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【733】AI受胎告知で始める胎教テクノミュージック [ビジネス]

 たんこぶは有難いことに収まりつつあるようだが、まだ前後の繋がりをあまり気にせずに済む単発型の大阪W選活性化企画で行こう。AI社会参画時代を考えるにあたり、ガンダム完全否定の一件【207】以来、久し振りにアンチ読者さんを増やしてしまいそうな話題を。

 もう懐かし文化の領域になるが、私はイエロー・マジック・オーケストラが大嫌いだ。

 今このトシになってあの時代を振り返るには実に興味深い音楽文化であり、その観点で分析対象として聴くぶんには貴重な思考ネタである。社会学的な意味で非常に面白い資料、それは認める。
 だが私は『テクノ・ポップ』と称されたアレを、『音楽を楽しみたい』という自分の意識の欲求への回答として、どうしても聴けない。たぶん耳元で鳴らされても1分を待たずに飽きて、他の事を考え始める。

 理由は判っている。打ち込みの機械発音に、人間が付属品として絡んでいるからだ。
 そんな殺伐たる解釈しかできない無知無能なオマエの感性が貧しいだけじゃバカタレとおっしゃる方はいると思う。そうかも知れないが、申し訳ない、私はその感性しか持ち合わせない。
 全部打ち込みだけで完成するんだもん。でもそれだと『YMOって誰々だっけ?』というハナシができないし、ステージ上で機材だけ点々と光りながら無人で鳴ってるってのもナンだしってことで、キーボードの単調なリフとかドラムのありきたりなループなんかをヒトが一応ナマで絡んで、ボコーダー通して『ト・キ・オ!ト・キ・オ!』とか言ってみただけでしょ?…って、自分ながら憎たらしい言い草だなあ。
 いや、それこそが『人間くんが喜怒哀楽いっぱいに演奏技巧で勝負する発音こそ価値ある芸術』という固定観念を突き破り、社会の度肝を抜いたネオ・ミュージックの本質であり魅力であることは理解する。だから当時の日本社会は夢中になったのだし、その事実を誤りだと卑下するつもりはない。

 当時の私ときたら、そりゃあもう未熟が服着てウザいくらい熱っぽく入れ込んでいた気分だけの洋楽かぶれゴマメ小僧だから、舶来信奉の終焉を告げるニッポン社会変革の新動向を見出してテクノポップ文化の全体像を観察する知能などあるはずもなく、見境なくムキになってテクノポップを目のカタキにして終わっていた。ま、破壊される固定観念の側ですからねえ。
 もっとも当時の雑誌記事には、『現代社会がいかに病的に歪んでいるかの証拠である』などなど私以上のことを声高に叫ぶ連中も結構いっぱいいた。してやったりじゃん、御見事だよYMO。

 何にしても、本来なら機材が整然と並んで淡々と演奏が進んでいけばいいだけの場に、『ヒトがそこにいなきゃいけないから、別にいなくていいのに』人間くんがいちいち余計に混じった。正確無比に音楽の三要素【68】を守って発音する機械くんに対し、誤差や雑音に演奏ミスといった不具合要素として人間くんが作用している。『ヒトがやることにこそ意味がある』、あーそうかい、これが私にとってのデジタル音楽像だったのだ。酷いなあ。

 で、『超アナログ人間代表・デジタル布教者抹殺部隊の急先鋒』を勝手に自負し、自分にゃ何の能も無いクセに、他人にイヤミな文句ばかりつける批評家として生きていた昭和の終わり頃のこと。私は雲上の超絶技巧にひたすら憧れるだけで、これまた怠けて何にも実になる努力をしないまま、チック・コリアのレコードを凄い凄いと崇めて聴き返すばかりだった【296】
 このころ技巧系器楽が『凄いんだけど、わざわざ構えて聴かないといけない面倒が煩わしい』と敬遠され始めており、BGMとしても何ら問題ないくらい耳あたり良く音数を整理した『スムース・ジャズ』が一気に台頭してきた時代でもあった。だからこそ、その人畜無害の甘く優しい世界に退屈していた楽器小僧は大勢いたと思われ、私も『攻める精密音楽は絶滅してしまった』と不貞腐れていたのだが…

