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【664】遠くギラつくセピア色の猛暑 [ビジネス]

 まず失敗と修正の御報告から。先週まで、一時期タイトル連番が違っておりました。
 本来【660】とするべきところを【670】と打ち間違えてしまい、それ以降の連番が10ずれてしまっていたのである。あれれ?と思った方、失礼致しました。
 ここ最近、移動中の電車の中などラップトップ持ち出しで細切れ時間にゲリラ作文する頻度が上がっており、つい畳み際に数字を間違えてしまったものと思われる。まあそれが叶う便利な時代ゆえの失敗といえよう…と言い訳して、連番を修正して、おしまい。

 では本題。
 この季節、毎年思い出すのが初めて沖縄を訪れた時のことだ。昭和60年代、私がまだ大学生だった頃の話である。
 これも若い人には意外かも知れない。日本国の無条件降伏により大東亜戦争が終焉を迎えたのが昭和20(1945)年8月15日なのだが、そのあと沖縄は昭和47(1972)年まで米国の施政下にあった。
 早い話この私が7歳になるまで、あの島は北米の一部だったのである。米軍基地がどうたらもこうたらも、真剣に戦勝国たるアメリカ合衆国の持ち物だったんだから、そりゃ太平洋西岸の国策として彼等のやるべきことはやるさ。
 わかりやすくは、この昭和47年まで沖縄島内においては、左ハンドルの自動車が道路の右側を走っていたのだ。私は、白黒テレビが報じる沖縄返還のニュースを憶えている。もちろん返還の当日、一斉に自動車は左側通行に切り換えられたのだ。

 内地の都会のド真ん中で暮らす子供にとって、沖縄は現在よりも遥かに南洋パラダイスの異国情緒をかき立てる夢のリゾート地であった。真っ青な空と海に真白な砂浜、自分たちの生活空間ではあり得ない、信じられない自然の美に憧れたものである。
 何しろ当時の日常ときたら、校内放送が流れるや校庭の真ん中に光化学スモッグの注意報や警報を示す旗がしょっちゅう立てられていたし、電車に乗っていて河川の鉄橋が近づいてくるのがドブ臭で事前に感知されたりもしたものである。一帯の住宅地の人々は、あの空気の中で暮らしていたのだと思うと恐れ入る。

 大学生になった私は、生協が企画する沖縄ツアーの広告を見つけるや、迷うことなく参加を決めた。今になってみれば、沖縄返還からまだ10年ちょっとのことである。
 これがまた学生向けにコストを下げた結果なのか、沖縄本島で観光地を巡るのではなく、津堅(つけん)島という離れ小島の民宿に滞在し、2泊だか3泊だかでただ日々を過ごすという内容であった。まだ大手の観光業者も来ていない時代で、遠浅ではないにしろ真白なビーチが貸切状態で好きなだけ泳げる。
 いま思えば、逆にあんな贅沢な時間の使い方をするツアーはそうそうお目にかかれるものでない。日陰でも死ぬほど焼けてしまい熱を出して寝込むまでになるので気を付けろ、と言われたものだ。

 集落ひとつぶんくらいの小さな島なので、買い物は郵便局兼よろず屋さんみたいなのが1軒あるだけで、全てをそこで済ます。
 駐在所があったかどうか知らないが、まともな警察なんか見かけなかったし、潮風で錆だらけになった軽トラを小学生が運転していた。だからだかどうなんだか、島じゅうの家の塀は角が車に擦られ削られて丸まっており、まあ何というか、昭和の呑気な治外法権の1シーンである。
 漁業で生計を立てているのかと思いきや、島の主産業はにんじん畑とのこと。確かに、毎回の食事で出て来る熱帯魚たちは『不味くて完食できない』どころか、手を付けた瞬間から戦いが始まるような厳しさで、この初回にて私は『南洋で海の幸を期待してはいけない』という教訓を得るのだ。多分ジャクソンホールの鹿ステーキに勝っている【360】

 反面、ここで見た夜空の素晴らしさは一生忘れないと確信している。空気が澄んでいるため水平線ギリギリまで天頂と変わらない星空が拡がり、ギラギラと光の粒をまき散らすような航跡が見えたので、誰か花火でも上げたのかと思っていたら、別格に派手なだけの流れ星であった。
 道中の船のデッキで見飽きることなく朝まで眺めた夜空と共に、文句なく私の星空ウォッチング歴で生涯ベストの想い出となっている。島で夜に外出して浜へ出るにあたっては、ハブのいそうな草むらに注意を払う必要があるのだが。

 津堅島に渡る前段階の沖縄本島まで本土から船中2泊のフェリー便で往復したのだが、今の時代でも船便が可能なら、一度は体験しておいて損は無いだろう。
 少々大きい船でもたかが200メートルくらいなので、ものの2~3時間で船内を歩き尽くしてしまい、その後の退屈凌ぎのタイヘンさは他で滅多に味わえるものではない。豪華客船のアトラクションがやり過ぎなくらいやたら派手に見える理由は、一度船中泊を体験すれば簡単に納得できるはずだ。あの精神状態は独特のものであり、大航海時代の船員統率ってまさに死活問題だったのではと実感できる【126】
 最近の事だから、デッキの隅々まで歩き回る自由が無さそうなのが悲しいが、昼間は常に側舷からトビウオが驚いて飛び立ち、時々イルカの群れが面白そうに寄ってきては、船と並んでひとしきり泳いで去って行く。
 夜に陸から遠く離れた漆黒の海上で見る星空は本当に素晴らしいが、大型船だとどうしても煙突が邪魔になる。でもやっぱ今どき夜となると、もうデッキは間違いなく立入禁止かなあ。

 終戦間近の頃、太平洋を渡った米軍が侵攻してきて、沖縄は日本国にとって本土決戦の場となった。戦史を語る遺品には出遭えなかったが津堅島も激戦地だったらしい。

 那覇から復路フェリーに乗る最終日の日中だけ、沖縄本島を観光できた。バスの車窓から、銀色に光り輝くさとうきび畑が遠く一面に拡がる景色をよく憶えている。恐らくは『さとうきび畑』に歌われている光景そのままである。
 飛来したグラマン戦闘機が何度も機銃掃射を繰り返し、上陸してきた米兵が火炎放射器で全てを焼き払った、その僅か二十数年後の現場を私は見ている。行っておいて良かった、見ておいて良かった。

 時々思い出すのだ。
 ぎらんぎらん暴力的に照りつける太陽を『暑いなあ~』と見上げると、本当に現実として、その青空から狙い撃ちされた人たちがいた。暑さをこらえて壕に逃げ込んだところを火で焼かれた人たちがいた。
 今こんなに平和に暮らせている幸運はタダではない。そして自分らの世代でだらしなく擦り切らせて、次の世代に壊れ物を押し付けるようなことがあってはならない。

 この国を守り抜くだとか、犯罪者風情が軽々しくウソっぱち抜かしてるんじゃねえっての。
 この季節、犯罪者どもには迂闊なコトを口走る権利など無いことを確かめておきたい。
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