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【784】大喝采ブランド・トランジット跨ぎの風紀委員会 [ビジネス]

 やれやれ、本来ならもっと技術系のハナシや医学系のハナシをたくさんしたいところなのに、結局まだ国政の話題とせざるを得ない。
 大衆=社会組織の自我に『鏡に映った自画像』として見える世論、つまり公共言論のトレンドとして飛び交う情報が『この狂った現状に緊急停止をかけ、修正に舵を切れ』の一般解にまでなっていないからだ。

 『今日から生まれ変わったキモチで、スッパリこうしましょ!』と決心した段階では何も変わらず、努力の成果にせよ偶然の流れにせよ『ん?自分ってこんな人間だったっけ』と気付く段階に到って、初めて態度が改まるというか、ジブンの稼動モードが別プログラムで走り出す。言われて思い当たるフシがあるでしょうよ。ここまで持って行かないと、個人も組織生命体も風土・体質を改められずに三日坊主でオシマイである。
 面倒くさがられウザがられながら、それでもちゃんとやっとかないと、かけがえない組織に一大事が及ぶとなれば、徹底的にしつこくみみっちくチクチク・ミチミチと修正の必要性を発信し続けなければならない。組織風土管理とは、ばっさばっさとカッコよくコトを捌いていく豪快さも無ければ、周囲から讃えられ拍手喝采と声援を受け笑顔で感謝される華やかさも無い。
 そこに面白さを見出すような組織観で孤独に遊べないタイプには、なかなか務まらない。

 さて何だかんだで9月も大詰めになってきたワケだが、国民個々の生産力を供出して国力を形成するための税制システムが、大崩壊を迎えようとしている。
 何しろ誰がどんな手順でおいくらを供出するのか決まっていない。
 その方策と手順にしても、国民全員に均等な機会が与えられたものではない。
 このままでは国民が納税する意味を見失う。
 そうなると非・協力的な意識で生きる国民から、敵視されつつ税収を何かのカタにむしり取る構図となるから、日本国財務が将来的に財源の質を落とす展開を呼ぶ。
 今いっときの混乱だけでは済まないのだ。国家組織が衰退・滅亡に向かうこととなる。

 強盗でも窃盗でもそうだが、直前で思いとどまれば社会の信用は失われないものだ。
 生活苦だとか怨恨だとか、そんな動機に到った原因を解決する課題は丸まんま残るけれど、それは気を取り直して違法行為や犯罪にならない範囲で処置を考える限り、誰も何も文句言わない。
 もしアナタが標的を決定済みで道具もひと通り揃え、犯行計画も現実的なセンで綿密に練られたものを用意していて、遂にいざ相手と直接の御対面!…まで行ったとしても、相手の顔を見た瞬間に『あ、ども。コンニチハ、お元気ですか♪』の挨拶に切り換えて帰ってくれば、個人的には平穏な感情の結末じゃないのかも知れないが、その後もアナタは一般的な信用のもとに暮らすニッポン法治社会の一員のままである。

 これが一線を越え、レジの店員さんに『カネを出せ』と刃物を突きつけちゃったり、ひとん家に侵入して財産をくすねて持ち出しちゃったりしたら、直後に『やっぱりさっきのはイケナイと思います。元に戻しますので、無かったことにしてください』と慌てて訂正にかかっても社会では認められず、更生と贖罪をもって後処理をする流れとなる。どんなに後悔しても、前科一犯の履歴は覆らない。

 いま『この税制は法律だから』という言い訳でここまで来てしまっているんだろうが、ならば法律だからという前提で、いま発生している『アクション待ちの国民共有課題』について解説しておく。

 そもそも『法律』とは国家の擁する社会組織において、主権在民の基本原理のもと『国民の過半数が賛成し、その文意に従った行動規範で暮らすことにしよう』と定めた日本語情報なのだ。
 現時点の経済現場の実情を観察するに、『国民の過半数が賛成』している訳が無く、『文意に従った行動規範』をやるにも文章に実現性が無さすぎると見受けるのは、私だけではないだろう。

 コトここに到った経緯は一切不問にして、ともあれ今般の『税制改変』とやらが、法治国家における法律の要件を満たしているのかどうか検証する作業が、いの一番に実施されなくてはならない。この現実を無視した、政府の一方的な施行宣言の事前に、である。
 法治国家組織には『国民全員で共有する、共有して良いと思える規律概念』がまずあって、それが言語情報として明文化される作業を経て、初めて『法律』となるのだ。
 『法律でもないモノを国民に無理強いしたところ、社会がメチャクチャになりました』という当然すぎる愚行は、文明国の運営層がやってしまってハイそうですかで許される事実経緯のプロセスではない。

 私が『犯罪者政権』というコトバを使っているのは、もちろんガッコ絡みの贈収賄や財務局職員さんの殺人など実際その事実があるからなのだが、もうひとつ大事な意味を含ませている。
 『日本国社会組織全体にとって、やってはいけないと認識される誤作動』に対して、『いけないからには絶対やらない』の一線を守り切る不文律堅持の精神力が足りていない欠陥性をも指したつもりだ。
 この一線を越えて1億2千万人社会組織を裏切る反・社会性をもって『非国民』という表現も使った。

 社会組織の一員として生きる人間がその組織性を維持する最後の一線、それは『残りの人生で良いコトがある』という幸福な可能性の存在感なのではないだろうか。だって一線を越えて踏み誤ってしまうと、いずれせっかく訪れた幸福に浸れないからだ。
 逆に、『もう本当にどうしようもない、自分の力の限界では、このつまらない人生に手の打ちようが無い』と絶望の精神状態に追い込まれると、将来を夢見て守る一線があやふやになる。

 犯罪心理学の専門家の方々には研究をオススメする。ちょうど一人の人間が犯罪に手を染めにかかる心理が、今日の現・政権の姿なのかも知れない。

 絶望の精神状態と聞けば、まるで物語のような不運に見舞われ続けた悲劇の主人公を連想してしまうが、果たしてそうだろうか?
 おのれの力不足により満足度の低い人生に甘んじてきた高齢者は、ある時点で人生大逆転の動機を放棄する言い訳として案外カンタンに絶望し、いくらでも自組織への恩義を裏切って本質的犯罪への一線を越えて来るのではないだろうか?
 これが私の提唱する『組織認知症』の発生起源である。
 この発症レベルまでパフォーマンスの落ちた個体は、もう組織を成して組織生命体の姿で生きてはいけないため、必然的に組織と自分の信頼関係をつなぐ一線を絶ち切って墓場へと消えていく。
 『組織性生物』人間の個体寿命の末路として、理に適ったものではないかと思うのだが。

 おっと良い分量になっちまったか。記念めいた内容じゃないけど今回はこのへんで。
 『SSブログ』に移行してからも、過去ログ含めて丸ごとキャリーオーバーになるそうだから、全てはこのままの積算にて、今後ともよろしくお願い申し上げます。
 長らく御世話いただいた『so-netブログ』ブランドに心より感謝をこめて、また次回!
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