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【622】生命組織とむらい合戦 [ビジネス]

 厳し過ぎて申し訳ない。だが私の本領発揮で行きたい。
 また一人死んだか。だからって手を緩めるんじゃないぞ。

 もっと言おうか。今回は死んで仕方ないんだよ【338】
 悪事に手を染めた人間が一人ぐらい死んだって構わない、という理屈ではもちろんない。むしろ役所組織の中で、『仕事として、責務を負ってこうするしかない』と実作業を遂行した職員さんが犠牲になった可能性が高いと見受ける。これが当たっていたとして、もちろん法治国家のルールとして、実作業に手をかけた本人に対して違法行為の判定がくだされるのだから、彼は本来おのれを殺める以外の判断をするべきであった。
 組織が『次を出さない決意』を固める人柱だ。心より御冥福をお祈りする。

 世襲のガキが事態をナメて、えへらえへら不真面目にふんぞりかえって見せたり、議会でウソつき通した褒美として、セメント屋がペテン眼鏡を税務署のトップに昇進させるふざけた職権乱用をやったり、そのペテン眼鏡がどこから見てももうバレバレの偽証でとことんとぼけ通したり。まったくもって正気の沙汰ではない。
 こいつらがまさに『人が死ぬまでボケ続け、人が死んでもボケて理解できない』組織認知症なのであり、認知症患者に大事な重保業務を預けていたのだから事故で人が亡くなった。そういうことである。

 まずこの話題に対する反射的な心象として、『人が亡くなってるのに、事情はともかく止めときなよ』という抵抗感は今や捨て去るべきである。
 事情はともかく…ではなく、それは犠牲者を出すような凶悪な組織体質を容認する方向性の無責任な自粛意識であり、言ってしまえば、これもまた危険な風土を蔓延させて平気でいられる組織認知症のイチ症状だ。
 大変に胸が痛むが、御遺族には悲しみをこらえて遺書を必要な向きに開示いただけると、間違いなく『次を出さない実効力』となるように思う。日本社会を前に進める『動かぬ物証』になると見受けるのだが。

 続いては、ペテン眼鏡に『辞職したんだから、もう関係ない』の理屈を通させないことだ。
 辞めようが隠れようが、『その時その場で事態を知りおいて、国家重大事象の判断根拠となる内容の情報を言論した』という事実は揺るぎない。あらゆる法解釈で所在を特定・管理し、白日のもと断罪の場に引きずり出すのが、日本社会の司法機能の役目だと思う。
 で、まず絶対に逃がさないのがひとつ、そして退職金をビタ一文出さないのがもうひとつ。
 『経緯はどうあれ、その仕事に就いていた実績がある』のではなく、『これまで公務の職務ポストを悪用し損害を発生させていた』と判定するのが日本社会の過半数だろう。
 元来、常識として『ハイ辞めました、もう元いた職場とは関係ない、ナニ訊かれても他人になったので答えられない。ただ辞職しただけなので退職金』という理屈なんか立たないのだ。これまで国家運営の現場が人知れず組織認知症を患っており、『そんな理屈は立たない』という当たり前の真理を理解できずに諦めていただけの話である。もう繰り返してはならない。

 まずペテン眼鏡を追い詰めて締め上げ、洗いざらい吐かせてその違法性を処罰する。
 次が、ペテン眼鏡の違法行為を承知して、公務の重責ポストに就けたセメント屋の処分だ。
 更にその次が、こんなものを『適材適所』とうそぶいた世襲のガキの責任追及だろう。
 間違えた人事で物事を動かしたので、犯罪が起こり犠牲者も出た。変えねばならない。

 ここでもうひとつ確認。あたかも役所が偽造文書を出したことが単独事象として不正であり、だから『役所とは別の、与党からも疑問・批判』という理屈も全く通らない。国民周知の通り役人組織と与党は手を組んでおり、その意思決定は実質一枚岩に乗っかっている【592】【606】
 繰り返すが、もうテロ等準備罪あたりから立法する国家意志の認知能力が明らかにおかしくなっており、還暦公務員新設を前提にしてなお隠蔽されながら進められている軽減税率はもちろん、今年度予算も丸ごと一旦ゼロベースの御破算に戻さないとダメである。
 この犯罪者政権の議会運営姿勢に対する野党の反応は正しい。変革が必要だ。

 さて少し生命科学の視点に立ち戻ってみよう。
 人間の社会組織が『進化の道を歩む生命体の一種』だとすると、人間単体スケールで『老衰して社会組織の負担になってしまうような個人は、自然に組織から離脱していこうとする』性向のDNAが種の存続確率を上げるはずだ。
 つまり群生の生物には『老衰で弱った個体は、おのずと組織の皆が嫌がり困るような振舞いに執着するようになる』とする仮説が立つ。老廃物は宿命として、積極的に故障・苦痛の情報を発信し、組織本体の炎症を呼び起こしにかかるワケだ。
 原始生活にあっては、皆に住居を追い出され生活の共助を拒まれ、集落から離れたところでひっそりと孤独に息絶える選択肢があった。だがこれが、近代文明の諸事情が絡み合い、副次的な人為ロジックの展開としての人道・倫理議論が繰り返された結果、それが許されなくなった。
 『人間個人の生命の大切さ』は否定しないが、『周囲の社会との規律ある協調性』まで同時に保証・管理する覚悟を決めないと、社会世代の新陳代謝の焦げ付きが組織認知症となって現れ、『組織スケールの生命の大切さ』が危なくなるのである。終わりの無い進化の途上にある『現代文明人類の社会組織』は、いま組織と個人の本能をフラクタル視で見直して、この進化フェーズの現実解を導き出さねばならない。

 う~ん、心ならずもえらく厳しいシメになっちゃったなあ。次回はちょっと怖い話にまでなりそうな気がしているのだが、直感的な『厳しい』『怖い』というココロのブレーキ作用って、どんなメカニズムで、この世で生きてDNAを紡ぐ人間の生存本能に忠実なのだろう?
 落ち着いて考えれば、明日の姿の輪郭が見えてくるかも知れない。ひるむな!
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