SSブログ

【961】信用の大喧嘩vs笑顔の握手の裏含み [ビジネス]

 うん、まあゴタゴタしてるけど、みんな落ち着いて判断すればよろしかろう。
 五輪はやる…というかやめると言えないままその日を迎えるだけだろうし、注射は打ちたくない国民しかいないんだから、どんな大風呂敷を拡げても反応があるワケも無く、いずれ静かになる。

 思い起こせば、古電球がソーリ大臣ってことになってたんだよな、みんな忘れてるんだけどさ。いわゆる『政権与党』という一派が存在して、『国会で過半数を取れる』という立場を『日本社会を好き放題にできる』と勝手に読み換えて、世間知らずの傍若無人に振舞っていたワケだ。
 まあ我々国民としては、こいつらがナニをどう騒ごうが興味も無いし、ほかっときゃいいじゃん。あとを見てそこから考えましょうや。

 『政権消滅』である。

 どこぞの田舎町で、おかしな注射を子供に打とうとして苦情が殺到、業務停止に追い込まれたという。農業にしても工業にしても特産品も無いような田舎町だと、地元社会を切り回すための財源は中央行政に頼らざるを得ないから、もしかすると田舎町の側から率先して跪き子供たちを生贄に差し出す忠誠心を演じたのかも知れない。とにかく、しっかり日本社会の世論が抑止力を働かせて、将来のある若い人たちにこんな非道の隷従を強いるようなことにならなくて良かったと思う。
 確かに子供たちの日常生活の整備にも関わる地元財源の確保のためだという言い訳は立つが、将来世代の健康をオトナ都合のカネや権力と引き換えるなど、絶対にやってはいけない。倫理道徳云々以前の生命原理的なゾーンの話として、組織を成す構成員の健康維持に対する意識をきちんと持てないと、組織そのものが滅びて消える。こんな事を決めるのは、町長不適格というより、組織運営に関与してはならないタイプである。

 既にここまで腰砕けになり、1億2千万人日本社会に見放されたポンコツ政権にすがったところで、マトモな見返りなど期待しようも無いだろうに。長らく政権政党の紐付きコミュニティとして餌付けされ生かしてもらってきたからといって、政権の敗色を承知の上で尻尾を振って加勢して見せたつもりならなお悪い。

 見て判るだろう。この政権組織は、もう『負けが込んでいる』のだ。
 もう日本社会に向かって何を根拠に掲げて強気をアピールしてみても、組織生命体・日本社会は耳を貸さない・相手にしないで腹を決めてしまった。あとは日本社会のどこからどんな順番で、この政権組織と縁を切っていくかだけの展開である。
 五輪もコロナもイチ抜けニ抜けで関係を断ち切っておかないと、逃げ遅れれば逃げ遅れたぶんだけ、手負いの敗者が死に物狂いでまとわりついてくる粘度は高くなる。今の法律、今の権力、今の決まり事で、良い目を見させてやるからと、邪心いっぱい手段を選ばず『もう終わった組織構造』を主張しながら、逃がすものか、見限らせてなるまいとしがみついてくるのだ。うわあ~キモっ!

 例え法律といえども、所詮は人間が『こうしよう』と決めただけの情報に過ぎず、『こうしよう』と思わなくなったらその時点で意味を失う。だから法律というものは、どうでも良くならないように意識して運用する必要があると述べた。
 日本社会の圧倒的多数にとって、もうどうでも良くなったハナシを、どうでも良くした張本人に蒸し返されても、迷惑で不快なだけでしょうが。
 一方どうでも良くしたヤツだからこそ、『決まりなんだぞー、みんな言うことを聞くルールなんだぞー』と何度も何度も何度も言い張って、居直り続けようとする。

 程なく一気に雪崩を打って総崩れの様相となるのは想像がつくだろう。逃げ遅れると、もう幼稚園児も聞く耳を持てない馬鹿馬鹿しい三文劇に、あざ笑われ忌み嫌われながら真顔でその一味として晒されなければならない。
 日本人は『みんな海に飛び込んでいるから』という理由だけで『自分の命の安全も考えずに海に飛び込む』とされる、世界的にも珍しいくらい思考停止で組織に同調できる人種なのだが【860】、だからこそ組織がその作動を狂わせたとき、個々人が腹の底ではみんな手のひらを反す潜在的な疑問や不満を極限まで溜め込みながら、暴発を待つ流れになりがちなのである。

 注射なんぞ何本打っても『コロナ死ぬ死ぬ』
 真夏のマスクで熱中症になって死んでも『コロナ死ぬ死ぬ』
 あほですかアンタは?

