SSブログ

【686】大和魂の体重測定法 [ビジネス]

 思い立ったが吉日で先にやっちゃいましょうか、役人組織と政治家のハナシ。

 子供のころ社会の授業で習った立法・行政・司法の『三権分立』を思い出していただこう。日本では国家運営の諸活動を、まず立法機関で法律という情報単位に仕立て、それに準じて行政機関が実務作業として遂行する。これにあたり司法機関が遵法性を適宜に判定し管理している。
 国家のあるべき姿があらゆる利害から隔離された空間で率直に法文化され、それらが選り好みされることなく課題解決しながら現実となることで国家組織の運用が叶う。大勢の人間が社会活動を共有するにあたり、個人間のバラツキや日々時々の気分変動でやり散らかしにすることなく、社会を収束させ決断させ進展させるため、法律条文という言語情報をうまく思考媒体として活用するといったところか。
 よって、これら三権は日本国憲法により、完全に相互独立した意思決定系として定義されている。要はお互いお伺いを立てたり手を組んだりはできないことになっている。

 国会なる立法機関があり、それは議会制民主主義で運用されるものであり、時の与党が過半数を取って多数決議会の決定権を牛耳る原則は働く、まずはこういうことだよな。
 国民に『こんなに暮らしやすい社会にします。具体的にはそれを法文化し、議会にかけて議決を取り付けるまでやり通します。その約束をするので私にアナタの清き一票をください』と訴えて、多くの国民が『おお良い社会構想じゃないか。よしわかった、しっかり頑張ってくれよ。約束だぞ』と応じたら、その候補者は選挙で票数を集めて当選し、晴れて議員になるワケだ。
 ここでポイントは、国民の支持を得てこそ国会議員でいられる因果があり、社会を面倒くさくアンフェアなことにして国民の反感を買う立場になった途端、任期満了と共にその職位を追われるところにある。

 いっぽう法律執行の実行部隊をなす行政機関つまり役所だが、こちらは公務員組織だから、公務員試験をパスするなど一定の手続きをクリアしてしまえば、国民の支持など無くともその身分となる。まあ国に仕える業務スタッフとして品行方正を求められ、災害その他の一大事には我が身を後回しにしてでも社会に尽くす役回りは覚悟せいと。
 だがその反面、立法され公務として定義された作業なら、例えば無理強いの規則で人に作らせたお買い物レシートのスクラップ帳を受け取って一瞥をくれてやり、それを後工程にかけるだけの軽作業を発生都度の五月雨処理として、毎日をだらだら過ごすことだって正当化される立場でもあるワケだ。
 何より、ただの国務従業者だから職場事情に応じてそれなりの異動はあるにせよ、基本的にその職務ポスト専任の役割を維持して勤続する。その立場なりに自分勝手の個人都合は発生するし、業界キャリアの特性上、カネや地位など査定アイテムには極端な執着心も抱きやすい【647】

 結局のところ、どんな仕事も現場最前線で直接作業を処理する人間が、現実を動かす。
 どんな条文で立法しようが、その言語情報に逆らわないと言い訳が立つ限り、社会の実作動は行政に決定権が委ねられる訳だ。『現場作業としてできない理由』をいくつでも積み重ねて、永遠に実地運用を滞らすこともできる。
 裏返せば『言語情報に逆らわせない』を唯一の実力行使の拠り所として、性悪説的な一面を宿命的に抱える行政機関に悪い気を起こさせないよう、徹底的に社会のフェアネス管理を言語化で織り込むのが立法機関の仕事であるとも言えよう。

 この国家運営の構図において立法機関つまり国会は、数年単位の任期毎に選挙で議員を更新し、常に国民の最新の国家観を反映するという仕組みの必然として、自他ともに『どうせ期限付きの一時的職権が前提』の立場とならざるを得ない。
 この条件を押して国会議員で長く居続けるためには、本来ガチの国民目線で時代時代に合った公約を掲げ、いつも議会において強い発言力を発揮し与野党問わず日本社会のためと合意を取り付けて、みんなが暮らしやすい日本社会のルールを整備し続けている実績が必要なのである。本来、ね。
 議員は当選を経て、立法を担う議席に就く。だがその他の周辺作業は公務として、原則は永年継続の役人が固めていることに注意しよう。我々国民は選挙の時だけちょっと気にして、テキトーなのを一人選んで名前を書き落としてしまえば義務は果たせてハイおしまい、そいつはまずまず社会のため国民のためアナタのために動いてくれる…なんていう保証は無いのだ。

 ちょっと殺伐とした内容が続いたので、オカルト系の余談で肩の力を抜いて終わろう。
 魂の重さを測定した逸話、私と同年代の人なら一度はどこかで読んでいるのではないだろうか。高度経済成長期の頃って、サイエンスが良い意味でオカルト風味にユルい拡がりの包容力を持っており、厳密な正確さではなくそっち方面の知的好奇心をワクワク盛り立てる演出として、絶妙に非科学的なおハナシが百花繚乱していたように思う。
 出先で失神した男が気を取り戻すと何千キロも離れた場所にいた話だとか、ある日子供があり得ない遠方他国の実在地名に住む誰それだと名乗って、現地在住者しか知り得ない事実について語り始める話だとか、平成以降の冷たい都市伝説とは素性の異なるアツいSF的な魅力を感じさせるものが多かった。
 どれも子供向けの読み物の題材に使い回されたと見え、みんな大筋で共通するストーリーをどこかで読んだ想い出を持っている。あの文化、教育としても娯楽としても、なかなかどうして侮れない効果があると思うのだが。

 おっと魂の重さの話である。危篤状態の人をベッドごと天秤に乗せて、臨終の前後で重量差を比較するという解りやすい測定法で出したその数値は、3/4オンス=21グラムだったそうだ。
 でもこれって人が死んだ瞬間に半透明のひとだまがヒュードロロと空中に抜け出して、その一匹?が体重21グラム…という概念だよな。精一杯に科学的な思考を巡らせた上で、『意識』と『生命』を一緒くたにした『生きた人格』という単位を想定し、大マジメに複数回測って答を出したのである。
 現代の視点の検証だと、臨終前後に呼気で排出される水蒸気の重さではないかなどと言われるのだが、そんなにあるかね?人は一晩の就寝中にコップ一杯の水を放散するというが、一瞬で21ccって結構な量だぜ?

 ここで何度も組織生命のフラクタル構造について論じているが、今回冒頭から述べたような、ややこしくも不出来な意思決定プロセスが錯綜する結果の産物として、確かに現代1億2千万・日本国の持つ人格像がひとつ思い描けるのが面白い。グズで、フヌケで、他力本願、意志薄弱、内弁慶…
 もし国家規模の組織階層で各国の人格意識が存在するのだとしたら、他国さんは今日の日本国の魂って何トンぐらいに見積もるんでしょうね。あ、単位間違えてる?
nice!(9)  コメント(0)