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【796】商売がたき、インフォ理想郷vs組織エンタメの未来 [ビジネス]

 国会がこれまでになくグダグダになってきた。次から次へと民主主義議会制にはあり得ない質の悪い独断が、日本国民に隠して勝手に決定事項扱いになっていた事実が明らかになっている。
 共通テストの件も驚きのデタラメっぷりだが、やはり制度としてマトモに作動できてもいないのに、メチャクチャなまま放置されている欠陥税制もどきを差し戻すのが喫緊の課題である。
 もうナニとナニがあったのか思い起こして列挙するのもタイヘンで、これらを自爆テロ政権の一連の不祥事としてまとめてキャンセルする方針で、野党たちには今国会を頑張って欲しい。

 民主主義議会制は、現代先進国の初歩的な具備要件として『社会形態の当たり前アイテム』と意識されているのが普通だが、それでうまく行くためには組織員個々人の組織センスの平均値を高い水準に保っておかねばならない。薄らトンカチに『みんなの意志を反映する=納得性の高い平和で生産的な運営ができる』の公式を盲信するのは間違いである。
 議会制民主主義の仕組みは確かにみんなの意志を反映するものだが、その『みんな』が本気で自組織を元気で楽しく建設的な生命体にしようと実行動に腰を上げるような作り込みを成功させない限り、組織は機能不全を起こして衰弱してしまうものだ。
 例えば組織員個々人が自組織にあれこれ負担になるような要求をたかることばかり考えるようになると、民主主義はその意志を反映し、議会は議論と合意を繰り返しながらなけなしの生命力を吐き出して発散し、いずれ力尽きて実体を失う。

 高度情報化社会の時代となり、個々人が自前の自由な情報世界を好き放題に生きれる今日、組織稼動のイチ構成要素となる『社会的交流フェーズ』に関わる生活時間は、相対的に、相当に楽しく面白く役立つモノにしないとヒトが関心を向ける対象になれない。
 自分専用の情報世界を謳歌できる境遇は組織の御世話あってのことなのだが、いきなり死ぬとでも実感しない限り、なかなかそこから自分の関心を引き剥がすのは難しい。歩行はもとより自転車や自動車の運転中にさえ意識はスマホの画面にクギづけ、あれってホントはいきなり死んじゃう危険があるしそれは解ってるはずなんだけど、自前の情報世界に没頭すると、意識をそっちに持って行かれて本来の感覚認識がないがしろにされてしまうのだろう。あ、私はスマホ人種ではないので推察です。
 どんな優れた人材を充てても、どんな快適な環境を整えても、心ここにあらずでは人間の活動として成立しない。『孤独にコレやってるより良いコトありそう面白そう』、これが当代流組織マネジメント成功の不可欠要件だと思っている。
 まず『嬉しい、楽しい』が起点であり、今その魅力勝負において情報世界が手強すぎるのだ。

 資本主義経済の進歩は、社会性生物・人間が英知を積み重ねた組織力の進歩であるとして過言ではなかろう。そして世の中で有価事物と交換されるカネという媒体をいかに豊富に活用するかの価値基準で、民主主義社会が組織力を自由競争させ発展させてここまで来た。
 だが特に今世紀になって、国家、自治体、企業などあらゆる階層フェーズで組織力がぐらつき始め、それが業績の悪化となって顕れるケースが目立っているように思う。
 世界中でスマホに熱中して失敗する事件が報道されているから、昔は社会空間でヒトとヒトとが意識をもって交錯し共有していた時間が、世界人口ぶんひっくるめてごっそり何割か失われているはずだ。もしかして、世界的な資本主義経済の失速の原因のひとつが、『社会の高度情報化』だったりするのではなかろうか。

 もちろん高度情報化により組織が生産性を向上させる効果には、ただならぬものがある。
 だがその反面、知らず知らずのうちに高度情報の魅力が誰ものココロに忍び込み、リアル社会においてみんなで運営する組織観の占有領域を浸食してきたのではないだろうか。

 良いか悪いかの議論はまず横に置いといて、昭和の時代、災害や事故に遭遇しても、結構な確率で『しょうがない』と割り切る風潮が強かったことを思い出す。
 狙っての犯意や良識のない過失が明らかな場合は責任追及するのも自然だが、そうでないのなら借金してでも自分のコトは自前修復で収めておくのが基本。人生一寸先は闇だし明日は我が身のお互いさま、破滅するのでもないのなら、わざわざ相手を特定して我がコトの後始末をひっかぶせる理屈を立てるなんて品の無い絡み方はやめときなさいよ。そんな感じだった。
 高度経済成長期にあって、日本全国がシャカリキに働いて稼いでいた時代でもあり、精神的背景が今とは随分違うのは承知している。ただ社会組織全体の生産性に水を差さないよう、喜んでとは言わないが、自分個人事情の損害は甘んじて呑むという思考ロジックが、常識として普及していた。

 不遇は不遇、そこに責任者を決めて追及する行為は、組織総観スケールでは内部損失でしかない。内部損失を減らすのが仲間意識ってもんでしょ、そんな感覚も今や遠い過去の想い出となっている。
 だとすると高度情報化社会においては、今や組織の人数規模が大きくなるほどに、組織性の低下による損失に悩まされる構図になる。少人数組織で目いっぱい機械化・自動化を推進するのは、ひとつに現代人のメンタリティに合わせた人数規模で組織稼動を正常に保つため、という何とも厳しく皮肉な因果が見えて来るような気がするのだが。
 高度情報化により発展し、高度情報に夢中になった1億2千万人日本国組織は、議会制民主主義による意思決定システムをうまく回せなくなったのだろうか。少子高齢化の次に来るのは人口激減だが、それは将来日本人の組織観が通用する適性サイズの日本国になることを意味しているのだろうか。

 ありゃ、民主主義の精神は大切だが、油断してると独裁主義国家の方が経済成長で台頭してくるかもよ…みたいな経済SF童話にしようと思って書き始めたのに、いつの間にかこんな金属的に冷たいお話になっちゃいました。どこで間違えたんだ?まあいいか。
 2025大阪・関西万博『いのち輝く未来社会のデザイン』は、ただ長寿バンザイのタテマエ良識論にしないよう、未来の日本社会の『マジ嬉しい楽しい』設計構想を全世代が腹割って語り合えるようにすべきである。
 そのために、いま特定の世代が偏重されていてはならない。大阪の成長を止めるな。
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