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【825】納期不明の『安全安心』保険料請求書 [ビジネス]

 今般の新型肺炎の流行拡大の件、いろいろと大変なことにはなっているが、まずこれは『誰かがちゃんとやっていれば社会的な問題にならず、すっかり無事に済んだはず』のものでは絶対にないことを確認しておこう。

 エマージング・ウィルスによる『突発性』の感染症流行なんだから、そもそもが構えの無いところにガツンと来るのだ。ズバリ初対面の未知の病原体ありーの、いつだったかどこだったかのヤバい遭遇の記録はあるものの日常的には完全なる他人事になっちゃってる病原体ありーので、いずれにせよ構えが手薄になるくらいだから相応の疎遠さにはなっている。ある日そいつが不意討ちをかけてくる。
 こんなものに無限の想像力で普段から予防策を布き始めたら、想像力が膨らめば膨らんだ分だけ、掛け捨ての保険を青天井で積み上げていく破滅型心配性の社会風潮に陥ってしまう。元々が『ここまでやれば一応大丈夫』の及第点ラインがはっきりしないものなのだ。
 『オマエ、結局は自分に当事者意識が無いから好きなコト抜かしてんじゃねえかよ』と批判されるのは承知の上で、危機的感染症パンデミックの損害は『いざ現実のものとなったら、どうしようもない』が原則だ、と言い切らざるを得ない。

 恒例のちょっと横道を挟んでおくと、これは自然災害を相手にした『防災』も同じことだ。
 『防災』というコトバは結構タチが悪く、『防災』の金科玉条の合言葉のもと、『かけがえのない人命や財産を守るため』と理由付けてしまえば正しく美しい日本語の文章はいくらでも組めるのだが、だからって実現性や採算性の概念が別次元に消えうせることは絶対にない。日の目を見ない大規模公共工事や、ビフォー・アフター何の効果代も無いやり散らかしアイテムは、この世の現実の所業の結果として何の意味も持たず、全てはただの損害に終わる。
 まあこの類は『まぐれで一度でも効いたら大喝采の救世主』『不運が重なってでも効かなかったら無駄な粗悪品』の製品寿命を送るので、宿命的に結果論としてしか語れないワケだが、だからこそ我々は徹底して費用対効果に冷徹でなければならない。
 社会組織がオオヤケ事として扱う機会が多い『防災』なる活動において、同時にその社会に流れる『経済』という概念の空間を維持するつもりならば、確実に採算性を成立させなければならないのだ。維持管理費およびランニングコストまで含めてかけるべきはかけ、いざそれが本当に必要となった被災の局面で、意図通りの現実を巻き起こして『防災』の効果を発揮する保証がされなければ、所詮ただのママゴトお遊びである。
 自然災害の来襲も、基本は『どうしようもない』のであり、だからこそ『防災』はその実効頻度と実質効果を計算し尽くしたシビアな採算性・実現性をもって、安定的に社会で維持できるモノであることが絶対要件となる。

 さてハナシを病原体感染症に戻そう。
 どうしようもなく起きてしまった感染症流行の勃発に対して、何よりまず『採るべき対処の現実解を、最短時間で動かす』という目的事象それそのものは明確である。起きたのはしょうがないから、いかに対応が速いか。
 わからない専門領域のコトはわからないままにケース・バイ・ケースになっちゃってやむなしとして、常識的な知識を組み合わせてやれる限りのコトは、ありったけのコトをやる。これが現実だろう。
 実はその局面に向き合いこの課題事象だけポンと与えられて、そこらへんのあの人とこの人、技術職と営業職、若者と高齢者、オトコとオンナで、具体的行動規範が違ってくるということは、まずあり得ないはずなのだ。まあ子供と言われる年齢のうちにはインフルエンザが巻き起こす社会現象を体験するだろうし、目に見えない『バイキン』がどこでどう自分らに侵入してくるかも一度は考えるだろうし。
 要は、感染拡大を防ぐためにやらなければならないコトは割と誰にでも簡単明瞭に判る、だがそれをかっちり守るには、自分を含めて誰かが果てしなくつらい思いを強いられたり、工面の目処が到底立ちようもないカネがかかったり、大切な上客を手酷い囚人扱いにするしかなく後々に死ぬほど面倒くさいことになる心理的重圧がのしかかってきたり…これがネックとなるのだと思う。
 他人事だから言えちゃうんだけど、人間の気分の問題、都合ばっかりじゃん。

 少なくとも感染症流行の初期段階において、その後の拡大を最小限に抑えられるかどうかのカナメは、『必要と思われる対応策を、人道を捨て問答無用で強制できるか否か』にかかっていると断じてあながち言い過ぎではない。そこには人権も社会的地位もない。法律も良識もない。
 何しろ、かかったら、やられるのだ。ガチで人命が危機に晒されるのである。

 こんな時人々に強制力を主張できるのは、主張してみんなが本気でその必要性を認め従うのは、医療現場の衛生管理や発症者の対症療法に関する知識を持った専門職の人たちであろう。
 いま現在進行中の本件を見ながら気になるのは、『かかったら、やられる』という防ぎようのないガチンコ脅威に対して、医療現場の判断力が、法律だナンだのたかが人為的な情報処理に優先されることもなく、いかにも不明瞭な能力不在・責任不在のなりゆき意思決定で物事が動いているように見えることだ。

 気になるのが、例のクルーズ船の内情が動画でネット公開されたはいいが、その動画が後すぐに公共閲覧の場から削除されているというハナシである。
 そんな特殊環境の出来事を一般社会空間の日本国民にばら撒いて不安を煽っても建設的な展開は望めない、一度内情を知らしめたらお役御免…という理屈は確かに成り立つとは思う。だが、現場の意思決定の仕組みが確立していなかったがために現場がどんなことになっていたかの現実の記録は、やはり人目に触れるところに置いておいて良いのではないだろうか。

 ちょっと他の事柄の動向も経過観察した上で合わせて述べたいので、今回はここまで。人間どもの願望などとは無関係に、率直なこの目前の現実に対する見解として、まだ流行は拡がると思う。
 皆さま、くれぐれも御用心を。私も気を付けます。
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