情報内容から役立つ要点を効率よくストックするための基本原理なのである。
 画像から音声から見境なくスマホに記録を残すより、ちょくちょく間違っても暗記した方が情報生命体としては健全なのかもよ。では明日の進化を目指してグッドラック!
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