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【1326】訃報に学ぶ情報走馬灯の次シーン [ビジネス]

 早いもので今年も年末が近くなってきた。
 バタバタし始める前に、皆さまにひとつお知らせがございます。

 長らく御世話になっていたこの『SSブログ』がサービス終了するとのことで、今月中旬には『SeeSaaブログ』への移行ツールがリリースされる予定になっている。
 移行期間中の公開ビューの見え方や過渡期の閲覧操作がまだわからないのだが、

<ツールの利用で移行されるデータ>
 ・記事
 ・コメント/トラックバック
 ・記事中で使用しているファイル

とのことで、まあウチとしてはテキスティング記事が移動できればナニも問題ないはずなんだけど、SSブログの現サイトは2025年3月31日(月)12時をもって表示されなくなるそうなので御承知おきくださいませ。
 そして今後とも、引き続きの御贔屓・御愛顧をよろしくお願い申し上げます。

 さて通常モード再開とするが、兵庫県政はもうぐちゃぐちゃ、今もってバレバレの固有名詞をイミフに隠され続ける『PR会社』とやらは、過去の知事選関連の投稿履歴を消すわ書き換えるわエライことになっているようだ。何でそんな面倒なことするかねえ。
 いっぽう県議会は『知事不信任』の議決をうやむやに誤魔化してなかったことにするかの雲行きになっており、こんなお互い信用ならない人員体制で県の運営が果たして可能なのか、驚くばかりの行き詰まり方である。
 まあ兵庫県民の皆さまは、快適な県民生活の自己管理をどうかお大事に。

 こんな機会にカコつけるのも気が退けるのだが、緊急企画でエンタメの話題である。
 中山みぽりんが亡くなった。54歳は早いなあ。

 確かまだ私が学生だった頃に人気が出て、盛んに見かけるようになった人だと記憶している。私が大学の研究室で夜な夜な飲み明かし、製造業の新入社員として連日真夜中過ぎまで仕事に明け暮れていた時代だったため、いわゆる『トレンディドラマ』の方はさっぱり観ておらずまるで詳しくない。夜の9時10時なんて、二十歳そこらのオトコが自宅にいる時刻ではなかったのだ。
 大学時代に友達の誰かが借りてきてどこかの研究室の実験記録用デッキで観た裏ビデオのBGMが『WAKUWAKUさせて』だったのをよく憶えている。もっとも合唱しているのは、歌手でも何でもない野良男性数人のダミ声であった。

 当時のことなので映像・音響制作の一般向け機材が存在しておらず、恐らくは撮影スタッフ陣がそこらへんのカラオケボックスでこの曲を繰り返し連続でリクエストし、ポータブルカセットででも録音したものだろう。まだ重くて高価だったハンディVHSカメラで本編を撮影するにあたり、現場の傍らでそれを再生してBGMにしていたものと思われる。そのぐらいしかできなかったんだよ。
 今みぽりん嬢の追悼シーンとして流される昭和から平成初期の歌番組の映像だが、楽曲コンテンツ制作の好きな人は、それと解って注意して、彼女が通り抜けてきた時間の技術環境に想像力を拡げてみていただきたい。

 今じゃ映像も音響も自宅パソコン…いや手元のスマホで作れてしまう時代になっていて、会場ステージセットもビジュアル機材も音響機材も必要ない。大まかな作詞作曲の骨子さえ組めれば、音楽理論的な辻褄整合なんかも自動的に解決できてしまう。
 要は、もともとのライブ・パフォーマンスの現実が発信源として存在しなくとも、それらを情報化した結果系の動画と音声だけ作れる技術が確立しているんだな。確かに『視聴覚』とくくられる五感検知域で受信される『情報』としては、自動化・機械化の工程だけでほぼ完成できるとして過言ではない。
 だとするとライブ・パフォーマンスの本質的な固有価値は、この『視聴覚情報』以外のゾーンにあるはずで、やるんなら解ってそこを狙うのが正攻法ということになる。

 随分前に、自分自身がパフォーマーの一人としてお手本に学ぶにあたっては、ライブステージの最前列で『そこに起こる現実に直面しておく』のが良いと述べた。今もまったく同意見だが、その場で具体的に何が伝わってきて自分が受信しているのか、誰もがはたと手を打つ解りやすい説明を思い付けていない【15】
 だが例えば演奏や演劇などのライブ・パフォーマンスを鑑賞して、まずは鑑賞それ自体を『楽しい』と感じたり、あるいはより深く、その劇中の出来事に感情移入して喜怒哀楽に同調したりする時、何か特別な認知アイテムが介在しているのではないかと思うことがある。
 『甘味』『苦味』『酸味』…などに加えて『旨味』が発見された、みたいな…なんて例えたら、余計に解りづらくなるのかな、やめといた方が良かったか。すいませんね。

 “Starship Troopers”『スターシップ・トゥルーパーズ』という米SF映画がある。
 今ちょっと調べたら1997年の作品らしいので、もう30年近く前ということになるのだが、人間を脅かす地球外生物として登場する巨大昆虫群のCG映像に圧倒される一本だ。
 この作品が日本国内で公開されるにあたり、某所の大型ショッピング施設で無料展示会のプロモーションをやっているところに偶然行き合わせた。
 なかなか気前の良い内容とボリュームで、その割には何故かガラガラに空いており、完全に初見の予備知識ナシで、本作のCG映像のアイディアスケッチや3Dデータ作成過程、特撮機材や撮影手法など数十分かけてじっくり閲覧できたのを憶えている。

 その展示品のひとつに、実写シーンで使われたとされる、銃撃で穴だらけになった巨大昆虫の死骸のモデルがあったのだ。最も頻繁に登場する、バッタとカニと洗濯バサミを掛け合わせたような姿の、凶暴に走り回るヤツである。
 実物大スケールに合わせて牛馬級の大きさに造られたものだったのだが、いいトシした私でも正直『怖い』のなんの。足も何本か折れて、そもそも死骸なので動きも光りもしない造りなのだが、会場の展示レイアウト上コイツに背後を取られる立ち位置になると、どうにも気が気じゃないのである。
 理屈では何の危険も無いと判っていても、見なけりゃ済むし不穏な物音も聞こえないのだけれども、どお~しても、そいつがこっち向いて後ろにいるという『気配』が我慢できない。よせばいいのに振り返ると、ガチの真剣にやっぱり怖い。

 あの『気配』は、視覚と聴覚で受信する『視聴覚』と同列の『情報』なのか?
 それとも自分の意識内の世界モデルに噛み合わせて自覚する『現実味』とでもいうべき、五感入力から独立した特別な情報処理が脳内回路を走っているのだろうか?
 ライブ・パフォーマンスの場面で心揺さぶられるたび、頭をよぎるのである。

 何をどうよじったのかよじれたのか、ここ最近のイカサマ選挙のドタバタ混迷にカコつけて『SNSが悪い』つまり『情報が悪い』『通信手段が悪い』と指差して言いたげな、的外れな痴呆議論の口火がしつこくくすぶり続けている。
 世に溢れる情報を取捨選択して実行動を意思決定するのは結局『本人』なのだがね。

 昭和・平成の時代に登場して第一線で活躍してきた、日本社会の誰もが知る有名タレントの想い出は、日本社会の誰もが『情報』について正確に考える思考力のきっかけにして、広く未来に役立てよう。
 ライブ・パフォーマンスとエンタメ視聴覚情報の更なる進化にグッドラック!
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