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【657】悩めるアキレスとアヒル二代目の武勇伝 [ビジネス]

 予想通り、自然とRSSの更新が元通りに追いつくようになった。気にせず進もう。

 さて堀越二郎技師は、九六艦戦のあと十二試艦戦=零式艦上戦闘機、つまりゼロ戦を手掛けている。御本人としては九六艦戦の方が会心作だったらしいのだが、事実としては御存知ゼロ戦の方が大東亜戦争での存在感も、それによる知名度も遥かに上回った【309】
 九六艦戦は固定脚に開放型操縦席の軽量戦闘機=軽戦であり、空戦の武装は7.7ミリ機関銃2丁のみ、軽快な運動性で組んず解れつ敵機の背後を取り合う『巴戦(ともえせん)』を得意とする。
 えっ、最前線の戦闘機が青天井なんて野暮ったくない?などとおっしゃるなかれ。飛び立ってしまえばすぐ下層雲より上には出てしまえるし、他の背の高い雲は避けられる。空力的な非洗練性のデメリットが許容範囲に収まるなら、圧倒的に視界の良い開放型が当時のパイロットたちに支持されたのである。巴戦で戦うとなると、先に敵機を発見し斜め後方上空の好位置に回り込んで、先手必勝で仕掛けるのが断然に勝率高い。
 ゼロ戦を始め、後の全閉式風防の戦闘機たちも、戦闘態勢でない時は風防を開けて周囲に目を光らせるのが普通であった。当時レーダーは一応あったがまだまだ性能が不十分だったし、有視界飛行が航空戦闘の基本だったのである。

 さて高い運動能力を誇った九六艦戦だが当時の戦局に照らして、どうしようもなく不足している性能項目があった。
 航続距離だ。まあ空母で連れてって、そこらから飛ばすやつですからねえ。
 日華事変つまり大東亜戦争初期【459】、中国奥地の重慶や成都の軍事拠点を制圧するため、既に日本海軍の基地があった東シナ海沿岸部から爆撃隊を飛ばしていたのだが、小型軽量ゆえ燃料タンクも小さく遠出ができない九六艦戦は、爆撃隊の護衛に付けない。
 仕方なく護衛なしで爆撃隊を飛ばさざるを得ず、中国軍のソ連製イ-15あるいはイ-16といった旧式戦闘機の迎撃により大損害を出していた。イ-15なんか複葉機なのだが。

 この爆撃隊を編成していた飛行機が、九六式陸上攻撃機である。
 ほっそりしたプロポーションに双垂直尾翼が特徴的な美しい双発機、その設計者の名前を本庄季朗という。あんな風采のちょっとニヒル系イケメン技術者だったかどうかは知らない。
 飛行機好きには割と有名なトリビアだったりするのだが、実在した九六陸攻設計者の本庄氏は、第1回鳥人間コンテストの優勝機体も設計していたりする。

 九六陸攻も機首や胴体上下に旋回式銃座を備えているが、前回述べた『電車の窓から斜め射撃』の原理により命中率は悪く、たかが旧式であっても既に胴体軸線で撃てる固定銃を持った戦闘機には抗戦が難しかった。大戦中こういった旋回式銃座や、敵機の直上あるいは直下から狙う思想の『斜銃』というレイアウトもあったのだが、真正面狙いの固定銃と比較して、命中率は丸一桁違っていたという。
 ともあれ、費用対効果の悪すぎる爆撃作戦で、貴重な戦力を浪費する訳に行かなかったのである。

 ここにゼロ戦が投入される。
 例によって徹底した軽量化を図ることで、抜群の運動能力を与え、常識外れの航続距離も飛ぶ。加えて欲張って、速力と火力を大きく向上させた。それらを実現する設計アイテムとして、引込脚と全閉式風防、主翼内には20ミリ機関砲を備えることになったのである。

 面白いのは、軽快な九六艦戦での巴戦に馴染んだ熟練パイロットたちにとって、当初ゼロ戦は箸にも棒にも掛からない不評だったという逸話である。身の軽さが身上の現行九六艦戦なのに、最新装備で鈍重になったゼロ戦は、改悪にしかなってないと。実際、九六艦戦とゼロ戦の模擬空中戦では、九六艦戦が圧勝したハナシが残っているようだ。
 護衛出撃の初日、ゼロ戦隊は計画通り爆撃隊を護衛して四川盆地にまで到達、爆撃作戦は首尾よく遂行された。だが護衛戦闘機隊の存在をどこか手前で見つけられたか、あるいは事前に情報が洩れたか、中国戦闘機群は迎撃に来ないどころか、飛行場にも駐機が全く見当たらなかったという。

 数度の肩透かしを食らった後のある日、ゼロ戦隊は爆撃隊と連れ立って帰投したと見せかけ、敵地上空に引き返した。
 戦力温存のため一時退避していた中国戦闘機群は安心して別空域から帰還してきたところ、まさかの意表を突かれた格好でゼロ戦隊の餌食となり、30機以上があっという間に全数撃墜されてしまったという。
 そもそも開発時期の新旧があり比較しては可哀想な階級差なのだが、対九六艦戦の模擬戦で不評だったはずの運動性能は当時の航空技術で十分すぎる水準にあり、この時のゼロ戦隊の損害は2機被弾のみという圧勝だったらしい。爆撃作戦の経路をいったん引き返して空中戦をやり、もちろん全機帰還したということは、そこまでやってなお燃料残量に多少なりとも余裕があったということになるのだ。

 この時代、空中戦の定番イメージが世界共通としてどこまで固まっていたのかは判らない。ただ信じられない長距離を一跨ぎに飛んで来てはケタ外れの機動力で暴れまわり、応戦しようにも歯が立たない大空の脅威として、ゼロ戦は連合軍に恐れられることとなった。
 お互いの未知や、多くの偶然にも助けられていたはずの大戦果、だが日本軍のアタマはこの成功体験を忘れ去れなくなり、変遷していく技術と戦法の移り変わりに追随できないまま苦境に落ちて行く。
 タイレルP34【81】とは別の形で、技術のあり方を改めて考えさせられる事例なのだ。

 で、この御時世に、定数6増なんて到底マトモな思考回路ではない、認知症による妄言だろう。これが民意だ。
 まずはあらゆる手段の徹底抗戦で結構、引き続き頼む野党たち!連日お疲れさま!
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