 どっちも、本気の本気で胸ぐらつかまれて包丁なり銃口なり突き付けられて真意を確かめられたら、『真実でないと知りながら、みんなに合わせるためだけ』を白状するんでしょ?…ってことは、その腹を抱えて、かつての日常だった経済生活を失って、不満と不安で内圧パンパンだよな。
 今たったひとりでこれを読みながら同意しているアナタがいるんだが、きっと他の人も同じことを考えると予想がつくのなら、近々この政権勢力の行く末はもう決まっていると考えて動き始めた方が断然賢い。

 ちょっと思い出していただきたいのだが、大阪都構想の住民投票で、仮に少々の小細工なんかが紛れ込んでしまう余地があったのだとしても、組織の物事がそっち方向に動く時には、もう誰も抵抗できない勢いで、あらゆる雑音・外乱まで押し流してそっちに行くはずだと述べた。逆にそこまでならなければ、拮抗する相反二勢力の軋轢が無駄な内部摩擦を生み結局は失敗に終わるとも述べた。
 『機が熟していなかった』というやつであり、とにかく僅差の否決という結果が出たのは、大阪府市組織がまだ昨秋時点で十分その気になり切っていなかったことを示す。
 慌てても急いても、何ゴトのどんな都合があっても、現実がついてこないものはついてこない。そこ基準から物事を考えねばならないのだが、何も音沙汰が無いとこれまた組織というのは厄介な生き物で、新鮮な興味の印象だけを褪せさせて飽きてしまう。昨秋にあそこまでやっといたのは大正解だった。

 私はここで何度か『場を荒らしてはいけない』と言っている。
 物事ちゃんと相手がいて組織があって動いているのだから、理屈抜きの倫理道徳抜きの、つまり相手の存在を無いものとした自分一方的な感情の発散はやめろという意味である。少なくともその場は、もうコミュニケーションの対象として扱ってもらえない立場に、自分を追い込むことになるからだ。
 だが『納得できない表明として怒る』のはむしろ、もっとガンガン怒って構わないと思っている。というか、多くの日本人は、反対や不満をきちんと表明できていない。

 そのままあやふやに場を流してしまい、後処理に我を通すようなことをするから、欧米人には『何を議論しても誤魔化して逃げ帰り、日本人集団で群れて強行に出る』と嫌がられたりもするのである【313】
 いっぽう日本人としては、怒り=同調拒否の意思表示をいきなり『相手に寄り添えないワガママ風の幼稚性』に直結させてしまい、これはこれで『感情的』という表現でもって欧米式の意見の衝突を見下すようなことにもなっている【82】
 組織の自我に対して、どんな態度で訴えかければ制止や方針変更の効果が期待できるのかはその時々だと思うが、とにかく自然に展開している現実に蓋をして、内圧を高めながら一見無難にやり過ごすという日本文化の特性は、このコロナ禍の時代において途方もない損害を出す弱点となっていると思うのだ。違うか?

 お互い顔色を窺いつつここまでやっておいて『自分で自分の首は絞めたくない』『あり得ないことを真顔でしゃべってバカと思われたくない』みたいな、人間としての自然な感覚はみんな備えている、それが日本社会だ。
 『今はみんなバカに調子を合わせているから、滑稽でもその大衆とケンカしたくない』の一線が切れた瞬間、溜め込んだフラストレーションと現実の不整合が大雪崩を起こす。逃げ遅れたら『四面楚歌の完全ガイキチ空論を口走りながら、自分で自分の首を絞める晒し者』の屈辱ポジションが待っているのは、考えなくても判るだろう。

 ま、960回ぐらい余計なことを考えず見たまんまの事実を思うまんまの素通し言論で発信していれば、この世に十数人の御贔屓さま方を相手に、何の心労も無く961回目の好きな言葉が自由に吐けるというハナシですよ。いつも御覧いただきまして有難うございます。では肩の力を抜いて、グッドラック!
nice!(9)  コメント(0) 

nice! 9

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。