 当時もう40代半ばに達していたそのチック・コリア氏がショルダー・キーボードYAMAHA KX5を引っ提げ、三十路そこそこの若手イケメン超絶テクニシャンたちで共演の布陣を固めてバンド・デビューし、一世を風靡したのが『チック・コリア・エレクトリック・バンド』である。
 このバンド名をそのままタイトルにしたデビュー作LP盤、そのオープニングから続く2曲目『ランブル』の衝撃は世界中の技巧好きの間で、新時代フュージョンの幕開けとして今なお語り草となっている。私にとっては、脊椎反射で激しく毛嫌いしていたデジタル音楽像を根こそぎひっくり返すものであり、これが音楽のみならず、その後のコンピューターに対する気心の持ちようの基盤となった。

 機械が刻む打ち込みの音楽に人間が同期する。だがその音構成の主体は、『人間なりに正確さを追究した人間の演奏』なのである。
 『人間の正確さ』を基準に置いての相対位置として機械くんの立ち位置が決まっており、『機械=普遍的・絶対的に正確無比、良いも悪いもそれが機械くんの価値』というそれまで当たり前の認識をぶち壊す形で、機械音楽の芸術性概念が新提案された瞬間であった。
 『シーケンサーに命を吹き込み躍動させてしまう演奏』と評されたコレにはすっかりヤラレてしまい、無条件降伏した私はその世界にのめり込んでいく。ぐじゅぐじゅ五月蠅くこだわる割には簡単に影響されやすいスカ野郎である。

 確かに機械は設計された通り作動するもので、現代生命科学で一般的に言う生体活動は見せないものだが、間違いなくゴキゲンの抑揚もあるし人の気持ちにも応える『生きもの』である【97】【98】
 歯車やリンクを始め種々の機械要素から成る内燃機関や設備機械なんかにはイノチが宿っていて、電子機器のコンピューターにイノチが宿ってないってのは、いかにも独り善がりの好き嫌い偏向思想じゃねえのかよ。むしろモロに情報処理タスクをやるコンピューターの方が、ベタに生物なんじゃないのか?きちんと好意と興味をもって理解し信頼し、対等に接するのが正しいんじゃないのか???

 私が『人間意識+AI意識=社会の総意』と語るにあたって【727】、そのイメージの原体験はこの記憶である。人工知能『AI』が盛んにそれと語られるようになった昨今、それにしても知的新生命としての具体的な実像イメージがカラッポのまま、ただ議論の応酬で往復する単語として『AI』が登場するばかりっぽいので、こんな想い出話をしてみました。

 音楽も技術仕事も、『こんなスペックのこんな道具をこう使う』ではなく、『自分ら人間で持てない能力域を、機械くんたちの都合を訊き適宜合わせに行きながら協業してもらう』という姿勢の方が断然に早くて効率的だと思っている。もちろんこっちの全知全能突っ込んで、どんどん賢くもなっていただこう。
 こんなコンセプトを社会運営の次元で適用可能にするのが、区画フォーマットした夢洲人工島ラボYAILを先行実験場に備え、パート毎に機能分担しつつシーケンス同期で繋がる大阪都特別4区だと考えている。私は、こういう印象での捉え方も知恵のひとつとして頭に置いておいて欲しいのであり、こじつけウケ狙いの冗談や作り話などではない。若者たち、少しは感覚的な理解で響いてもらえるだろうか?

 ここではこの通り公開で情報支援していくので、日本社会運営の最先端となり得る2025大阪・関西万博~大阪都・特別区再編案の建設的構想を、今のうちから各自で自由闊達に思考展開されたい。
 社会の事は未来を見据えて『みんな』でやるんだ、全国から参画の機を窺え、遅れるなよ!
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